甲斐駒方面 |
■ 明日も山
先週は木曜に南岸低気圧が来て、雪を期待すると残念ながら雨だった。
が、今週は、金曜にちゃんと?雪が来た。
それで、遠くまで出かけなくても、ご近所の山々が、快適な雪山に変貌したのではないか?と、近所の山に出かける計画が持ち上がった。
天気を見て、好機をつかむ作戦だ。
それで、散策ついでに舞鶴城から、各、山の様子を見てきた。
御坂方面、つまり太平洋側の山々は快晴だが、甲斐駒は雲の中、北面の茅ヶ岳方面も雲の中で雪が降っていそうな感じだった。
明日の方が、八つ方面はまだ天気が良いのではないだろうか?
■ 天気
しかし、今回は、高い山では、強風が予想されている。
茅ヶ岳方面 |
今冬、八ヶ岳にはまだ1回しか出かけていない。
それも、アイスだったので、あまり山の様子を感じられたとは言えない。
それでちょっと躊躇していた。なんとなくやる気と言うより、不安がもたげるような・・・それで、昨日、パートナーの都合でキャンセルとなった時には、少々安堵も入った。
阿弥陀岳は去年、中央稜を経験している。御小屋尾根での阿弥陀岳を夫と一緒に出掛けたいと思っているのだが、御小屋尾根は長いので、夫のウォーミングアップがままならず、実現していない。
今年は雪山を安全に歩くための、段階的なウォーミングアップが踏めていない。
私自身も、山岳会に入っているのに、なぜか歩き不足感がある・・・ 長い距離を歩いていないからだろう。
御坂方面 |
最近、思うのだが、登山の力量というもの、桁の違い、などというものは、非常に分かりにくいのではないだろうか?
私にとって初めての本格的バリエーションルートは前穂北尾根だ。
前穂北尾根に行って、自分で前穂北尾根に行くという地点からは遠いと感じだ。
クライミング力のほうは、自分が思っていたようなシビアなクライミングの連続ではなかった。落ちるような危険を感じる個所はあまりなかったからだ。どちらかというとあっけなかった。
だが、それ以外の要素で、バリエーションは、自分の実力から、だいぶ遠いと感じた。
それと同時に、バリエーションへの意欲を失うような気がした。それは、そこが登れるために必要な努力の量とバリエーションを登って得られる満足の量が、かなり不均衡だと感じたからだ。
一般縦走でも同じ前穂には登れる。バリエーションは傾ける労力が大きく、ご褒美が小さい。
コレは考えてみると当然で、より困難なルートがバリエーションだからだ。
そして、その”より困難”の度合いだが、一般ルートでの登頂に必要な実力と比較すると、1:10くらいの差が開いていると感じた。
自分の実力から、10の努力でたどり着けるのではなく、実際行って見ると、100の努力が必要だと分かった、という感じだった。
自己想定 10の努力
実際 100の努力
と、つまり、一桁違った。そこまでの努力をして、そのルートで登ることにこだわりがあるかどうか?というと、疑問だと感じた。
それは私がバリエーションルートを求めた理由が、”おばちゃんが団体で登ってこない山に登れる自分になる”だから・・・かもしれない。
昔の岳人には、100の努力を傾けるだけの、内在的な動機が、憧れや哲学、がもっとポジティブな形であったのではないだろうか?
平たくいえば、そこまでして、山に行きたいのか?ということの答えが昔の人はYesだったのだろう。
■ 目標までの遠さ
山岳会に来るような人は、ある程度、一般登山者の中でも、自分は偏差値を下げる側にいるのではない、というくらいの自信を持ってきていると言っても良いだろうと思う。
私自身、北八つの白駒池の難易度1の山から、順繰りにステップアップしてきて、冬の天狗岳~硫黄縦走、正月の鳳凰三山まで3年でたどり着いたのだから、そう悪いペースでの成長には感じていなかった。
しかし、それまで成長してきたペースで、これから先も成長できる、という想定は、たとえ実績に基づいていたとしても、相当甘い考えであるのではないか?と最近は思える。
ロープワークも知っているだけの力量レベルと、使いこなせる力量レベルでは、1:10くらいの開きがある。
クライミング力だって、5.9がジムで登れる力量レベルと外岩で常に安定して5.9が登れる力量レベルは、1:20くらい違う。
その、距離感の差が、分からないのが初心者ではないだろうか?
