この3連休、ホームバディをやっています。なんのことはない家でのんびりしているだけです。
2泊3日の予定で、赤石岳&荒川三山なんていいな~♪
あるいはライチョウ沢キャンプ場で定着立山三山もいいな~♪
いやもう一泊二日でフルムーンの金峰山を夜間山行でも~♪
いいや日帰りで瑞牆山にカンマンボロンを見に行きましょう♪
・・・と山企画だけは、相変わらず豊富でしたが、夫の歯痛が山行キャンセルの直接のトリガーですが、家の中も超快適!なので、苦労して山に行く気がしないのです。
…というのは、さっき気が付いたところなのですが(笑)。
実際、この連休、わざわざ山まで行かなくても気持ち良いい!
このところ朝、窓を開けて寝ています。ちょっと寒かったりもし、うっかりしていると風邪をひきそうですが、辞められない。
窓から吹き込む、初秋のそよ風のたまらない心地よさ。
わざわざ山へ遠出して、テントで寝なくても、家のベッドで十分心地よい。
…というわけで…私は逃げ出すべき場所を失ったのかもしれません(笑)。
山好きにしてみれば、負け惜しみに聞こえなくもない。
これって負け惜しみ? その懸念を確認するため?(笑)、ためしに外に出てみたりもしたんですが…やっぱり今日は舞鶴公園で十分に素晴らしく快適でした。
無理して運転して遠出しなくても…
朝8時の舞鶴公園。ガラーンとして誰もいません。夏の終わりとはいえ、まだグリーンの芝生。
そのまま座っても濡れることもなく、汚れもせず、つい気持ちよくてゴロンと横になる。
暑くもなく寒くもなく、そよ風そよそよ。
頭上には青い空。8時ごろの夏の空は一番青がキレイですよね。
夫は傍らで、好きなタブレットPCをいじり、私は伸びをしてヨガのポーズ。外ヨガ、素晴らしく気持ちが良い!その後はつい2人して、PCバッグを頭にうたた寝…
ああ~生きているっていい気持ち。 そんな感じでした☆
その後スタバでコーヒーブレイクとしましたが、祝日の朝はガラガラで、スッキリさわやかな空間でした。
■ 幸せになるための山
そもそも、私にとって山の趣味は、山梨での生活の充実度を上げるため。
だからガツガツ山に行く必要はないんですよね。
山梨に居て出来ることを丁寧にやっていく。それが大切。それは山梨では私に仕事がないからです。
退屈な日常、それからのエスケープ、という理由がなければ、山でリフレッシュする必要もないんだよなぁ…
考えてみれば、山を下りてから、もうずいぶん経つのに山に行っていませんね。
山充電が満タンというよりも、今は充電する必要を見いだせない。
満たされているってことですかね? 山には癒しを見出して通っていたのですが、癒される必要がない。
でも、それも山のおかげなんですが。
山に行って、自分の置かれた状況に感謝し、環境を生かしていく、ということが、幸福の鍵だとしみじみ実感したから。
■ 読了 『登山の哲学』
たまたま図書館の山岳図書のコーナーで目についたので、竹内洋岳さんの『登山の哲学』を借りてきていました。
”私の山”についての考え方をまとめたいな、という思いがあるので、”哲学”という言葉に魅かれたんですね。
私は山で凄さを競う考え方はキライです。コースタイムの競争で早い方がすごい、とか、登った山の数競争。ザックが重いほうがエライとか。
スゴイかスゴくないか・・・なんで、そんなにこだわるんだろうと・・・
コースタイムにしろ、山の数にしろ、ザックの重さにしろ、登山スタイルの違いじゃないかしら?
テント泊の人と空荷の小屋泊の人は違うスタイルで登っているだけでしょう。
■ アタックしないでプッシュする
山で凄さ争いは情けない・・・山を制覇するとか、アタックする、とか、そういう言葉にも少々表れていたりします。
そういう感性が嫌いだからか、私は、山頂でピースとか、ガッツポーズとかしません(笑)
だって、登山においては山頂ってプロセスの一部でしかない。
ホッとするのは下山だし、終わった、と感じられるのは、山行記録を書いて、まとめ終ってからです。
でも記録をまとめていると、もう次の山が見えてくるし・・・
余談ですが、ピースサインって日本人は訳も分からずやっていますけど、Victory(勝利)のVの字を指で作っているんですよ? 写真を撮る時にするもんだ、と子供に教えてしまっていませんか(笑)?
