朝4:00…昨夜夕食を食べていないから、朝はスッキリと目が覚めた…いつもこうだといいのだけれど…。遅い時間の夕食は、アーマ(未消化物)が溜まる。アーマが溜まると体が重い。で、もって、会社が少し配慮して夫を早く帰宅させてくれると、私は痩せることができると思うんだが…(笑)
とにかく早起きはできた。けれど、今から行こうとしているところには、ちょっと早すぎて、時間を持て余す。熱いコーヒーを淹れながら…(最近はエアロプレスだ)、ダウンドッグをして背中を伸ばし、アキレス腱を伸ばす。毎日同じことの繰り返し。
まずは白湯を2杯。そしてコーヒー。朝はこれだけ。ざっとメールをチェックする。
ザックの中には何にもまだ入っていない。今日は運悪く買い置きで持って行けるものがない。ので水筒にお湯を詰め、日帰り用の装備を入れても、ザックにはまだゆとりがあり…と思いながら、カメラは置き忘れて行ってしまった。バカだなぁ。
スマホがあるからいいや、とスマホを見ると、充電具合が心もとない。最近、自分の車にもシガーソケットから充電できるようにしたので(これはホント便利!)、充電しながらいくことにする。
ウエアはシンプルに登山ズボン、Tシャツ。以上終わり。この時期、これ以上要りそうにない。ストックは今から行く場所には要らなさそうだし、置いていくことにした。というわけで、この上なく身軽な装備で…車に乗る。
精進湖ラインへの道の途中には、コンビニの気の利いたのはないので…家のすぐそばのによってランチを買い足す。約800円。
明日の富士山がキャンセルになってしまったので、すごく残念だ。雪の富士山山頂を踏めるか、と思ったのに。何しろ私は、混雑した山が大嫌いなのだ。雪の時期くらいでないと、富士山なんて登れそうもない。しかし、雪の時期も残雪期の終わり以外は、滑落の危険があるし、なかなか難しい。でも連れて行ってくれる人は青空バックの山頂を見せたかった、と言ってくれ、気持ちをいただく…。富士山、来年こそ。というか、来年あたりは一人で行けてしまうんじゃないかって気がする…。
■ 釈迦ヶ岳
登山口へ。芦川というところ。ここの植生の具合がとても好きで、この村に住んでしまいたいくらいだ。
去年気に入って、登山口を偵察に来たので、大体道は知っている。
私が思うには、山登りという誰にでもできる活動で、ツアーに参加したい人の動機の半分は、アプローチの面倒くささ、にあるんじゃないかと思う。登山口までたどり着くのが大変ってワケ。実際、登山口までも一苦労で、分からないときはたどり着くまでに時間を大幅にロスしたりもするんである… これはツアー業界に追い風か向かい風か?と言うと、追い風だな。交通機関が整備されていないことが参加する動機になる。
しかし、この林道は、登山口だらけ。新道峠と言って、登山口から稜線上の縦走路まで50mくらいしかない登山口から、釈迦ヶ岳の登山口、スズラン峠の登山口、日向峠、などなど、林道沿いの登山口が一杯だ。というか林道がすごく高いところまできているのだ。その林道も細いので歩いてもそんなにいやな感じではない。誰にとっても、多彩なルートが組める。
この日はスズラン祭り開催日だから混んでいるかも、と心配しながら・・・だったけれど、それは全くの杞憂で、私はほとんど数番目の客と言う感じで、上の方に駐車できた。大駐車場はすずらん祭りの客向けに登山客は駐車できなくされていた。いじわるだなぁ。
ちょっとの林道歩きを経て、登山口からトレイルに入ると、もうそこは緑色の光のシャワーで、やっぱりどんな時も木の葉の下にたたずむということは、本当に気持ちが良いものだと思う。
足元には最近萌え出たばかりの若い草が一杯。
山つつじがシーズンのようだった。ピンクのは終ってしまって、今は赤のつつじ。
創造主はクリエイティブだといつも思う。こんなにも多種多様のものを、葉っぱ一つについてだって作り出してしまう…人間であればすぐにアイディアが尽きてしまう。 クリエイティブであることは一つの神性なのでないか?
