Wednesday, January 14, 2015

ぶどう畑で考えた 山での遭難のこと

■ぶどう畑

今日はワイン講座で知り合った方のぶどう農園にお邪魔して、ぶどうの剪定をしていました☆

と言っても、お邪魔して一回目はいつも、説明がたくさんで覚えきれないほどなので、お手伝いに行っているのか、邪魔しに行っているのか?という具合です(^^;)。

私は山梨へは夫の転勤で来ています。貧乏であっても、山梨でしか経験することのできないことをしたいと思っています。

それで、山梨に来て1年目は、実は畑をしていました。都会暮らしでは畑を借りて、野菜作りをすることは、到底かなわない夢だからです。≪畑の記事

ところが山梨では、貸してくれる畑を見つけるのは一苦労。行政がやっている貸し農園は3年先まですでに予約でいっぱい

統計によると、耕作放棄地はいっぱいあるのに、どこも貸してくれるところがないのです。

近所の空き地に頼みに行っているから、知っています・・・。

色々探して、やっと見つけた先が明野でした。が、ほんの5畝程度の小さな面積に1年5万円もの賃料で、山梨県民相手の相場と比較すると、約10倍の賃料を取られていました(汗)。

さらに、マルチなどの資材や苗を入れると大変なコスト高。畑に行くのに1時間かかり、必要な作業は、小さい畑なのでせいぜい30分。

収穫最盛期は二日に一回は通わないと、あっという間にトマトなど熟れすぎて割れてくるし、明野は、山に近いので、ハクビシンや猿、シカ、などの動物の餌食にもなる。自宅から、距離が遠い、小さな家庭菜園は、合理的でない面が多いと分かり、1年であきらめました。

その後、千代田湖に田舎暮らしをしているアメリカ人の友人の畑を手伝う程度で、山梨での活動は、登山のほうに集中することにしました。

今日は、11時半から17時まで畑にいましたが、終始遠くの南アルプスまで見通せました。 

今年は登山だけでなく、ぶどう畑を通じても自然と親しむ暮らしができたらいいなぁ…なんて思っています。

太すぎるのも良くない
■ 冬山より寒い畑 

「冬山なんて、とても、とても」 

と多くの人は思っていますが、実は、今日の畑の作業より、冬山は寒くないです。今日は寒かった~。

これは私が悪く、いつも畑で履いていたゴム長に冬山用のソックスだけで出かけてしまったからです。

畑の作業は、手は動いていても、足腰を動かさないことが多く、あんまり運動量がないので、体が冷えます。

それにくらべ、冬山はずっと歩いていますから、とっても体は温かいのです。それがー17度という日中の気温の八ヶ岳の樹林帯で、登山者が理解することです。

つまり冬山っていうのは、イメージ先行型、なんですね(笑) 意外に寒くないんですよ。山ウエアは優秀ですし。

私は冬山を歩いていて、いつも思うのですが、山を歩いていると人は寒くないように、人生も同じではないでしょうか? 

人生が寒い(=生きていてタノシクナイ)のは、勾配がない(=苦労がない)からではないんですかね?

■ 剪定は核心

今日は、ぶどう畑で必要な作業は、剪定、と聞いていましたので、私は、「だいじょぶだろうか…」と思いながら、伺いました。

というのも、果樹にとって、剪定は、かなり重要なポイント。桃などでは、剪定専門の人がいるくらいです。

私の家の近くの、柿の木は、誰も剪定しないせいで、実がテニスボールくらいに小さくなってしまっています。伊那のほうに行ったときは、テニスボールどころか、ピンポン玉くらいに小さくなってしまっている柿の木を見たくらいです。つまり、自然のまま、と言うのは、小さくておいしくない実、ってことです。外国の果実はみな日本のものより小粒で酸っぱい。

