Saturday, January 19, 2013

山ブームに思う


■ テント泊とキャンプの違い

山のテント泊とキャンプ場で行うキャンプは大いに違う。

キャンプ場には、電源も、炊事棟も、トイレもあるけれど、山のテントサイトにはない。

そんなこと、当たり前のことだけれども、初めて山登りをする人は基本的に日帰りのハイキングからはじめるから、電気も水道もあまり必要自体がなく、せいぜい麓にちゃんとトイレがあればいいや、ということなので、あまり事の重みに気がつかない。

一泊するようになっても、山小屋には水道はないけれど、電気はあるし、トイレもある。

だから、9割がた普段どおりの文明生活が送れるので、やっぱり事の重みに気がつかない。

ところが、テント泊になると、やっと少し気がつく。トイレ、どうしましょう? お水、もう1Lしかない。

突然、自分の持っている水の量が、自分の歩ける行動範囲を規定していたりすることに気がつく。

自分の背負える荷の重さが、そのままイコール自分の歩ける距離だったりする。

だからテント泊が流行るのは良いことだと思う。



■ 人間は弱い

そこで芽生えるのが、野生動物への敬意の気持(笑)やつらはすごい。人間なんかよりすごいじゃないか!

素っ裸でどこまでもいけるんだ。人間はシェルを一枚、ダウン一枚ダメにしただけで即座に
低体温症という命のリスクに晒される。 自然界の中で何を食べたら生き延びれるのか?それも知らない。どうやったらお家に帰れるのか?そのための嗅覚もない。

人間は弱い。 その事実が身につまされる。 

人は水を携行すべし。人は火を携行すべし。

マザーネイチャーは美しく気高くとも、ちっとも人間を特別扱いはしない。

■ 厳しいのが自然

一般に都会から来た人は自然を知らない。というか、自然の美しさしかシラナイ。

なぜなら、写真が伝えることができるのは美しさだけで、厳しさではないからだ。

遭難者の写真が出ることはまずない。白骨化した動物も見ない。どれほど寒いのかも実感としては
分かるようには報道されない。

数々の美しい風景写真が都会人の頭にインプットされ、山を見て、あ、写真と同じだ!とか、TVと同じだ!と言って感動する逆さま現象が起きているのだから。

だから、自然と親しむということにセンチメンタルな思いを抱いていても、都会人のせいではない。
誰もが同じ環境におかれたらそうなってしまうだろう・・・。

地下鉄とインテリジェントビルが回廊や地下で繋がった、雨が降っているのかどうかも分からない生活が日常なのだから。青白い蛍光灯の下で、昼も夜も関係なく働く、生きたロボットが人間ってわけなのだから。都会では人間性はすでに喪失されているように思う。

そんな息も詰まる環境では、”自然”というものは、デフォルメされ、一つのスタイルに作り上げられている。 新車のコマーシャルとなんら変わらない。一つのプロパガンダとなっている。

それは寄せては打ち返す波と同じことで、流行という一時の浮かれ話に過ぎない。別にそんなブームがなくても、そんな中にも自然の営みは淡々と続くし、続いてきた。

森の○○、自然歩きの○○・・・ 色々なキャッチフレーズが飛び交うけれど、結局は、小枝を箸置に使いましょう的な、基本的には、都会人の自然への郷愁を具現化したもので、それは一つのスタイルに過ぎない。 

本当の自然の中っていうのは、小枝を箸置きにしましょう、なんて悠長なことは言ってられない。小枝が箸そのものだったりするわけだ。あるいは狩りをしなくてはいけなかったり。

いくらナチュラルでも、コットン100%を着ていたら、雨が降ったら山では冷えてとんでもないことになってしまう。

自然の厳しさを垣間見ると、そうした山ブームの皮相さが透けて見える。そして怖くなる。

自然の中に行き続ける人のタフさに敬意を抱くようにもなる。

ところが、自然の本当の姿を知る人たちは、都会人の遊びでしかない山登りや昨今の自然ブームには、冷ややかな目さえ向ける。

が、皮相とも言える山ブームからホンモノの自然愛好者を育てる義務があるのはむしろ自然の何たるかを良く知る彼らなのではないだろうか?

まぁそれはさておき、

・・・そうした、自然ブーム、登山ブームの奥行きの浅さは万人が理解しておかなくてはならない。

それはただのスタイルであり、一過性のものなのだ。かっこいいサバイバルジャケットやダッチオーブンを使った料理が一般受けする。

それでも、人が自然に目を向けない世界より、向けている世界のほうが良くないか?

■ 自然度と体力度

もし、雪山をやっていれば、衣食住を背負っていないことのリスクはとても大きい。たとえ山小屋があっても、だ。

そうした意味で、衣食住を背負う山行が視野に入ってくると、山小屋よりもずっと自然度の高い場所に目を向けるようになる。

すると、驚いたことに、日本では本当に自然度の高いところは、実はもうほとんど残されていないということに気がつく。

これまでは山にトイレがないことに嘆いていたのに、これからはこんなところにまで林道が来ていることを嘆くようになるのだ。

本当の自然は、どこに残されているんだろう?

そう実は、もうほとんど残されていなかったりするんだな。

開拓されつくし、味わいつくされた土地、日本。日本は古い国だから未開の地、ラストリゾートというような秘境はもうない。

けれども日本の自然の再生力は偉大だ。ほっとくとすぐに自然に帰るのが日本の自然なのだ。

という事情から、結局は、人の手が入らない場所=不便な場所=時間がかかる場所=秘境となる。

そうなると次は、その人自身の体力が、歩ける距離が、担げる重荷が、自然度の高さとつりあうようになるんだな。

要するに 体力がなければ自然度の高いところにいけない。ただそれだけ。

ココでジレンマ…沢も籔も人目につかないほうが自然のままに残るから返ってよいのではないか?

体力がなければいけない場所が体力のない人にも行けるようになってしまえば、もう既に自然破壊の一歩を踏み出したことになる。 いわゆる俗化、だ。

このようなジレンマが延々と繰りひろげられるわけですね。

People come and go.

人がいない山と人気がある山が永遠に世代交代を繰り返しながら、自然の再生と破壊が繰り返されていく・・・それが日本の自然の在り方なんだろうな。

そうして大事なものだけがひっそりと誰にも知られることなく去っていくのだ。

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