透明な光・・・ |
やっぱり、沢、それなりに疲れていたんですねぇ…。
沢では小鳥のさえずりで目覚めました。
小鳥のさえずりで目覚めること…それは、人間に与えられた至福の一つではないかと常日頃思っています。
ただ今の家で残念なのは、小鳥だけでなく、すぐ50m位先の旧道の車の騒音が、小鳥のさえずりのバックグランドミュージックなことです(^^;)。 まぁ贅沢は言えませんね。
■小鳥のさえずりで目覚めること
小鳥のさえずりで目覚めることを人の暮らしの理想だと思い始めたのは、20代の前半にアメリカに渡航してからです。
渡航先の家は、家と家の間が、隣が見えないくらい遠く隔たり、バックヤードといえば、日本の水田一田くらいあり、家々は、それぞれ林に囲まれ、フリーウェイから木立の中を縫って、やっと辿りつくのです。スーパーまで徒歩40分。
クリアな空気 |
ダイニングからは、マウントディアブロが見える。よくコヨーテが出る山でした。(ディアブロというのはスペイン語で悪魔と言う意味です)
その後10年くらいして、カンザスシティに出張でいくことになったのですが、その場所は、日本人の同僚に言わせると”何もない”場所でしたが、やはり小鳥のさえずりで目覚めることができました。
そこは実は全米第三位の高級住宅街でした。”何もない”のではなく、”大気汚染されていない空気”と”木々の緑”、”静寂”、”小鳥のさえずり”、”プライバシー”が”ある”のです。
都会で失われて、高額な対価を支払わないと、手に入らないモノがある…のですが、”何もない”ものの一つに”仕事”も入っているので、なかなかそうした地に住むのは、現代人には難易度が高いことで、やむなく私も町に住まざるをえません(笑)。
これらの経験で、私は2度、アメリカが理想とする”豊かさ”の意味を知ったことになります。
私がアメリカ人に深い共感を覚える時は、こういう価値観を垣間見るときです。彼らは”便利”より、”小鳥のさえずり”に対価を払う。
何を取って何を捨てるか?そこは価値観が現れます。諸外国は、多くの場合、便利を捨て、不便でも、豊かさを取っています。たとえば、原発を捨て、風力エネルギーだとかですね。
が、日本人にとって至上の価値観は、戦後50年間、便利とカネの二本立てしかありませんでした。
この1か月間のカンザス出張でも、小鳥たちとともに早朝に起きて散策する特権を理解しているのは私だけで、他の同僚はこれ幸いと9時直前まで寝ているのでした…。そして、コンビニがない、ATMがない、休みになっても行くところがないと文句を言うのです。
私は朝は散策し、平日は、元神父の守衛さんと知り合いになり、ランチメイトとし、、ビジネス相手と知己になって、休日には地元を案内してもらい、何もないと感じることはありませんでした。
何もないのではなく、そこにあるものが、めくらになっていて見えないだけなのです、たぶん…。
■ 風を感じて寝る
私は風を感じながら寝るのも、人間に与えられたシンプルで原始的な喜びだと思います。
子供のころから結構夏は、いつも窓を解放して寝ています。
台風の時などは、わざわざ窓辺に寄って、はじけ飛ぶ雨のしぶきをわざわざ浴びに行くような子供でした。
熊本県民は二の丸公園が大好きで、みな休日にはピクニックに出かけます。よくそこでピクニックシートに寝ころんでいる大人を見かけました。
私は高校時代には、その公園の近くの森に、中に座ることができる、洞がある大木を知っていて、そこで本を読むのが気に入りの過ごし方でした。せいぜい20分程度のことですが、その場所があることが、ホッとする。
熊本では美術館の裏がちょっとした森で、大木が茂り、北岳の広河原のそばに行った時には思い出しました。登山の人は、すぐ山に登ってしまって、ほとんど歩いているところを見たことがない場所です。
私の希望は、沢や山で、こうしたお気に入りの秘密エリアを見つけ、サードプレイス化することです。
■ 空気、水
山の空気は本当においしいですね。 昨日は、沢沿いでは、山椒の枝が多く、藪をかき分けるときに、山椒の香りが立ち込めました。素晴らしい!