羽虫がおかしな動きをしている・・・と思ってみたら、ありんこが一生懸命、死骸を運んでいるところだった。
こういうのをみると、あちらも頑張っているな、こちらも・・・という気持ちになる。生きているっていうのはそれだけで、えっちらほっちら&アタフタ、アタフタなのだ。
そう…今日は正直言って、大げさに言えば、今後の身の振り方(笑)を考えようと思ってきたのだ。でも、森の道は清々しく、今はこの森の中を味わうということしか考えられないなと、思索についてはあきらめる。
岩場 綱が渡してある |
最近ボルダリングジムで、傾斜がきついと言えば、オーバーハングしていることを言うので、基準が変わってしまったんだな(笑)。
これは朗報。壁でない限り、歩けそうと思ってしまう。こんな風にして、人は成長するのか、それとも山を舐めてはいけないと自戒すべきか?
登山口から一息で稜線に出、そこから最初のピークを目指す。釈迦ヶ岳。
日本の山は、連なる稜線上のひとつのピークに過ぎないので、そのひとつのピークをもってして、○○山登山と言ってしまうのは、ちょっと難があるといつも思う。だってそのピークはアップダウンを繰り返して隣のピークにつながっていて、そのピークから延びる尾根は常に連結されているので、一つのピークが支配する範囲が明瞭ではない。
だから英語でSumitという言い方はしないだろうと思う。Peaksと言う感じだと思う。たしかSFにはツインピークスがあった。あれは山とは認識されていなかった。あの山に行っても誰も登山とは認めないだろう・・・
だから、この釈迦ヶ岳も一つの釈迦が岳というピークを持って登山というのは…ちょっと認めがたいというか…だって登山口から70分…一時間少ししかないわけで。ちょっとしたネイチャートレイルと言う程度だ。
■ お地蔵様と富士山
というわけで、釈迦ヶ岳山頂には思いのほか早く着いた。目の前に富士山。
ヤマレコ経由でいただいた写真 南ア方面と私 |
今日は友人が富士山にガイドしているはずだ。今年の、この時期の富士山登山はイマイチだろう。通常は青空をバックに白い富士山の写真が撮れるはずで、それはかなり周囲の人に自慢げに見せることができる写真になるはずなんだが、実はこの時期の富士山はラクラク登山なんである。
雪のある富士山に行く動機の半分は、自己顕示欲であると思う。登山には、この、人に自慢したいという思いが切り離せないことが多い。「スゴイね」と言われたいのだ。なんでなんだろう。登るのは自分の自己満足でしかないのに。登山はあまり生産的な活動ではない。内省的な活動ではあると思う。
私は一度も富士山に行ったことがなく、また夏の混雑で行列した富士山にも行きたいとも思えず、結局行っていない。 それに、富士山はタイヘンな山だと思っているために、富士山登山のベテランの知人が、「だいじょうぶだよ」と誘ってくれたのだけど、結局、私の富士山はお預けになり、今日のこの長めのトレイルウォークが代わりに出てきた。
そのことが示唆するのは、”私の山”は、人に自慢するための山ではなく、たぶん、自分が味わうための山、なんだろうと思う。
釈迦ヶ岳山頂には、お地蔵様が山頂にある。日本らしさ。
ただ二組先客がいて、片方はとてもうるさかったので、滞在時間は5分で切り上げる。
周回ルートで下っても良かったのだが、そうすると本当に歩く時間は、普段の歩荷散歩並みになってしまうので…ピストンすることにする。
釈迦ヶ岳は、御坂山塊の稜線の後ろにある山で、ピークと稜線を連結する尾根を歩いてみようと思ったのだ。 どんな道だろう?
