今日はものすごいカミナリです。朝の3時くらいから、近くで落ちたなぁ…と分かる降り具合…
窓を開けて寝ていると、雨が叩きつけるときに起こす風で寒いくらいです。ベッドの中にいる私にも
その風は分かり…ベッドとベランダ、距離にして2mくらい・・・、寝ていると、風の動きを感じられ、
なんだかとても幸せでした。
子供の頃、私は悪天候に見とれる子供でした。九州では、今日のような雨が年に数回あり、その時は
わざわざ雨が叩きつけるベランダに、濡れてもいい恰好をして、飽くことなく、叩きつける雨に見とれていました。ある時はわざわざカッパで雨の中に立っていたくらいです。
でもさすがに締め切った窓のパッキンから、叩きつける雨があふれ出るようなときは、危険を感じ家の中に避難して小さくなっていたのですが…(笑) 子供心に親が不在だということがとても不安でした。
雷雨は神の怒りの表現…神は一体何に怒って、このような雷雨で人間を懲らしめるのだろう?と思っていました。
ちなみに虹は神が人類に対してしたという約束…蜜が流れる土地への終着…を思い起こさせます。
要するに神様からその調子で頑張れ、のメッセージ。ブロッケンを見ると思いだします。
私が思うには、神は怒りをぶちまけ… やっぱり…と思いなおして虹をくれる。 まるで機嫌が悪い時のママゴンですね(笑)
■ 「山ヤ」と「登山者」
実は、「山ヤ」と「登山者」には明確な一線があります。
「山ヤ」のスタート地点は、登山道を外れて歩くところからです。雪・沢・藪。
これは山小屋関係者や、遭対協などの”山で登山者の安全を守る立場”から見れば、大変非常識な「登山者」なのです。
何しろ”道なき道を行く”とお花畑に侵入?! コラ~!!ってわけですし、沢は降りてはいけないところNo1です。雪は寒いから行くのやめなさい、が定番。
(山ヤさんの名誉のために断っておくと、実際は山ヤの良識というものがあり、お花畑を踏み荒らすことはなく、沢を詰めたらたまたまお花畑があった、とか、岩を登っていたら最後だけちょっと…なケースらしいですが、基本的に一般登山者がいない山しか山ヤさんは行かないので、両者が遭遇することは、ほとんどないです)
でも実は、山小屋の人たちは山のプロなので、自分たち自身は、現在はどうであれ、もともと「山ヤ」。
そうでなくては、遭難した人を助けに危ないがけっぷちを降りる、なんてできるわけありませんよね。
ですから、「山ヤ」と「登山者」は明確に違います。
そして、価値観も違います。
山ヤ= サバイバル力
登山者= 体力
サバイバル力というのは、具体的には、たとえば、地形図一枚持って、
・どこでテントを張ったら良いのか?
・どこに水があり確保できるのか?
そういうことをすべて自分で判断する判断力。
これには、地形や地質の知識、植生から水の有無を感じとる能力、厳しい場所や条件で快適にテントを張るのには、どうすれば良いのか?どのような道具を持っていけば良いのか?などのノウハウが含まれます。
要するに…ウィルダネス(人間にとって快適とは言えない厳しい自然の中)で、快適を守り、どこに行っても生きて帰ってこれる能力です。 タフネス。サバイバル力。
自分自身(と仲間)の安全を守るという、非常にベーシックな部分での人間の生存本能が強いか強くないか?です。
不思議なのは、ウィルダネスでタフな人でも、人間社会のタフネスは備えてなかったり、現代社会のサバイバル力があんまりなかったりすることですが、マズローの欲求の五段階説を考えれば、ある意味、自然なのかもしれません(笑)
■ マズローの欲求の五段階説
余談ですが、マズローの自己実現の5段階、知っていますよね?