竹内さんの本によると、今時、アタックなんて言葉を使うと笑われるんだそうです。
今では最後の登頂は、サミットプッシュというのだそうです。 自分を前に押し出す。
読んでみたら、この本、偉大なる登山家の山の哲学ではなくて、現代の若者の等身大の本でした。
山が好きでどんどん好きなことをやっていたら運が開けた、という話でした。
だから、あっという間に読める軽い本でした。
この本を読んだ後、アマゾンのレビューを見てみたんですが、なんだか人々のレビューが、著者が訴えていることと、ずいぶん乖離しているような印象を受けました。
竹内さん自身は、高所登山を特別な能力の人が特別な努力をして成し遂げる偉業とは位置づけていません。
好きなことを突き詰め、やれることをやれるようにやってきたら、そこに8000mの山頂があった。すべてを登ろうと目指して登ってみたら、登れた、という感じです。
ところがレビューは、昔ながらの偉人・偉業説ばかり。
なんか、みんな本の内容をちゃんと読んでるのかしら?という感じです。
もちろん大けがしたりという逆境はありますけど、それは執念や根性ではなくて、いただいた命なんだなという感謝の心が乗り越えさせるもので、なにくそ~ではないんです。
執念とか根性とか、ハングリー精神とか、負けず嫌いとか、なんか違うと思います。もちろん、短期的に悔しい思いをした、とかそういうのは人間だから当然あるんですけど。
私が思うには、彼の人生の成功の秘訣は、生まれ持った性分の発揮です。
余談ですが、ヨガでは、その人のアートマン、その人らしさ、と言います。それが発揮された生き方がその人の生きるべき生き方(ダルマ)、とされています。
竹内さんのダルマ(その人らしい生き方)は、14サミッターだったんですね。だから無理も無駄もない。
■ (超人的な体力&スキル) → (時間&カネ)
私が思うには、実際のところ、日本の登山界には、お金と時間さえあれば、僕だって14サミット登れるな~っていう体力・技術のある岳人は、それこそ掃いて捨てるほどいるんじゃないかと思います。
今の日本の状態では、難しいのは山のスキルでも超人的な体力でもなく、時間とカネなのでは…?
それは竹内さんが指摘しているように、世界最高峰のエベレストでさえも”観光地”化しているんですよね。
公募登山をガイドする現地ガイドが、「ガイドとして最初にやる仕事は値札を外すことだ」と言うくらい、アイゼンを買ったばかりです!みたいな人が来るんだそうです。
アイゼン履いたことがないのに冬の八ヶ岳に来てしまう山ボーイどころの状況ではありませんね(笑)
槍と同じように渋滞もあれば、テン場の取り合いもある。山ヤではない一般登山者が来るからゴミも捨てるし、山を荒らす。夏の北アとソックリのエベレスト。つまり俗化。
俗化=金さえれば誰でも登れる。
高所登山を取り巻く環境は、昔メスナーが登った時代とは違うんだろうと思います。実際はおそらく、昔の登山家に要したような、卓越した登山能力は必要なくなったんでしょうね。
ところが、一般の人の登山に対する意識は古いまま。
登山行為の変化、という現実の方が進化していて、意識は古いまま。 それを感じたレビューでした。
■ イモト
無論、周到に高所順応したり、トレーニングしたりは必要ですが、行ってQのイモトがエベレストにチャレンジしていますが、あれを見たら、誰だって、普通の人だって周到な準備やトレーニングがあれば可能なことだと分かるでしょう。
100年に一度の逸材だけが達成できる偉業ではない。ちょっと運動能力に優れ、人並み以上の忍耐と登りたいという情熱、そして機会とカネがあれば、やれることなんですよね。
何より金がなくてはチャレンジ権さえ買えない。
昔の人は、行きたい行きたいという強い情熱に加え、超人的な体力や山ヤの技術が必要だった。今は後者はイラナイ。
では、何が必要になったのか? それは、たぶん、山さえできたら後は何もイラナイと切り捨てる、割り切りではないでしょうか。
たぶん、山に登ることそのものより、山に登れる体制(時間とカネ)を作ることの方が難しいんですよね。
大学の山岳部の時は色々と登る時間があっても、社会人になったら登れなくなるとか、高所登山に行く実力が合っても、家族を持ってしまって時間がないとか。
要するに山以以外の人生のその他の部分を切り捨てられるかどうか?