途中に、ちょうど地図読みに手頃そうな小さな尾根を発見する。明らかすぎるくらい、素直な尾根。ちょっと偵察に降りてみたら、テープはない。踏み跡もない。地図をみたら、登ってきた登山道は、隣の尾根で、ちょうど同じくらいのサイズ感。尾根の終点も問題なさそう。たどり着くのは同じ林道。 これなら、私でも道なき道を行く勇気が出そうな(笑)?失敗したところで、どこに出るかと言うと、どうやっても登るか林道しかない。
今、降りてみようか? いやいや…それだと、この山行が早々に2時間ほどで終わってしまう。
でも、ふと考えてみれば、今週、懸垂下降のやり方の確認作業を先輩に頼んである。地図読みの最難関は、尾根を読んで降りるはいいが、尾根の終点というものが、大体において険しいことが多いこと。
念のためのロープワークというのは、ほとんどがこんなケースだ。 つまり、この尾根には、今度戻ってきた方が良いってわけだな。懸垂下降もやれるようになってから。
樹林の色で植林区分が分かる山肌 |
■ 黒岳
地図読みを今日やるということは思い直し、黒岳へ足を向ける。黒岳のピークはまだ踏んでいない。去年秋に着たときに時間切れだったから。
と言っても、怪しげな道標のせいで用心したから、というのがその理由だった。私には、どう見てもあと登り30分もあれば、到着しそうな道に、1:10と書いてあったのだ。それで躊躇してしまったのだ。
このタイム表記がなければ、普通に歩いて行ってしまったと思う。
黒岳へは、緩やかだがステディな登りだった。ほとんど人と会わないのに、私の後ろで鈴の音がする。
熊鈴…実はキライ。だからか、とても気になる。私は持っているけど、先日会った国立公園のレンジャーが、熊鈴なんていらないと言っていたのをこれ幸いと使うのはやめてしまった。熊が怖かったら笛を吹いたり、手をたたいたり、おしゃべりしたりして、熊にこちらの存在を知らせればいいのだ。
気になる…と思い、新緑の中を舐めるようにゆっくり歩いていたのに、今度は急いでみる…あっという間に黒岳山頂だった。途中、村への分岐があった。
この辺の山は稜線に乗ると左右で全く違う景色が見える。日本が西洋的な思想を取り入れる前の、まだ藩だったような時代、山が人間の住む集落を分断する境界線の役をしていた、というのは、まったく自然なことだと思える。
それにこういうアップダウンがいくつも続く道を歩いていると、全然登っているっていう気分にはならない。
気分は散策って感じだ。どこか目的地がはっきりしている所を目指しているっていう感じではなく、気ままにうろついているっていう感じ。だから全然疲れない。
黒岳で10:30。
さてどうしようか。 ランチまでまだ間がある。ふと思いついて、御坂の天下茶屋でほうとうを食べて帰ることにする。
あそこのほうとうは、でっかいすき焼き鍋に入っていて、一見食べきれないくらい。
黒岳と御坂の間の道は、8割歩いたことがあり、まぁ2時間くらいだったような気がする。ちょうどお昼に着く予定になる。
黒岳山頂は、写真を撮ったり、おにぎりを食べたり、の人であまり長居したい感じではない。はぁ~と言って、どっかと腰を下ろした御仁がいたけれど…この道はどうみても、山”登り”じゃない。
御坂の縦走路は、よく踏まれていて、間違えようのないほど、きれいなトレイルになっている。人が踏んで作った道が、日本中の山に、良く知られたトレイル以外にも無数にある。それらの踏み跡を、もし地図にしたら、もうどこにも空白がないんじゃないかってくらい、目の詰まった網になると思う。
次のピークでも、中高年のカップルやグループで賑わっている… みんな山登り=山頂で写真、おにぎり、と思い込んでいるから、そこで写真を撮りましょうか、なんて言われてしまう…
アップダウンが100mくらいしかない数珠つながりの(つまりたくさんある)、ピークのうちの単なる1ピークで… なんだかなぁ。
思うに、御坂山塊を一つの山にすべきなんだな。そうでないと、日本の山々は、ただでさえ規模が小さいので、一つの山として完結する単位が、超ミニになってしまう…。
海外だったら、単なるネイチャートレイルっていうところを、○○登山にしてしまってはいけないと思う…これもツアー業界とかの陰謀なのだろうか?それとも?
