さてと…山行記録も書き終わりました。
ひと夏の経験をまとめておきたいところなのですが…どう書くかな…。
縦走が素晴らしかったので、その経験の印象が一か月の山暮らしの経験を色あせたものにしてしまうのですが…それに小屋の暮らしは小屋ごとに違うようなので、局所的体験が他の方の参考になるとも思えず…
山小屋での暮らしは、行った小屋が働きやすいことで定評のある小屋だったので、そんなに下界と変わらなかったのです。食事もよく、お酒もたしなめ、お風呂も入れ、洗濯もできました。
山小屋で朝が早いのは当然ですし、拘束時間が長いのも当然。 想定内&慣れの問題でしかありませんし、そもそも私は普段も早起きなので…、
山のボトルネック、節水にしても、メルボルン暮らしを経験した身にとっては、潤沢かもしれないくらいの水の使用でした。
結局、小屋暮らしが楽しいかどうか?は、その小屋のカルチャーが自分とマッチするかどうか?ではないかと思います。
私には、お酒が飲めることより、コーヒーが飲めることのほうが重要なポイントなので(笑)、コーヒーが飲めないことが、一番つらかったです(笑)
また日ごろが野菜中心の食生活をしているので、食生活が冷凍食品中心になる=肉中心、ということになると、結局、現代の食糧事情を象徴しているような感じです。小屋の食事の産地をまとめると、きっと世界中と言うことになるのではないでしょうか…。日ごろ地産地消を推進中なのでそれもつらいんですよね。
山小屋で、もっとも大変なのは、水の確保とゴミの問題です。トイレも広義のゴミ問題に入りますよね。
要するに町にはあって当然のインフラストラクチャーがない。
水は稜線の小屋であれば天水以外をとなると沢からくみ上げるしかありませんし、そうなると燃料が
必要です。ゴミにしても小屋で出たゴミは、燃やすか、下ろすかしかありません。
結局、補給される軽油次第なわけで、ヘリでの補給に依存します。ヘリだってガソリンで飛んでいるのでしょうから・・・
突き詰めると石油依存の生活形態なわけですね。
人間一人あたりの石油依存度は集住の度合で決まりますから、ポツンと稜線に建つ小屋は結局、都会生活者よりも、石油依存度が高いかもしれません。
ということは、地球に対する負荷という意味では、もしかして普通に町に暮らすより、高負荷な生活かもしれません。
この程度で小屋生活の色々はやめておきたいと思います。こちらに大変面白いサイトがありましたのでご参考に。
http://climbing.x0.com/special/yamagoya2004/yamagoya_index.htm
■ 団体ツアー登山について
私が個人的に驚いたというか軽いカルチャーショックだったのは、団体ツアーです。
団体ツアーのお客さんたちは、一般登山客とはまったく客の質が違うと感じました。
最初の頃はそれでかなりのカルチャーショックを受け、鬱になったくらいです。
なぜ鬱になったのか?
たとえば、自分が大事にしている宝物があるとしますよね?
それを誰かがぞんざいに扱ったら、どう感じます?
それは傷つくでしょう… 私のショックはそれと同じようなショックでした。
私はお山に対して特に畏怖とも言えるような敬意を感じ、畏敬の念を感じながら山に登っているタイプなのです。 昔の人が修験していたのと根底では似ているかもしれません。
だから、お山がぞんざいに扱われていることに、悲しく、腹が立ったのです。
酔っぱらったり、高山病になっても降りなかったり・・・ 問題を起こす人は大体団体ツアーの人でした。
ただ、縦走で出会った小屋番さんの話によると、団体ツアーに参加するお客さんは、初心者だから参加するのであって、山を知らないのは当然なのだから、そうしたお客さんに対して、その人たちを率いるガイドが、もっと統率力をはっきすべきなのでは?ということでした。
確かに山に敬意を払っていないのではなく、単純に無知なのかもしれない・・・。
無知というのは・・・
・山では水道で水が供給されるわけでないことに気が付いていない (小屋でも蛇口から水がでますしね・・・)
・山ではゴミは燃やすか降ろすかしないといけないことに気が付いていない
などです。
たとえば、お茶を自分のサーモスから飲めば、洗わなくて済みますが、湯呑を使えば洗い物が増えます。
飲み水さえ不足するほど、水が足りなくなったとき、飲み水にできる水で湯呑を洗いたいと、誰が思うでしょうか?
極端な例ではなく、小屋の厨房では洗い物をいかに減らすか?は、かなり重要な問題です。水の無駄だからです。水がないともちろん、お客さんに食事はだせません。
だから、お茶を飲むときは、小屋の湯呑を使わないで済むなら、その方が良いに決まっていますよね。
でも、そんなことをちゃんと教育しているガイドさんなんていたかな・・・いなかったような?