後立で一緒になった山ヤのオジサンは、高校山岳部から山をやっていたのだそうでした。社会人になり、ヨーロッパの山への遠征に30日間の休暇を願い出たのだそうです。20日は休暇が溜まっていたから、後の残りを許可してほしいと。会社の回答はNO。だからおじさんは若き日の情熱を消化させることができないまま、サラリーマンとして人生を送ったのだそうです。でも、振り返ると後悔はしていないのだとか。なぜなら、その時会社を解雇されなかったおかげで、定年退職後山に登れる今がある、と思うのだからだそうです。
つまり、ヨーロッパの山に行くことより、サラリーマン人生を捨てることのほうが一般の人にとっては大冒険なのです。
社会的自殺・・・一般の人はいくら山が好きでも、そんなに割り切ったことはできない。
昔の岳人だって色々な人がチャレンジしては、登山史に埋もれて功績を評価されないまま埋もれて行ってしまったんでしょうが・・・それでも登山をしたいときに、社会的自殺になることなく、時間やカネの融通は今の時代の人より、自由だったんではないでしょうか。
「金と時間」に縛られるという意味では、現代は、、豊かになったのではなく、乏しくなったのしょう・・・
だから、現代では、そういう割り切りができる環境を与えられる、ということがきわめて重要です。
山に登れる環境が提供され、その場にたまたま居合わせる、ってことが山に選ばれる、っていうことなのかもしれませんね。
たとえば、竹内さんは大学山岳部で最初の8000m級の山シシャパンマに登っているのですが、それ自体がものすごく稀有なことですよね。
大学で海外遠征することも稀だし、そういうチャンスが出てきたときに、逃さず掴めるお金がある、ってことも稀有です。まさにチャンスの女神は前髪があっても後ろ髪はない。
この時の資金は家族から出してもらったそうですから、それは環境でしょう。
出してくれる人がいなくて、あきらめた人もいるかもしれない。そのシシャパンマは彼を同年代の岳人から頭一つ飛び出させる一つの実績となり、呼び水のように色々な縁を引きつけているんですよね。それにうまく乗ってきた、運命の流れに逆らわなかった結果が、14サミッターと言う実績のようです。
ちなみに、稀有なこと=起こることが難しいこと=あり難いこと=ありがとう=感謝すべき境遇、ですよね。
■ 自分が何が好きで、何さえあれば人生が満足なのか?
自分が何が好きで、何さえあれば人生が満足なのか?
それをはっきり若いときに定義づけた結果の14サミッター達成。
逆境に抗して、がむしゃらな努力とか、血のにじむような努力で、超人的な体力を身に着けた、とかいう話ではない。
私は山野井さんの山もとても好きですが、生き方は、竹内さんの方がずいぶん肩の力が抜けています。
そんな内容の本だったのに、読者の感想は いまだに”偉業”&”不屈の精神””感動”…
時代が変わったことに人々は気が付かないのか…?
そこのところがとっても違和感でした。
■ あれもこれも求めない、こと。
今年の夏は初めて山小屋で働きました。とってもつらかったです…が、今となっては全然覚えていません(笑)
山梨に来て以来、「山梨に居る間は、山さえ行けたら私は幸せ」と自分で勝手に決めています。
山小屋では全然山には行けませんでした。それに軽くイジメにあっていたと思います。仕事を教えてくれなかったから。
山好きで意気投合する人も少なく、山への愛にあふれ尊敬できる岳人との出会いもなかった。山を歩けないので、岩場歩きのスキルもつかず、その上運動不足。
ただ・・・”山にさえ行けたら後は問わない…”と思っていたため、雨の日も風の日も、近くのピークに通いづつけました。
ライチョウさんに会えたら、それだけで幸せ☆ 朝日が見れたら幸せ。そう決めちゃう。
叱られても。失敗しても。意地悪をされても。悪口を言われても。
それに、最後に5日かけて山を縦走して帰ってきたら、全部チャラになってしまいました(笑)
そもそもこの山域を選んだ理由はこの山域の天気について詳しくなりたかったのとテーマが岩稜帯歩きだったからでしたが、最後の縦走でどちらも満足がいく知見を得られました。
竹内さんの本の読後感と、苦しかった割にその苦しさに対する印象が薄い夏の経験。
この両者を振り返って、幸福の秘密は、「○○さえしていれば自分は幸せ」と決めてしまうことなんじゃないかと思うんです。
自分は仕事さえできたら幸福とか、結婚生活が円満なら何も問わない、とか、子供さえ素直に育ってくれたら満足、とか、山にさえ行けたら出世はどうでもいい、とか自分の幸福の定義を決めてしまう。
切り捨てる。
そういうことが運命を切り開く鍵なんでは?と、ひと夏の実感とともに、著名人の著書から思ったのでした。
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