Wednesday, September 25, 2013

山へメッセージを受け取りに行く

■ 山へメッセージを受け取りに行く 

今日はすっかり台風は空振りでした。大きな虹が出て、キレイな夕焼け。 

そろそろ、下界の暑さに高山に逃げ出す時期は終り、標高2000mくらいの山でも快適に楽しめる季節になってきました。こうなると日帰りで出かけられる山が出てくるのでうれしいですね!。 

私にとっては、山に行くのは、山へメッセージを受け取りに行く、そういう感じです。 

その時、”私”はただの受信器で、機械的に山から受け取ったものを吐き出す=文章化する道具、であるように感じています。 だから、山では、山から受け取り損ねたものはないか、と自分の中でいつも探しています。

 山を歩くときは、どんなメッセージを山から今送られているか、感じながらです。 その受信機の性能…それを上げる必要を常に感じています。世の中はこれを感性を研ぎ澄ます、というのかもしれません。

 そういう感じなので、山という趣味は、実はとってもヨガと似ている・・・ヨガをすると直観力が優れてきますよね。

 ■ どこへ続く道なのか? 

お山のスキルアップはしたいと思っているのですが、問題は、そのスキルアップが導く道が私の行きたいところなのかどうか?です。 

私は目の前に延びる道をすんなり歩くタイプではなくて、自分で決めるまで歩かないタイプ。 もし目の前の道を道があるからというだけで歩くだけなら、今頃は全く違う人生を歩んでいるでしょう。

 でも、私は、自分でこの道を歩く、と決めたら、結構困難でも何とか、やりくりして歩いてしまうタイプなのです。 二つ道が分かれたら、どちらかを選べとなれば、難しいほうを選ぶ。 ある意味無邪気さに欠けているかもしれません。

 ■ 道具としての山スキル 

山のスキルは”山からメッセージを受け取る”という成長のための単なるツールと言う感じなんです。

 ただただ、岩に登りたい!アイスに登りたい!っていうのはない… じゃ何をしたいのか? ただ、圧倒的自然の中に自分自身の身を置きたいっていう感じです。 

八ヶ岳の指すような寒気とか、冬の大菩薩でザックにいれたバナナが凍るほどの冷たい乾燥した空気、そういうのに身を置くの嫌いじゃないんです。 八ヶ岳はソロで歩いて実は凍傷になっちゃったしね。きれいな景色に見とれてウッカリです(汗) ただ、厳しい環境に身を置くと、何か忘れていた大事なことを思い出したような、原点に返ったような、そういうものを感じます。 もちろん、晴れた山も単純にうれしいんですが、晴れは単純です。ちょっとなら悪天候も実は嫌いではなかったりもします。そういう時の方が山が訴えかけることが多いような気がします。 

過酷な環境の中でむしろ、何かが洗い落とされるような、禊というか、浄化されるような、そんな感じを感じます。

 登山の価値には、
 1)未知の山であること
 2)より困難なルートであること
 3)美しい山であること の3つがあったそうです。 

今や日本には未知の領域はほとんどないので、未知というのは、手段とか、特定の条件下でのトライとか、矮小化した領域での未知、ということになるようです。 

でも誰でも行ったことがないところに行くのは多少の冒険で、それは楽しいものですよね。 

正直なところ、私自身は登山には多少の冒険は志向していても、より困難な方が価値が高い、というのはあんまり志向していません。

 困難さだけを目指すと、やはり無謀に走ってしまうリスクがあるからです。人間は行き過ぎを自制できない動物なので。たとえば、冬の悪天候下で鳳凰三山に出かけたのは、困難さに挑戦したと言えなくもないです。ただ私にはカバーできるリスクに見えたから出かけて、やっぱり正解で美しい景色に会えたら、充足感がありました。 なので、私の登山の充実感は、と考えてみると、リスクと安全を常に天秤にかけ、その判断が、危険から自分自身を守っていることの、完全な自己満足です。 登山で人に自慢したところで、私程度の山登りの人は履いて捨てるほどいるわけで、仕方ない。 やはり登山は自己満足の世界ではないでしょうかね? 考えてみると、昔から、他者からの評価を全然気にしない(ならない)のが私でした。

