昨日は山岳会の新年会だった。
前の転勤地福岡では商社にしばらくいた。異業種交流会などの出席が仕事で、酒飲み力は鍛えられた。仕事で夜の酒席にもだいぶ出たから、お酒が飲める機会がうれしい・・・という期待感はもうない。
お酒は嫌いではないが、個人的に私はいつも少数の人と深い付き合いを好む。友達は少なく、付き合いは深い。新年会というような大きな会は実はめんどくさい。正直なところ、公務と化している。
■ 組織
会の長老たちには敬意を感じる。登らないのに在籍しているという点で、だ。組織への愛着と言うのは、私には分からない世界だ。
集団に属すことを誇りに思ったことはあまりなく、海外にいたときも”日本人として”というより、どちらかというと”日本人らしくない”個人の特徴が勝っていたし、”女性として”といよりも、個人の特徴が勝っている。県民性というのを発揮したこともない。母校らしさを漂わせたこともないようだし(英語科なのにソフトウェアエンジニアだった)、会社に属すというより、開発部に属しており、開発部に属しているというより、師匠に個人的に弟子入りしていた。私は人につく生き物だ。
しかし、私は企画力が強みで、自分が企画し組織した集団が、一人歩きを始める(例:起業)という活動に不思議さを感じる感性については、なんとなく、わかるようになった。
自分が発起人であっても、組織は思惑とは違う方向に成長し、多くの人を引き寄せるようになる・・・生き物としての組織は不思議だ。感慨深い、という気持ちはわかる。
山岳会もそういうものかもしれない。今の時代、山岳会は御坂に限らず、社会一般で、あまり栄えているという局面にはいない。
登山にも、時代の流れというものがある。が、山岳会の衰退は、短絡に、古くから在籍した人たちが時代遅れで悪い、というわけではない。むしろ、山行は今はやらないのに退会しないでいてくれるありがたい人たちだ。
■ 山人の魅力
そういう人たちにとって、新しい人である私は、ただ新しい人というだけで価値がある、となる。
ただそれは、正しい新人の魅力のあり方ではないし、私がそうでありたいと思う魅力のあり方でもない。
女性だからという理由で一緒に登りたいと思われても、私がそうでありたいと思う魅力ではないし、若いから、という理由もそうではない。
しっかり者だから、というのも不可。実は全然しっかりはしていないし、私はむしろ、山で普段のしっかり者を脱ぎ捨てたいと思っている。
山わずらいを癒してあげたいと思ってもらうのも、ありがたいが魅力ではない。山わずらいは自分でしか癒せない。
では、山人が山人として、他の山人を惹きつけるべき魅力とはなんだろうか?
私にとって一緒に出掛けたい人は、リスクコントロールのしっかりした人だ。自分自身が不安を呼び起こされ、アラートされるような不安を呼び起こす人は疲れる。
■ 極相
こうしたものは相対的なものかもしれない。
AさんはBさんと行くとリスクが高まる。Aさんにとってはストレスだが、Bさんにとってはストレスではない。BさんはCさんと行くとリスクが高まる。すると、BさんはCさんと行くより、Aさんと行きたい。この構図が定着すると万年セカンドになる。
最近は逆に万年トップは、もしかして万年トップが単純に楽だからそうしているのかもしれないと思うようになった。自分のしたい山をするためには自分がトップでいれる方が楽で心地よい。
そうして、二つの事情は互いに合目的し、安定した極相に入る。森林の変遷と同じだ。極相、クライマックスの安定状態。一般に森林が更新されるには、局所的な破壊が必要だ。
■ 登山教室
山岳会全盛の時代は終わり、山の登り方は変わったらしい。
山岳会に新人の教育を求めてはいけないのではないか?と入会以前から考えている。
最近立ち読みした、岩崎元朗さんの著作にも、「今、先輩後輩システムは、縦のギブ&テイクが存在しないため、難しい。新人は登山教室で対価を払って教わるべきだ」とあった。
正直なところ、昔の山岳会が、確保器の使い方を教えていたのか?
否、らしい。 確保器の使い方なんてものは、取説を自分で読めば分かることだ。だから誰も教えない。それでも読んでこないような人は、お呼びでない。ただそれだけ。
だから、今の山岳会のレベル低下は、そのまま、何もかもを教わろうとする新人の、レベル低下、という話に過ぎないのかもしれない。先輩が教えてくれないのではなく、そんなことは出来て当然だったのだ。
私はプルージックでのぼり返しを教わったのではない。ただ自分で本を読み、やっておかなくてはと思い、その機会を作っただけだ。自分で講習会を主催した際に講師を求めた。それは教わったというのとは違うような気がする。空中脱出は大町の講習会でもやっていない。
■ 登山学校?