その距離感の差の分からなさ、は、過信となって、表現される。
だから、バリエーションに行く、というようなことについては、ネガティブに、より危険を大きくする方向で力が働くだろう。
そのことを、強く感じさせられる一週間だった。
■ 分からないことが分からない状態
私はまだ分かろうとしている点で、分かっている方に入る。自分は分かっていないのでは?という不信を自分にまだ持っているからだ。
単純明快に、分かっていない人は本当に何も分かっていないから、疑いということをまったくもっていない。それで、分かっていない、ということは周囲に明快に分かる。
自分自身に過信があるかもしれない、という思いをもつことが一切ないと危険を認知できないレベルではなく、危険の存在そのものがまったく想定の外になっている。
それは、登山届なしの登山に通じるのかもしれない。風があると分かっている富士山に出向くことにつながるのかもしれない。
■ 死なないことが目標
山野井さんの『アルピニズムと死』を読んで、最も印象に残ったのは、若いころに大けがをしていることだった。
誰にだって初心者の時期があり、誰にだって初々しい時代がある。山野井さんのそれは、中学高校時代で、石垣を登ったりしている。
それと重ねると、山岳会に入って、1年目の新人と言うのは、山野井少年と同じように、パートナーがいたらな~と思いながら、実際は石垣を登るしかない時代を過ごしているのではないだろうか?もちろん、今日びは、石垣を登ると警察が来てしまうので、実際は人工壁を登るのだが・・・。
その時代を過ぎると、ロープワークを覚えたてで、失敗を経験する時代に入り、運が悪ければ、ここで死んでしまう人もいる。
だから、何が危険で、何が分からないのか分かっていない時代を、死なずに過ごすこと、それが実際は新人時代の目標なのかもしれない。
山に行きたい思いが嵩じると、安全対策に多少の甘さを甘受してでも、山に行ってしまいたくなる。
そうした思いが湧いて出るほどに、山を重要化しないのが大事だと思った。言い古された言葉だが、山は逃げない、のだから。
■ 成功体験
社会学の分野では、成功者は、自分の成功の要因を、自分の努力によるもの、と感じやすいということが言われている。
努力をする人は、努力を評価する。しかし、実際は、どんな国に生まれるか、どんな家庭に生まれるか、からスタートして、運が左右する事柄も大きい。ビル・ゲイツがソマリアに生まれていたら、巨万の富を築けはしなかっただろう、とかそういうことだ。
成功者が努力を過大評価するのは、なにも根拠がないことではなく、実際は、その人は大変な努力家であることが多い。そして、努力が裏付けになった自信を持つのは悪いことではない。
しかし、その一方で、自分を信じる癖がつくというのも真実だ。自分を信じなくては、信念がなくては、何かを成し遂げることはできないが、自分を信じすぎるということが逆に成長を阻害する要因になる時がある。
■ 登山は心理学
それを感じたのが、地図読みだった。
というのは、金石沢で、ルートミスを犯したからだ。 金石沢は3度目だった。だから、地図を見ないで進行した。(当然地図は持っていたけれども)
3つある堰堤のうち、最後の堰堤がちょっとした核心部になっており、今回は右岸を巻いた。前回は左岸から取り付いたのだ。そうすると、本流が視野に入らずに、支流に入ってしまったのだ。
しかし、問題は、その間違いになかなか気がつくことができなかったことだ。
自分を信じすぎている。
標高はとっくに目的地を越えていたし、歩き出しから1時間程度で到着という時間の感覚からも、もっと早く気が付いてしかるべきだった。
しかし、気が付くのがかなり遅れた。
気が付くのが遅れた量は、そのまま
・体力の量
・自分を信じる量(悪い意味で)
だと思った。自分が正しい、という思いが強すぎる、ということだ。
登山は、心理学だ、と最近強く感じる。 どのルートに行けるか行けないか?という判断もだし、地図読みもだ。
今は自分を疑う、自分には見えていない事柄がある、という想定で進むことを学ぶ時代にいるのかもしれない。
一般企業におけるリーダーシップでは、経営者は大きな誤りを犯した際に、自分には見えないリスクがあった、それを想定していなかった、と振り返ることが大きい。
それと同じようなリスクが山にもある。分からないことが分からないかもしれない、と想定することは大事だ。
それは、単純な一山行においての地図読みもそうであるし、また、登山を続けていく、学んでいく、ということにおいてもそうであるようだ。
一山行においてガイドが得られると幸運なように、登山を学ぶという点でも、指南者が得られるということは、非常に幸運なことだ、と感じている。
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