ガイドさんの力量で、烏合の衆もちゃんとしたパーティになる。
そういう意味で私がもっともよいリーダーだなと思っているのは、地元の山道具屋さん、ストローハットの高さんです。
もう70歳近くになりますが、8人以上のガイドをすることはないし、擦れ違いで避けるときは山側に避けろとか落石を起こすなとか、大変口やかましいですし、何しろ、自分でいつも命令してくれます(笑)
山行を統率する力は抜群ではないかと思います。
これが普通のガイドさんだと、自分がリーダーであるという意識より、率いてるメンバーはお客さんだという意識が強いので、お客扱いです。
私が思うには、ご自身がすごい山ヤであるのと、ガイドとして統率力が優れているのは、全く別のことではないかと思います。
お金を取っているお客さんだと思うと、言うべきことも言えなくなる、という面もあるのかもしれません。
なにしろ、お客にはリピーターになってほしいですからね。サービス業であって教育業でない、という認識もあるかもしれません。
私が気が付いたこと・・・は、スゴイ山ヤさんは山の常識を教えてはくれません。たぶん自分がすごい山ヤだから、初心者が何を分からないか、そこのところは分からないんではないかと…
何しろすごい山ヤになればなるほど、自分が行く山では、山小屋を使いません。
となると、”非常識登山者”と揶揄されるツアーの登山客が山小屋でどうして非常識扱いされるか?なんて、知るはずがありません。
それに山ヤの価値観と言うのは、山を歩けるヤツかどうか?みたいなところで決まっているんですよね…
今回、私は本格的な山ヤさんがほぼ全行程で同行してくれたのですが、それは私がたまたま重いザックを背負って縦走する、という山ヤのクラシックな価値観にマッチする山をやっていたからではないか、と思います。
私は、山が好きですから、登山の伝統的な価値観には敬意を感じますが、山を”征服”してきた感性はどうしても好きになれません。 山と競争してどうすんの?どうやったって山には勝てないのに。
山を”征服”してきた感性は、安全と危険に対する感性を鈍らせます。 そのことに無自覚な山ヤさんは多い。
平たくいうと、すごい山ヤになればなるほど、危険を危険と認知しなくなる傾向があります…それは自分の登攀スキルがすごいので、危険も危険ではなくなるからです。ただし、あくまでその人にとって。
それは正しく、たとえば、不帰ノ嶮は、ボルジムなどでスキルを磨いた私にとっては、もはや、それほど危険な場所ではないですが、そうした努力をしていない夫にとっては危険な場所のままです。
ただこの論理を、適用してはいけないところまで適用してしまう過ちを犯すのが・・・人間というものです・・・
たとえば、今回、五竜山荘を雷雨予報の雨天の中出発した単独の中高年の女性がいました。結局、後から知りましたが、その女性は山慣れており、その日のうちに爺が岳まで行ってしまえるほどの健脚者だそうでした。それを教えてくれた人の口調では、だから当然その人が出かけて行ったことに非はない、という感じでした。
けれども、健脚者だからといって、その人の上に雷が落ちないと、どうして言えるでしょう?
良く考えてみれば誰でも分かること・・・が分からなくなるのが山の恐ろしさ、と言えそうです。
■ ある日のかみ合わない会話
お客さん:「すいませ~ん、お茶ください」
小屋:「はーい。お茶は500ミリリットル100円です」
お客さん: ただ待っている…
小屋: 「…(汗)あの~ 何か入れるもの持っていませんか?」
お客さん: 「入れ物・・・ 入れ物って?」
小屋: 「サーモスもってませんか?」
お客さん: 「サーモス?」
小屋: 「(あ、サーモスって言わない世代の人かな?) テルモスは?」
お客さん: 「もっていません」
小屋:「・・・。 じゃあ、ペットボトルでもいいですよ~」
お客さん: 「・・・。持っていないんですけど」
小屋: 「え~?!何も入れ物もっていないんですか?」
お客さん: 「はい」
そこで湯呑に入れて出すと・・・
お客さん: 「すいませんが、他の5人の分もお願いします」
・・・結局レストランで出てくる無料の水と間違っているわけですね~ トホホ・・・
これはあんまり珍しいケースではありません。で、なおかつ、お金払っているからいい、って思っているわけです。
でもそーゆー問題ではなく・・・小屋はできるだけ水などのライフラインには高い額をつけたくないから、正直無理をして安くしている価格だと思います。かかるコストを考えたら、リットル100円では出せないでしょう。
ただ・・・山小屋でバイトして分かったのですが、水筒も持たないで、標準コースタイム6時間の尾根を歩いてくるのは、問題なく歩けるからなんですよね。だって山小屋になんでも売ってるし。
小屋でペットボトルの飲料を買えば少々高いけれど良い。小屋も収入になる。