では、今、山をやる人はどこに教えを請うべきなのだろうか?
岩崎さんによれば、”登山学校”ということになる。登山学校を主催している岩崎さんがそういえば、多少我田引水の感は否めないが、一方で、
教える側の人材の不足、と、
教える側の休日の不足、
の2点から、山岳会は新人が育つところではなく、育った人が行くところだ、というのは否めない。
が、
教育的山行、講習会的山行、は、新人と新人が同じレベルの知識を共有する場、
として優れている。
講習会に出た者同士は一致した技術への見解を持っていると言えるからだ。パーティで知識レベルがバラバラだと統率がとれない。
■ 講習会
ともに育つ仲間が欲しいと思い、山岳会の戸をたたいた。
しかし、母数がそもそも少ないので、ともに育つ仲間を得る場としては山岳会はどこも限定的だ。
したがって、山岳会は仲間を求める場としては向いていない。向くのは、多くの人と交流できる講習会やイベントだ。
■遭難に至らない道
多くの人は、結果を求め、プロセスを求めない。つまり、山に落とし込むと、〇〇というルートが登れれば良く、そこへ至るまでのプロセスで成長していく自分に楽しみを見出すことがない。
出来なかったことができるようになればうれしい。
出来なかったことができるようになった結果としての山であれば、それは当然うれしい。
が、単純にガイド登山で登られている山だから、自分も行けるだろう、という予測で行き、ラッキーで行けちゃった山はタノシクナイ。
それは単純に時限爆弾を抱えるだけだからだ。いつかは遭難へ至る道だ。時間が早いか、遅いかに過ぎない。
遭難に至らない道を模索していると、困難を感じる。技術的困難と言うより、環境的困難だ。
もし、技術を求めず、遭難に至ることのない道を選ぶなら、一般登山者レベルの冬山で、すでにそのレベルには達してしまっている。つまり冬の八ヶ岳レベルだ。
若かろうが年を取ろうが、天狗・硫黄程度に登っていればよろしいという話になってしまう。それであれば、登山1年目ですでにマスター済みだ。フリーの岩に行っていれば良く、夏は一般道を縦走していればよい。沢なんぞは行かないでよろしい。アイスはゲレンデでよろしい。つまり、皆がそのような所に落ち着いているのが今の時代だ。
最近はそうした意味で、すべての段階、すべての世代で、レベルダウンしており、そのレベルダウンが、山での死をも誘発している。
行けちゃったから行った山をつなぎ、ラッキーで生き残る、あるときに滑落して死ぬ、あるときにルーファイをミスり死ぬ、山を舐めていました、そんな登山ばかりだ。
そのようなあやうげな登山ではない登山を示してくれる世界はないのか?
そこが私が模索して、座礁に乗り上げている点なのかもしれない。
安定した正しい道を歩いているという確信がこのところ薄い。
今日の金ヶ窪沢アイス |
ずっとこのブログのファンでしたが、今回、私の思っていた事が的確に表現されていたので、投稿します。
ReplyDelete>教える側の人材の不足、と、教える側の休日の不足、
>の2点から、山岳会は新人が育つところではなく、育った人が行くところだ
>縦のギブ&テイクが存在しない
山岳会の指導的立場にあるヒトのn数が少なくなっているから、仕方ないのかもしれませんが、山岳会自体が
短いスパンで新人にお返しを求めている気がします。
なので新人は山岳会から離れてしまうのが、よくあるパターンなのでしょうか。
でも極相の森にも変化は生じます。ギャップや大規模かく乱。
登山の世界においても、じっとしているよりは行動することかもしれません。ギャップに生えてくる陽樹を目指しましょう。
いつもありがとうございます。 そうですね!ギャップに生えてくる陽樹、良い表現です。
Delete山岳会自体が短いスパンで新人にお返しを求めている、というのは、自分の会ではありませんが、時々感じることがあります。
今の時代は、企業決算も4期毎だし、何事も短絡的に結果を求める、それが山の世界にも来ているのでしょうね。
一方で貢献の精神がないまま30年経ってしまっている人もいます。極端な時代です。