沢の水は冷たく、おいしい。コーヒーを入れれば名水コーヒーです。ご飯を炊くとおいしいのも、塩素でない水で炊くごはんだからかもしれません。
現代社会は、価値がおかしな具合に反転しています。
たとえば、家庭生活で塩素を抜こうと思えば、高級な浄水器に投資しなければいけなくなり、キレイな空気を吸おうと思えば、空気清浄機が必要になります。運動したいと思っただけで、外が危険だからという理由で、スポーツジムに通わなければならないので、最低でもコスト年間10万円です。その10万円のために嫌な思いをして働かなくてはいけないのです。
生命の美しさ |
実際、まったくその通りで、ただ居る、というそれだけにものすごいお金を払わされています… 家賃がかかる場所に存在することができなくなれば、人間は浮浪者(つまり野良人間さん)にならざるを得ません。
口の悪い友人が、今、若い人に登山が人気があるのは、お金がかからない遊びで、将来浮浪者になるかもしれないリスクに、体よく備えることができるからだ、と言っていました。
でも・・・そ、そうかもしれない・・・(ため息)・・・
実際、山でも山以外でも、本当に世代間ギャップはすさまじく、若者は貧しく、高齢者は豊かですが、そのギャップに団塊の世代以上の高齢者にはまったく気がつく能力が欠如しています。
社会が大きく変わったことに気が付いていないのです。いまだに右肩上がりのバブル気分と言うわけです。それが今、政治家が、箸にも棒にもかからず、使い物にならない理由ですね。拡大するしか作戦を知らないので、やることなすこと、逆効果です。
ちょっと話はずれますが、自民党政権になって以来、甲府ではコンビニや大手外食、スーパーなどの進出が著しく、一見豊かになったように見えます。、本質は逆です。 なぜなら、ビジネスと言うものは、当然ですが、売上が投資を上回らないと進出しません。 つまり、受け入れる側は、投資額以上の売上を差し出す、という意味です。雇用が増えると言っても、その雇用費用は、売上から出されるわけで、100円をもらうのに1000円払うって意味です。 そもそも、消費が拡大するというのは、豊かになるという意味ではなく、貧しくなる、という意味です。豊かになったのは進出した企業側です。みんな誤解しているようですが・・・。
静けさ |
たとえば、日向ぼっこするとか、木陰でのんびりするとか、夕陽を眺めるとか・・・です。
日中、会社のオフィスにしばりつけられ、青白い蛍光灯の下で働いているビジネスマンには、休日にならないと得られない幸せです。
それらは、ぜ~んぶ山にあるものです。
■ 自然とお近づきになる
登山というのは、私に言わせれば、私が子供の頃、吹き荒れる風と雨と雷の台風に魅了されて、雨が叩きつけるベランダに突っ立っていたように、自然というものに驚嘆を持って触れる、という活動です。
子供の頃、ベランダに立っていたのは、ベランダは安全だからです。そのベランダに値するのが、山では山小屋です。
清廉 |
誰でも、一時も姿を変えない、川の流れに魅了されたり、波打ち際で空くことなく、波が寄せては引くのを眺めたことがあると思います。
夕陽が刻々と空の色を変える様子などを時を忘れて眺めたり、などです。
そのための安全地帯、それがシェルター…。
今回はモノポールシェルターを使ったのですが、私はシュラフがしっかりしていたので、タープで寝れると思いました。
去年七倉沢ではブルーシートの下で雨を避けているだけで、下はマットだけでタープの下で寝たから、雨に頬を叩かれなければ寝れるなと思っています。
挑戦 |
■ 自然の二面性
九州では大雨や台風が大阪や甲府の比ではなく、まさに神の怒りを感じさせるほどに荒れ狂います。
その荒れ狂う様を見ていると、どうしても何がそのように神を怒らせたのか?となんとなく考えずにはいられません。
人間の強欲を思わず思い起こさずにはいられま
せんが、大荒れが収まった後の空は、この上なく美しく、まったく神の表情の二面性に驚くばかりです。
そういう自然がもつ、二面性というものを、登山では感じることができるのが、登山の良いところかもしれません。
自然というのは、恐ろしいもの…恐ろしいというより、畏れるもの… 驚嘆をもって見つめる対象、です。
楽しい仲間 |
■山はサットバ
サットバ、純粋性と訳されますが、ヨガでは他にラジャス(激性)、タマシック(停滞性)と3つに物事の性質を分けます。
分かりやすくするために例を挙げると、
サットバ ⇒ クラシック音楽、赤ちゃん、芽吹いたばかりの木、光、果実などの甘い味のもの、新鮮なもの、神聖なもの
ラジャス ⇒ 競争社会、スパイシーな食べ物、造山活動、ああいえばこういうでキリがないもの、男性と女性のように対比されるもの、音楽ならハードロック
タマシック ⇒ 腐ったもの、腐敗を利用した食品、淀んだ水、皮革、疲れ、闇、匂いが強いもの、死
ヨガをやっている人はタマシックを避けるために、食事も菜食になり、動物質食品とにんにくなどの五葷(ごくん)を避けるようになり、衣食住が質素になります。
命の喜び |
が、必要がないラジャスやタマシックを好まなくなります。
私が思うには、沢ほど、サットバとタマシックが両方の表情を見せる場はありません。
沢の流れは清流です。さわやかでマイナスイオン満点です!
でも、ちょっと行くと汚れた水たまりには蚊が湧いており、ひどい崩落痕がそこかしこにあります…。
今回はシカの死骸をみました。見た目は清流の沢も、よくよく科学的に衛生度を調べると、とてもサットバとは言えず、むしろ沢は山の下水道と言えるような、不潔な場かもしれません。
■ ラジャスな人々
私が嫌いなのは、サットバな山に、ラジャスな価値観を持ち込む人です。
大体の傾向ですが、団塊の世代の人で、社会の成功者と自分を目している人は、ラジャスな人が多いです。
学歴志向、職歴志向、人を品定めする人です。
山の話がどうも、行ったことがある自慢話に陥ることが多い…アルパインをやってきたことがあるくらいの(たぶんちゃんとしたヤマをやってきただろう)人でも、団塊の人はそうです。
若いころは誰でも自分の力を知りたい、挑戦したいという思いがあるのが普通です。
しかし、年を取るにつれ、他人との比較と言う視点を失います。
つまり、自分と山との間に他人が介在しなくなる。
それまでは、自分の能力を知りたいための山です。
そこに他人との競争が入る人も多いです。
それは人間の弱さなので、許されることです。
が、そうした山はラジャスな山で、それに巻き込まれることだけは、避けたいものです。
「こんな山にも行ったことないの?」
とか
「これくらいも知らないの?」
「これくらいも登れないの?」
などと、煽ってくる人は無視しましょう。
山の本当の良さは、山自体が持つ純粋性にあると私は思います。
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