双方の利益が合致していますし・・・。
2時間歩けば小屋がある、と言うケースに水筒を持って行かなくても安全にはあんまり問題ないでしょう。
それが4時間になり、6時間になり、8時間になり…の結果が、山の観光地化、つまり俗化だと思うんです。
つまり、エスカレートする。
水筒を持たないと同様に、レインウエアもヘッドライトも持たないでも、となってくる。
問題がなかったら、危険は存在しない。 そう考えてしまうのが人間のようです。
歩けるから、歩いちゃう。歩けちゃうように、商売が成立する。 卵がないところに鶏は生まれず、にわとりがいないところに卵はない。
それが夏の山… そういうところが、人間の愚かさを象徴するようで悲しくなっちゃったんですよね。
人間の暴走(エスカレート)は止められない…。
火力発電が便利だったから、もっと電力が欲しい。そうだ、原発にしよう。原発も安全とは限らないと事故で分かったのに、やっぱり便利だから、つかってしまう。喉元過ぎれば熱さ忘れる。
人間は行き過ぎる動物です。
そのことをしみじみ実感した夏の経験でした・・・ 行きすぎないと懲りない動物、とも言えるかもしれません。
そうした中で私が出した結論は・・・
夏山は”山”ではなくて”観光地”。
&
「さわらぬ神にたたりなし(関係ない世界にいよう…)」
ってものです。
団体ツアーに参加するのは、参加するほか山にいく手段のない人たちなのですから、そうした人が来ない山域に行けるだけの山力をつけるのが山を愛する人の正しい成長の方向なのではないかと思います。
■ 団体ツアー
団体ツアーのお客さんは、基本的に中高年でした。中高年と言っても中年はほぼおらず、子育てを終えたおばちゃんや、定年退職後のおじさんがメインのようでした。
現実的に考えて、そういう年齢の人たちで、若いころに山をやらなかった人たちにとって、受け皿になるのはツアー以外ありませんよね。
なにしろ、個人で出かけたら団体ツアーで出かけるよりむしろ危険ではないかと思います。
地図読みとかってありえる雰囲気ではありませんし、私がどこにも道迷いの箇所を感じなかった一般道、キレット小屋~五竜岳の区間で、迷った人がいると別の登山者から教えられたこともありました。
白岳でiPhoneをいじっていると、登山道があるにもかかわらず、直登して高山植物帯に入っているおじさんが、一人ならず、2度も会いました。
私がいたのは休憩の短時間ですから、結構な頻度で、登山道がワカラナイ人が単純に高いところ目指して歩いているのではないか?と想像するのは難くありませんよね。
以前、地図読みツアーに参加した経験からも、下界であっても、地図が読めないような人が参加していたので、その経験を考慮しても、そういう人はやっぱりツアーに参加するほうが安全だと思いますし、自分で自分にはツアーが必要だ、と考えられる人は、それだけでも自覚があるということで、ない人よりはうんと安全ですよね。
団体ツアーに参加して、恋が芽生えたり、仲間ができたりして、2度目の青春、って感じもありますし、
たとえば、お酒に溺れたり、怪しい宗教にハマったりなどと、人生を台無しにしてしまう悪習慣にハマるよりは、うんと健康的ではないでしょうか?
私がそんな人の子どもだったら、ツアーに参加してもらいたいと思うと思いますし、面倒を見てくれる人には感謝感謝だと思います。
今は団体ツアーはどこでも嫌がられているので、みんなマナーには気を使っています。
挨拶は当然、道を譲るのは当然。
でも…問題をはき違えているのが見受けられました。
追い越させてくれるのはいいけれど、そこは危険な個所なのです。下を見て、墜ちたらマズイ場所か
どうかを見てから、追い越しを決めてもらいたいな。
追い越せる場所かどうか?というの”判断”は、立派な登山判断で、豊富な登山経験が要ります。
でも、その重要な判断をガイドさんが放棄していることが多い。
というか、追い越せる場所に判断力が必要だ、という発想が、ガイドさん自身にないんでしょうね。
自分の登攀力がすごい人は、別にどんな場所でも危険なく、追い越しも擦れ違いも出来てしまうからです。
自分にとってたやすいことって、他の人にとってもたやすいと勘違いしがち。
なのは…私自身の反省も含めです…(山ではありませんよ…私には文章書きはたやすいです)
だから、山小屋のおやじさんが言うように 団体ツアーの是非はそれを率いるガイドさん次第、というのは本当にそうだな、と思ったのです。
■ 個人テント泊の増加のこと
団体ツアーは客層からも時間が自由になる世代が多いためか、夏山最盛期を少しずらして、7月の後半や8月初旬が多く、その時期、小屋はとても混んでいました。連日、夕食3回戦、4回戦です。
ところが、最盛期のお盆に入ったら、意外なことに小屋は空き始め…、今夏に限らずですが、お盆しか休みが取れない現役世代は、テント泊に流れているようです。
