Monday, September 9, 2013

夕陽を眺める特権

昨日は誕生日でした。 色々な人にメッセージをいただきました。ありがとうございました★
夫とすごす心豊かで静かな誕生日でした。

 ■ わかってしまった…

今回の後立縦走では、ちょっぴり、山の秘密が暴かれた気もしました…。気が付いちゃった…。

日本の夏山一般ルートの秘密を…雑誌PEAKSやワンダーフォーゲルをにぎわすソロテント泊、それは、実はお手軽&ラクラク旅スタイルでした。

そうした旅には危険はない。 でも、それでもいいかな~なんていう軟な考えの私もいます。

私にちょうど良いのは、”一般道を一人で歩く程度の自然”なのかもしれません。

■スポーツクライミング

クライミングは登山の一分野ですが、グレードを追いかけるクライミングをしていると、実は山そっちのけになります。

人間は弱い。努力しているつもりで、”もっともっと”と自分の手の届かないところを渇望するようになってしまう。

そのような山登りはあまり私はやりたいとは思っていません。

テーマは 自然と親しみ、自然から学ぶ、ですから。

次から次に…となるのは、煩悩の火に焼かれること…苦しみの始まり、です。 もちろん、山登りに達成感は大事な要素ですが、どんどん難しい山に行くことだけが目的になってしまうのは…ちょっと待て、ですね。

目的だけを達成すれば手段選ばず、というような事態には陥りたくないものです。命知らず、な山はギリギリボーイズのみなさんなどにお任せして、一般人は山を愉しむことを忘れないようにしたいもの。

■ クラシックルートへの回帰?

最近の山の雑誌『岳人』を見ていたら、最近、近くに行ってきた場所が出ていました。瑞牆山です。
植樹祭会場→カンマンボロン→ワイルドアットホーム→大面岩→十一面岩→アレアレア→ベルジュエール→山河微笑→錦秋カナトコ→十一面岩→植樹祭会場 を横山勝丘さんと佐藤祐介さんがパチンコでやっていました。パチンコというのは、継続登攀のことです

そこにある記事には、反省めいた文体で、夏壁のクラシックルートに今頃目覚めているとありました。

クラシックへの回帰が始まっているようですね。

でもまぁ・・・私は間違ってもこんな人たちにあこがれているわけではありません(笑)。10代の向こう見ずで、若くて、頑強な岳人には要らないと思いますが、私のような途中から入ってきた人間は、身の程はわきまえています。

というわけで、アルプスの人が来ない静かなルートを今後は歩くのがちょうど山のスキルにもあっていていいのかなぁ…なんて思うわけです。

■ 謙虚さを失わない=学ぶ姿勢

私は一応、山の講習会を受けているので、岩登りは一つの課題ではありますが、登山家の真似事をするためではないのです・・・ 

自立した登山者でありたいため、安全を守るため…です。

むしろ、山の良さは、人を謙虚にすることだと思うのです。

スポーツクライミング全盛の時代の流れに対する山ヤさんたちの反発は、ときどき目にすることがあります。

未踏の地を開拓してきた時代の人たちからすると実際の山=大自然に向かうことなく、クルマから降りて10分の、整備され、トイレもある岩場、に登ってグレードを競うクライマーの在り方は多少疑問に感じるところがあるのでしょう。

とはいえ、クラシックルートはあまり登られていません。ので快適度はかなり低そう…です。それらのルートの素晴らしさを語っている人にもあまりお会いすることがないような?あんまりそういう山記事もみかけませんし。

今バリエーションといえば、冬壁を指すのが普通ですが、冬壁も私はそんなにしたいとは思っていません。

冬の山は、苦を忘れる美しさ、です。 でも雪が一晩降れば、道は見えなくなってしまいます。だから、地図を読めることは重要だな~と思います。

■ 目的と手段の取り違いに気を付けよう!

でも、そもそも何のために山に登っていたのか(美しい景色に会うためでしょう・・・)をついうっかり忘れると、悪天候でも山にツッコンでしまって、取付に着くまえに雪崩で飲まれてしまいます。

自然は強く、人間は弱い。 そこのところを間違えてしまうのが、これまでの登山のあり方でした。

■ 歩きたいところ ちょっとお隣の尾根

私は地図を見ても、尾根が並んでいれば、「歩いてくださいと山が言ってるよな~」と考えてしまいます。

八ヶ岳、権現の川俣尾根は、三ツ頭と並走している尾根ですが、権現のアタック中に、隣をふと見て、あちらも歩けそうだな、と思って、歩きたいな~と思った尾根でした。雪稜です。山行名でいうとツルネ東稜で歩きました。

私が勝手に先輩呼ばわりしている、山の先輩、三上ガイドに連れて行ってもらいました。
 
こうした種類の、道なき道を行く系のバリエーションは、一般的なバリエーション(冬壁)と違って、ルート情報がネットに転がっているわけでもなく、また、あちこちに安全基地(山小屋)がある一般ルートとも違って、私の技術では、まだ単独は許されません。

遭難したら誰も通らない(汗)。夏山の一般道なんてパトロールが回っているくらいですから、遭難しても1日以内にどうやったって発見されてしまいます。ビバーク一晩できればOK。