■ 内的成長 

あんまり他者評価を必要としない私ですが、なぜかなと考えてみると、自分で自分の中に問うて、今の登山が自分のスキルにマッチしていれば成功した、自分に甘さがあるようだったらダメだな、と自分で判定するからです。基準が自前。 

後立縦走、テント泊にしたのは、小屋泊だとラクラク過ぎて何の成長にもならないからです。それをテント泊にすることは、私にとっては小さなチャレンジで、それを達成したことは達成感につながり、私自身にとって満足が行く成長でした。 

槍より穂高が上、穂高より剣が上と、自分を他人と比較するという発想が、とてもイヤです。数を競ったり、体力を競ったり、ですよね。それは基準が自前でないからです。 

私が思うに、登山活動は自分自身との競争ではあっても人との競争はありません。 私にとっては、なんで山を人と比べ、競わなきゃいけないのか?って感じです。 

ヨガも競争を排すところがヨガなのに、このポーズできるか?じゃあこのポーズは?と、変なポーズができるほうがすごい、という競争でやっている人が多くて困ります… 体が柔らかいほうが偉いのなら、タコの勝ちになってしまいますよね(笑)

 ■ 荒涼とした平原 

私は、生命を感じさせない荒涼とした平原とか開けた土地が好きなみたいなんです。 行きたい場所として、脳裏に浮かぶのは、ブロンテの嵐が丘とかです。もちろん、話で読んだだけで実際に嵐が丘を見たことはありません(笑) 

宮古島に行ったときも、ロトルアやニューポート、あるいはメルボルンでも、しんと静まり返って、永遠に続くかのようなワンディングロードが続き、遠くに稜線が見え、その上に丸い月が浮かぶような場所で深く感動しました。 サンフランシスコに住んでいた頃は、よく海岸まで歩いてゆき、夕暮れの太平洋を眺めていました。

ホントに地球は美しいですよね。 山梨では、同じようなことができるのが、偶然、山ってことなのかな~と思ったりします。 

私は山岳総合センターの講習会で、岩登りのスキルを習っているので、岩登りは多少必要かなぁと思いますが、天狗尾根、前穂北尾根、阿弥陀南陵、北岳バットレス…うーん。 

私、行きたいのかなぁ??? 実はよく分かりません。 

だって岩って登っていたら目の前は岩しか見えないんですよね(笑)  

登りきったところで別天地が開ける、そういう展開が岩登りの愉しみと思いますが、私は、どこまでもどこまでも歩いていけそう、と感じながら歩くのが大好きなので…ジャングルジムに攀じ登るのが楽しいという感性とは、だいぶ違うのではないか?そう思っています。 後立は攀じ登った末に布引山での長く緩やかな稜線歩きが本当にご褒美だったので…八峰キレット他岩稜帯の困難は、そのためのアルバイトって、感じでした(^^;)

今の山の目標は 感度の良い受信機になること。

つまり、もっと自分自身の心をうまく表現できるようになりたいのです…。 山には出かけなければなりません。行きたい場所には自分で行けなければなりません。 

だから、そのために必要な技術があれば、必要なモノは必要なモノ。身に着けるつもりでいます。 そういう視点で言うと、ロープワークはセルフレスキューで必要かもしれません。

ロープワークってなまじっか知っているくらいで使うのは、まるっきり使えないよりアブナイ。 確実性を増すためには練習となる場が必要です。 

ただ…スキルが先で山が後ではなく、山が先でスキルが後だな、そんな風に思えるんですよね。

 その先に見える行きたい山。憧れ。それが大事なこと何ではないかと。

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