お盆はテント泊の宿泊者の方が、小屋泊の人より多かったくらいなのです。テントを張る場所がなくなって大変なくらいでした。
年配世代は体力がなくお金があり、現役世代はお金がなく体力がある。
年配の世代 ⇒ 小屋泊
現役世代 ⇒ テント泊
それはいつの時代も変わらないみたいですが、変わったのは現役世代のテント泊が団体ではなく、個人志向になったことみたいです。
4人パーティで来て、テント4張り…などなのだそうです(笑)
でも、正直なところ、なんか分かりますね。
私も自分で登る山で、夫以外の男性と二人で一つのテント泊なんてイヤです(笑) まぁ学生時代の友人程度なら大丈夫ですが、昨日今日知り合ったような人だったら、有名ガイドだって嫌ですね。女性だって相手によります。
今回は、白馬から天狗山荘までの縦走では6人で歩いたようなものでした。 同行した3人パーティの人たちもテントは2つ(テントとツエルト)でしたし、あとはみんな個人。
これを一つのパーティと想像すると、6人でテントを5張も持って歩いたのと変わりありませんよね。
でも、この6人がパーティとなって、山行の企画ができるか?というと絶対にできないでしょう。
だって、住んでいる場所もバラバラで遠方です。たまたま出会ったゆるつながりだから一緒に歩けたのです。
昔の山岳会は、入っているメンバーがみな同じような地域に住んでいたり、同じ学校だったり、同じ会社だったりと、地縁が少なからずあったのだと思います。つまり、固いつながり。
けれど現代では、地縁なんて、薄れてしまってからすでに50年くらいは経過しているのではないでしょうか?
地縁が色濃く残っている山梨でさえ、ゆるつながりでないと人間関係が持ちません・・・
余談ですが、それは悪いことではないと思うのです・・・ゆるつながり=EasyCome、EasyGoの時代では、長く付き合ってくれる友人はそれだけ友情を感じている、価値がある友人ということではないでしょうか・・・それは言い方を変えれば、地縁などの義務ではなく、心の縁で結ばれるていると言えるのでは…?
まぁ、指摘したいのは、4人パーティでテント4張りという結果になってしまった世相は、山登りを気心の知れた仲間(死語?)としない(もとい、できない)ようになってしまったせいであり、結局は、登山者個人の資質によるものではなく、社会的背景の上であるということです。
要するに、個人を責めても、どうしようもないことなのだということです。
■ それでも若い人にはテント泊を薦めます
それでも私は若い人にはぜひテント泊での旅を薦めたいのです。
のは、どうしてか?というと、私自身の経験を考えても、小屋泊で山に行っている限り、水筒が要らないのと同じで、山登りについて本質的なことが何も分からないだろう、と思うからです。
生意気ですみません。
テント泊すれば、雨の日はテントに水が浸入したりで大変だし、風の日はテントを立てるのも畳むのも大変。
火を使うのだって、風が強くて結構大変だし、何より食材持って行くのも重いですし、工夫が要ります。
これが小屋泊しか知らないと、雨が降っても、濡れたザックが廊下を濡らして困ったり、部屋の布団が濡れて困るのは小屋の人間側です。
困った事態に落とし前をつけるのは小屋…つまり自分以外の誰か・・・登山者本人は、雨の中歩いて大変だったくらいのことで、何の後始末もしないので、自然に対する対応力をつける、という発想は生まれにくいのです。
つまり、落とし前力がつかない。無責任でいられる。
トイレを汚して平気なのは、そのトイレを掃除しないから。
それと同じことが山で起こるすべてに言えてしまい、コースタイム途中でお腹が空いてバテテも、水を切らしてバテテも、それを自分のせいと思えるようには成長していかないのではないかと思います。
山は自己責任、とか言われますが、自分で責任を取らなくていいのが小屋泊ですから。
自立した登山者…というのも、言い古されたセリフですが、出来る自立をしないのは単なる甘えです。
若い人が小屋泊でのトレランにハマるより、テント泊縦走にハマるほうが、クラシックな山ヤさんの価値観にも合うし、そういう山ヤさんに可愛がってもらえる可能性も出てくる、と思います。
トレランなんて若ければ、誰でもできます。でもテント泊はそれなりに根性要ります。何しろ、途中で
テントを放棄なんてできないですし… やり始めたことは何が何でも最後までやりぬくしかない。
私が今回達成感があるのは…テント泊で縦走できたこともありますが、これはむしろご褒美なので・・・正直、何度もやめて帰ろうかと思った小屋でのバイトを曲がりなりにも途中放棄せず、やりぬいたから、というのもあります。
応援してくださったみなさま、本当に力づけられました。ありがとうございました☆
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