ところが、人通りのない場所はそれこそ一人で行けば、誰かが通るまで1週間、いや1か月はかかるかもしれません・・・ 発見されないことは大変リスキー。

そんなところにひとりでいくのは、自由ではなくて、無謀、になってしまいますね。

■ 安全に帰ってこれる技 = セルフレスキュー 

地図読みはMyテーマですが、どうやって一人でマスターするかは難問。

たとえば、尾根の末端は一般に崖であることが頻繁に起こりうるのですが、そうした場合、今の技術では懸垂はできても、たとえば、ロープが足場に届かなければ、それでどうしようもなくなります。
一応登り返す方法(プルージック登攀)は知っていますが、知っているのと出来るのは違います。

どんな状況に陥っても降りて帰ってこれる技術がないんですよね。(というか、そんなすごい人、なかなかいないとは思いますが…まぁそれを目指すのが登山という遊びです。) 

そういう意味で、岩の技術は欲しいですが、有名登山家の若き日々のように、グレードの高いクライミングルートをこなすことで、自分自身の力を確認したい、というわけではないんです。

グレードを追いかけると山そっちのけになってしますし・・・上には上がいる世界ですし、プロの登山家の方たちにお任せしたいという感じです。

特に私は女性ですので、山を征服する感性にはどうもソリが合わないですし。

本チャンも過酷さを競う山には興味がないですが、かといって山岳会はどこも高齢化で、冬山山行を聞いてみたら、冬の天狗岳とか・・・もうとっくの昔に一人で歩ける山ですしね。

となると会に参加する意味はありません。 沢技術を身に着けたいなと思っているのも、夏は尾根は暑いからもありますが、沢がマスターできれば、困った時に沢に降りれば下界に達せるわけですから、遭難なんて怖くないな~とそういうわけです。

人は水がなければ生きていけませんしね。 

■ 自然を味わうにもあまり残されてはいない 

結局は、自然と向き合いたいだけ。 そこではできれば他人の介在は欲しくないのですね。

困ったことに、まぁロープを使えば必ずクライミングパートナーは必要になってしまうのですが。(一人で登る方法もあります)  なので、一般的な山登りの人が目指す、剣だの、槍だのに、正直もともとから、興味がないんです。 

他の人が興味があることに対して否定的な感情はありませんし、行きたいところに行くのが良いと思います。

でも近所のストローハットも、夏の穂高はもう行かなくなりました(笑)。

人が多すぎて、さらにそれらの人はほとんどが山を知らない初心者の人のため、落石を落とすからです。

知人の一人はGWの穂高で上から人が落ちてきて、入院…そんなところには行きたくないなぁ…。
ちなみに知らない方のために補足すると、岩登りと槍穂はまったく違います… 

岩登り自体は、私は、岩登りがまだ未経験者なので、登りたいのかどうかも分かりません(笑)。ある山小屋のご主人もヨーロッパまで壁を登りに行ってやっと自分は山を登りたいのかと思っていたら、空を飛びたい人だったんだってわかったんだそうです(笑) 

そんなものですから、やってみないと分からないものでしょう。  

 ■ 日本には本当に手つかずの山なんて残されていないかもしれません

白馬と言うエリアは観光資源として開発された山の代表でした。

今の時代は観光資源は山の恵みの一つです。 ニュージーランドなどの観光先進国では、自然が資源であることを認識しているので、自然をそのままに保存しようという意識も浸透しているのだそうです。

日本では自然と言うのは略奪してもいくらでも再生可能なもの・・・というわけで、土建業による自然界の略奪行為が山の歴史と言ってもいいくらいです…手つかずの自然は、要するにそんなに残っていません。

とはいえ、自然は懐が深い… 特に日本の自然は、です。略奪されてもされても、復活します。

たとえば、後立の稜線にはイワツメクサが咲き乱れていますが、実は、もともとはコマクサの群生地だったそうです。

コマクサはモルヒネ作用があるため、人間に掘り尽くされて数を減らしたのだそうです。 コマクサを駆逐するイワツメクサがたくさん出ていますが、それもまた自然の一つの姿…コマクサが善、イワツメクサが悪、と決めつけることはできません。

ただ人間の欲望の介在があって、自然がその大元の姿を変えた、という事実は事実としてある、だけです。

こうした事実を探して行けば、それは今ある日本の山の姿、登山の姿、になります。ボルトだらけの岩場しかり、手すりがついた登山道しかり…それに否応なしに気づかされるのが登山、とも言えるでしょう。

そうした人間行為の痕跡を、先人の努力の積み重ね、と見るのか、自然界への略奪の歴史、とみるのかは見る人の価値観がきめることですが…事実はその両方が存在するのでしょう。 その違いは、限りなく薄い一枚の紙のようなもの、ではないでしょうか…

努力と傲慢… その薄い一枚を踏み越えてはならないな・・・そんなことを考えつつ、一方で、夕陽を眺める、という特権は山に登るまでもなく、地上に生きるすべての人にすでに許された特権なんだよな~と平素の日常を振り返っている今日この頃です。
 



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