果樹を実らせるのは、剪定した人の腕次第。そして、日本は世界一、生食用の果実の選定技術が発達した国です。外国の果樹なんて、山に生えている木と同じで、ほったらかしです。私はアメリカにいるときに、洋ナシの木と、レモンの木と、アボガドの木と、サクランボの木のなる家にいましたが、びっくりするほど小粒で、そして大量です。

■ 畑の様子


今日の畑 快晴!
私の裏山はブドウ畑です。でもワイン用ではなくて、生食用。

仕立て方が違います。私はワイン用のブドウ畑は初めてみました。

アメリカやオーストラリアでしか見たことがありませんでした。

裏山のブドウ畑、いつも袋掛けをしている姿を見ていますし、近所に直販しているところがあって、「うちのお父さんが採ってきてくれるから待ってて」の世界です。自宅の駐車場の上をブドウ畑にしている人もいっぱいです。さすが山梨!

剪定後
しかし、残念ながら、最近裏山のブドウ畑は太陽光発電にとってかわられてしまいました・・・。

景観が一気に貧弱になってしまい、とても残念です。南面の良いところはブドウ畑。畑に向かないところは別荘地になっています。

裏山はかなり石ころが多いゴツゴツした土質で、見るからにぶどう以外の作物は植えようがないなぁ…と言う感じですが、今日行った畑の土は黒く、火山灰でした。

黒ボクと言ったら言い過ぎかもしれませんが、明らかに明野の赤い粘土質の土とは違い、なんだかいい感じ。

畑山農園で、自分たちの土を持ち寄って肥沃度を見てもらい、どんな野菜があっているのか、判定してもらう、という会に去年出ましたが、持って行けばきっと良い評価が得られそうな気がしました。さらさら、ふかふかでした。

ただ土壌の性質としては、アルカリなのだそうです。アルカリ土壌はブドウに良いのでしょうか…

アルカリ土壌と言えば火山灰土。関西では火山灰度ではないので、霜柱が立ちません。霜柱は関東ならでは。関西しか知らない夫が霜柱にはいつも驚いています。

■ 明るい!冬の奥秩父

火山灰土と言えば、山では、最近出かけている黒富士周辺は火山灰土です。同じ火山灰土でも、八ヶ岳とはやっぱり違いますが、どういえばいいかなぁ…、八ヶ岳は奥秩父より、アルパインな雰囲気です。

奥秩父と言う言葉が連想させる、暗い、うっそうとした森、ダークさ、原生林、というものは、むしろ八ヶ岳の奥の方、北八つの辺りに広がり、逆に奥秩父には、実際は、底抜けな明るさがあります。

カラマツの植林が最奥の地まで達し、カラマツは冬は葉を落とすので、陽の光が山の土にまで届きます。実際はうっすらと雪に覆われているわけなので、平地にいるより何百ルクスか分かりませんが明るいのです。白く反射されて、雪の上のカラマツ林は、ごきげんなお昼寝スポット。雪なんて、水を汲みに行かずに済んで助かる、くらいな調子です。

■ I say "No" to non-risk taker!

最近起った富士山での遭難死。なんと、知り合いの知り合いであり、またもや身近に山での死を感じる・・・(--;)。

山には遊びに行っているのに、何で死んでるの!