というようなことを考えつつ、予想どうり2時間弱で、御坂の天下茶屋に到着。
旧御坂トンネルの前には、多くの車やバイク、自転車の人がいっぱいだった。
■ 天か茶屋
ランチタイムに当たって混んでいる時間だったので、おばちゃんに「奥の席に居ます」と声をかけておく。おばちゃんは忙しそうで、テーブルの上の食べ終わった食器類はまだ片付いていない…てんやわや、という感じ。
なのに、整ったサービスに慣れた人たちは、ただ憮然とした表情で、座ってしまう。一組のご夫婦が来て、片付いていないテーブルに座ったけれど、おばちゃんに気付かれないまま放置されているので、奥さんのほうは、顔がだんだん怒ってきているようだった。私のテーブルにくるついでに、おばちゃんが気付くかしらと、見ていたら、ご主人の方と目があったので、微笑みかけたら、登山をする人だったようで、釈迦ヶ岳からだというと、褒めてくれた。と言っても、そんなすごい距離には感じなかったけどな…まだ帰りがあるけど…。
ほうとうをもらう。おばちゃんは気さくな人で、登山者の方に他の観光客より好感を持っているようだった。
ほうとうは相変わらず量が多く、野菜がたっぷりで、これならヴィーガン(厳格な菜食)ではないかと思う。キャベツ、白菜、人参、カボチャ、じゃがいも、薄揚げ、セリ。七味を利かせるとおいしい。
本当はコーヒーも、もらいたかったけれど…実は財布の中には数千円しかなく、帰りに何かあると困るので、辞めておいた。コンビニが余計だったんだな。
とはいってもコンビニで買ったおにぎりは、一つ消費済み。普段、朝食べないので、登山口でおにぎりを一つ食べた。
以前、雪山でシャリバテして以来、登山前には、何かを口にすることにしている。
13時ごろ、店を出る…頃、というのは、分からないんだな(笑)。
スマホの電源が途中で切れてしまったのだ。これだから、ハイテク電子機器には、ローテクのバックアップが必要だと思う。
午後は、素直に黒岳へピストンで帰り、途中すれ違ったのは3人だけだった。
最近の山ブームで来た人は、なんだかファッションで、その旨分かる…CWXのタイツ…これって、これを着ているだけで、”新参者”、”ビギナー”、そんなメッセージを発する最強なアイテム…(笑)。
山のファッションにも、色々なメッセージが込められているなぁ…。
今日は歩きなれていそうな人は、一人しか見かけなかった。ごくありふれた格好に、ザックを背負っている、痩せたおじさん。もうおじいさんになりかけかもしれない…ベテランさんだろう、と分かるのは、ノーブランドのザックが古く、使い込まれて、派手なカラーが打ち消されて、薄汚れた感じになっていたから。山ではこういう道具はかっこいいのだ。
■午後
午後の黒岳までの登りは、ちょうどよいトレーニングって感じだった。できるだけ足を小さく置くように
心がける…背中の荷物はとても軽い。
歩荷で重いものを持たないと、足を小幅に出す感覚は身につかない、というのが、講師の持論だったけれど・・・そうなのだろうか?歩き方は、自分と同じ体重まで担げば、自然と身に着くこと、なのだそうだ・・・。
そうだとしても、教える側の人間は、軽い荷物であっても効率的に足を運べるように教えるべきで、教えることを辞めるべきでないと思う・・・そうでなければ、講師という職業はいらない。講師の代わりに重い荷物があればいいことになってしまう。自らの存在意義を否定するような発言を、人はしてしまうものなんだな。
水が切れそうで、お湯しかなく、お湯を飲む。甘いものが食べたくなり、コンビニで買ったフロランティンをかじる。
フロランティンは、訳すと、”聖フローレンスのクッキー”。クッキー生地にアーモンドのキャラメリゼを掛けた、西洋では伝統的なクッキーなんだけど、私はアーモンドはスライス派。キャラメルで固める、ということは、原理的には日本のおこしと同じ訳なんだが、なぜかおこしはダサく、古臭く、それにそんなにおいしくない。おこしなんて欧米のグラノーラバーとほぼ同じなのに。”聖フローレンスのクッキー”、なんて、名前だって宗教くさい。でも、日本語という文化的境界線?ハンデ?のおかげで、誰もそれに気付かない(笑)。
今日の山は、春の日差しと風が心地よかったのに、午後には風は止んでしまった。日差しはもうなく、うっすら曇りだ。午後の山は午前の山と比べ、神々しさに欠ける。なぜだろう?