これは人間が自己実現、真の意味での人生の探求に向かうには、5つのステップがある、という理論です。
まずは、生理的欲求(寝食・排泄)が満たされて、初めて人は安全に対して欲求が高まる。
安全に対する欲求が満たされると、今度は社会的欲求が始まる。仲間が欲しいと思うわけですね。
社会的欲求が満たされると、尊厳欲求です。その仲間内(社会)で一目置かれることを求め始めるわけですね。
そうした自尊心の欲求が満たされて初めて、初めて、人は、自己実現、つまり、生きがい、を求めて、
真に自分らしい人生を生き始める、というわけです。
逆にいうと、自尊心が満たされないままの人には自己実現よりも先に自尊心を満たそうとする、という傾向がある、というわけです。
あくまで理論です。自尊心に問題を抱えても自己実現した人は大勢いますし、そもそも自己実現が何か?は個人の定義によるところです。
■ わざと安全でないところに向かうのが山
一つの試案として、この欲求の五段階説を山の世界に当てはめると、山ヤさんの山ヤたるプライドは、非常に原始的なところ、生理的欲求や安全欲求などといった、通常の社会ではすでに満たされた部分がまったく満たされない大自然=山、というウィルダネスに自らを傾ける、というところで始まります。
山ヤの勘、みたいなものですね。山ヤさんはそう言います。言葉で表現しません。
たとえば、ここには水があるんではないか?とか、この風雨では低体温症になるんではないか?などの判断を漠然とした勘でとらえているわけです。 危険の認知、というわけです。
(英語ではインチューイッション、直感、と言います。ヨガでは直感力を養います。第三の目で、物事を見る力)
でも、山ヤの勘、実は、ちゃんと理由はあるんですよ。後で見たら、そこはくぼ地だったり、風速18mだったりするわけです。
でも、山ヤは、そうした理論的な表現を嫌います。あくまで肌感覚を信用すること。
それは自己責任を徹底するためです。 直感による判断に、理性が混じると時に、判断力が混乱します。
それは、人間が勘違いする動物で、くぼ地だったら必ず水が出るわけでもないし、風速18mだったら必ず低体温になるわけでもない…からです。
だから、理性的判断による、言質を取られるのを避けるわけです。
それは社会に対しても、だし、自分に対しても、です。そうした計算が駆け巡るのが山ヤさんの脳みそです。
また、昔の山岳会が、山に団体で向かうのは、山が危険だからです。仲間と協力しないと立ち向かえない、厳しい自然が山だったのですが…今の夏山はもはや、仲間と結託しないと立ち向かえない厳しい自然、ではなくなってしまいました。(少なくとも好天時は)
山小屋が縦走路に連なり、2時置きに小屋で補給ができるような山行は、単純に歩くだけの体力に課題が凝縮され、まぁ、言ってみれば、山ヤがいうところの”山”では全くないんですね。
■ 一般登山者の山
というわけで、夏山の一般登山者が山だと思っているのは、全然山ではないのですが、それでも大勢の市民が大挙して山に押しかけています。
それは「仲間に認められたい」という自尊心の問題のためではないかと思います。
でなくては、後立に行っているのになんで槍穂の自慢話になってしまうのか理解ができません。
今回の縦走では、私は山ヤのおじさんたちと歩きましたから、誰も体力自慢、行った山自慢をする人はいませんでした。
体力があったりするのは、個人差の問題でしかありませんし、行った山が多い少ないは、時間の差でしかありません。
ベテラン山ヤさんは、登場からして違います(笑)。鹿島槍南峰で、雪渓を眺めていたら、まるで考えを読んだかのように「あの雪渓に泊まることもできるよ」と教えてくれる。
私が爺が岳の南尾根を見て、フィールドアクセスで位置を確認し、南尾根と確認し「これ南尾根ですよね。冬道ですよね?」 と聞くと、「柏原新道のどこで尾根に乗るか、帰りに教えてあげるよ」。
とまぁ、そんな具合です。どこの山に登ったという自慢話は聞くことがほとんどないのです。
どこが面白かったか?というのは良く聞きます。どこの小屋の雰囲気がいい、とかも良く教えてくれます。いつの季節がおススメ、といのも、よく聞くアドバイス。
今回行程を管理するのに役立ったアドバイスは、「八峰は不帰を長くして難しくしたみたいな感じだよ」
でした。
地図の上に書かれた点線=登山道を追いかけるだけならまだしも、そこにルートが載っていても、目の前に明らかに道があっても道迷いするのが一般登山者の山です。
なぜなら、そこに「自分で判断する」という要素が一切ないからです。
極論すると、「判断する要素がある」のが山ヤの山、「判断する要素がない」のが登山者の山、そういえるかもしれません。
それは、天候判断、登山技術の判断、体力の判断を含めて・・・です。
登山と言うのは、本来は判断力を高めていくことを愉しむゲームなのです。
それを知らないと、小難しい山岳、誰もが知っている槍穂、に登りたがるわけでしょう。 すごいね~と言われるために。
逆に言えば、槍穂にむやみやたらと登りたがる= 自尊心に問題を抱えている人なんだなぁ…という推測も可能なわけですね…ああ、恥ずかしい(笑)。
■ 夏山の客は ”素人さん”
山小屋の立場で見ると、「冬山のお客さん」と「夏山のお客さん」は違います。
冬山のお客さん = 山ヤ =玄人さん
夏山のお客さん = 登山者 =素人さん
です。最近は、冬山のレベルが下がり、この区分が怪しくなってきているのが問題化しそうな感じですが、一応まだ、冬山は玄人の領域です。
さらに素人の夏山のお客さんの中でも、ド素人のお客さんがいます。
それが、非常識登山者候補生の、団体ツアーのお客さん、です。
次の記事で、ど素人と判定されないための、アレコレを書きます・・・
なるほど~
ReplyDeleteとても分かりやすいご説明ありがとうございます。
何がどう違うのかモヤモヤしていたのですが、整理されました。
kiha58