山での死は、登山の世界の”考えの浅さ”の端的な一例です。

私が丸4年かけて登山の世界を勉強したところによると、登山の世界で遭難が絶えない理由が、今では、根本的なものだと分かります。

アルパインクライミングはリスクに近づいて行く遊びなのに、リスクを対策しないで近づいて行く人ばかりです。

そして、その態度は”仕方のないもの”と肯定されています。

つまりビレイも出来ないのにクライミングする、とような態度は肯定され、受け入れられているということです。

登山の世界には、文化的・伝統的・多数派的にリスク軽視、リスクに対応するスキル軽視、の精神があります。

そのことが分かるようになったため、登山には、最近少し幻滅気味です。

理由は、周りの人が山で死ぬのは勝手だが、私自身は登山で命を落とす気はないからです。

登山はリスクがある遊びです。逆に言えば、リスクを引き受けようという覚悟がある人だけが楽しめる、遊びです。

リスクを受け入れるということは、「死んでもいい」と思うことではなく、

「山で死なないためには、自分は何をしなくてはならないか?」

と自分に問うことです。

その答えは、

 十分な登山計画
 ゆとりのある時間
 ゆとりのある体力
 十分な装備

は基本として、

 地図が分からない人は、地図読み、
 クライミング力が不足している人はクライミング、
 どこを歩いてよいか分からない人はルートファインディング
 生活技術が遅くてタイムがかかる人は、パッキングや生活技術を磨くこと、本を読むこと
 体力がない人は、体力トレーニング
 ビレイができない人はビレイ
 ロープワークを理解していない人は、ロープワークの本を読みこむこと
 雪山に行きたい人は、雪崩の勉強
…etc etc

です。が、実際は、

 地図が分からなくても他の人の後ろをついて行けばよい
 クライミング力がなくても一か八かで行くから良い
 ルートファインディングは一か八か
 生活技術はテント泊しないからイラナイ
 体力がなくても、日ごろのトレーニングではなく気合で頑張る
 ビレイができなくても先輩は落ちないからいい
 ロープワークは教えられるまで待っているだけ
 雪崩講習会に出るのはリーダークラスだけ

という具合で、リスクは取るのに、そのためのコストを支払わない人が多いのです。

結果としては、当然ながら遭難につながります。

”一か八か登山”、”それいけ登山”、必要な装備を持って行っていないのに登山口敗退にしない、”しゃーないな登山”が多数を締め、会心の登山はあまりみません。

■ コストを払わないから喜びも少ない

最近、道ですれ違った若者が大きな声で話していて、会話が聞こえてしまいました。

「今の大人は間違ったことを教えている。夢はかなわない、と子供に教えなければいけない」

と言っていました。

違います。夢は叶わないのではなく、夢をかなえるには、それなりの代償が必要だということです。

私はまだ人生、半分しか生きていませんので、大きなことは言えませんが、これまでの人生で私は夢を叶えてきました。しかし、それらの夢の実現には多くの代償を支払いました。
今日は大七の燗にしました 寒~

山も同じです。行きたい山があれば、その山に行ける自分になるために、代償を払わなくてはいけません。代償が何かは、その時は分かりません。

キャリアを得れば愛情生活や家庭を犠牲に差し出さねばなりません。

高い地位の人には自由はほとんどありません。

華やかな職業はコスト高で収支はトントンです。

私はソフトウェアエンジニアになるという夢をかなえました。しかし一日16時間以上にも及ぶ激務で身体を壊し、それはのちに流産となって私を苦しめました。つまり夢の代償は出産だったと言えるでしょう。

多くの人は結婚し子供を持ちます。その代償は分かりやすい例でいえば責任です。自由を差し出すつもりが無ければ、子供を産むべきではありません。それを払わずして、子供だけ得ることは無理でしょう。それは今の時代だけでなく、過去もそうでしたし、未来永劫そうでしょう。

多くの人は代償を支払わずに結果だけを手に入れようとしています。

その考え方に立てば、すでに叶った夢も叶わなかったという判定をされるだけです。多くの人はすでに夢をかなえています。

ただ代償の支払いを拒むために、充足感を得られていないだけです。

本当の意味で、”夢破れる”とは、どうせ叶わないとぶつぶつ言いながら、”普通”や”当たり障りの無さ”を求める安直な精神とは、対極にあります。

努力の上に努力を重ねて、それでもどうにもならない力で叶わないということです。

山の遭難も同じです。夢の実現に努力を払い多くの代償を支払って、念には念を入れた計画で臨んだ山であり、その山への夢が破れる・・・・

同じ遭難をするのなら、そのような遭難をしなくてはなりません。

美しく変貌した雪の裏山のブドウ畑。

今はもう、太陽光パネルになってしまい、このような姿はありません。

≪技術情報≫
短梢剪定などについて

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