髪の毛を、今年は伸ばそうか、どうしようか、と思う。暑い時期は蒸れるのだ。髪はまとめてしまうと蒸れるし、ショートにすると帽子で型崩れしてしまう。
縦走路には、ところどころ立派なブナの木がある・・・すごく立派だ。小さなアップダウンが続く。飽きない道。
写真を撮りたいがスマホのバッテリーが切れそうなので、いちいち主電源を落として節約しつつ写真をとる。
順調にスズラン峠まで歩き、そこから山肌を下って、すずらん群生地へ。
この下りの道は、ガイドブックでは、モデルコースにはなっておらず、色も地味な色で表示してあり、あたかもおススメではない道のようだったが、行ってみると、水場の一か所でちょっと切れている以外は、よく踏まれ整備され、木の根が露出したり、岩だったりで歩きづらい縦走路より、むしろデコボコがないくらいだった。とてもおすすめ。
この水場は、この辺の山では貴重な水場だけど・・・本当にちょっとしか取水できるところがなかった。この沢の水は安全かどうか・・・と思いつつも帰宅して名水コーヒーにしてしまうんだな(笑)。
すずらん群生地に着くと、まだ大勢の人がいた。スズランは去年別の山で見たので、そちらのほうが
自然だった。けれど、どうして、ここに根付くことにしたのかな、すずらん…。
ひとしきり、おばちゃんと話し、車に戻ったら17時過ぎ…すずらん祭りは、もうすっかり仕舞支度完了。結局、混雑した様子は良くわからないで、ぐるりと歩いて帰ってきてしまった。
途中で、芦川の道の駅によると、バス待ちの登山者の女性がいた。バスはタイヘンだ。横浜からだそうだった。甲府駅まで送ってあげ、自宅に到着が18時過ぎ。
■人生と成功
帰ったら、長い長い英語のメールが来ていた…世界はEメールで確実に狭くなっている。もう20年以上前からアメリカは隣だ。疲れに鞭打ちつつ…励ましのメールを書く…
人生の成功者とそうでないものを分ける境界線と言うのは、何なのだろう?
でも、結局のところ、成功者の人生にだって、自分だったら受け入れられない、何かが犠牲にされているはずで…その人が背負ってきた苦渋や苦難は、外からはうかがい知ることができない。
多くの人は、私が何の苦労も知らず育った人間だと思うだろう。人は相手が背負っているものを正確に知ることはできないから、その人について、外からうかがえる情報だけで、その人を判断してはいけないのだ…。
私は自信にあふれ、いつも前向きに見えるらしい。その自信にあふれるようになった経緯に、どんなつらさがあるのか、同じ自信にあふれる人たちだけが理解してくれる。
それに…実際、成功者の人生と、自分の人生を取り換えたいと思うだろうか?いや思わないだろう…誰だって腹の底では、知っているのだ。自分の人生が自分に一番心地よいと。いや、正確に表現すると、自分に心地よい人生を自分で作ってきたのだ。
なのに、青く見える田を羨まむ… 家族や経歴の少なさや若さ、容姿、運、その他、成功者が持っていて、自分が持っていないものが、自分の足を引っ張っていると考えるのだ…でも実際、それらはすべて自分が選んできたものであるにも関わらず・・・
過去に選んできた選択肢の結果をこうむる、ということについては、たぶん人は本当に平等にできている。人はカルマにおいて平等… この言葉の意味は、成果があるところには、成果に結びつくことが当然とならざるを得ない選択があり、成果に結びつかないところには成果を望んでいない選択がある、ということ。
一般に、人は成功するという選択肢を選ぶわけではない。成功しない選択を選ぶ。それはそのほうが慣れていて心地よいからだ。人は冒険を嫌う。人生においてはリスクはもっとも嫌われる。
登山とは、あえて不快で不便な状況に自分を追い込み、自分の快適ゾーンを広げていく活動だ。
なのに、人は人生ではそうはしない。楽なほうを選ぶし、成功しない選択肢を選ぶ。もっと始末が悪いのは選んでいることを自覚していないことだ。
でも、山から人生を学ばなかったら一体何から学ぶのだろう?
落ちるかもしれないリスクを最小にしていくのが山なのに、成功しないリスクを小さくすることは学べないのだ…。
バッテリーが途中で切れたため、途中までしかありません。カシミールで計ったら大体17km。
今回のヤマレコ。
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