■ 用語の乱れ
知らなかったが、登山の価値が多様化していると言われる現代、様々な流派(?)の登山が枝分かれして、それがむしろオーソドックスな、いわゆる”本格的な”登山を分かりにくく、難しくしているらしい。
例としては、バリエーションルート。
テクニカルな意味合いで難しいルートと、地図にないと言う意味のルートと混在中。その他にもこんな言葉が出ている。
バリエーションハイキング ⇒ マイナーなルート、廃道、
ハイグレードハイキング ⇒ 岩交じりの低山
”一般ルート”も、バリエーションをするような人の中では使うけれども、一般登山者は使わない。それしかないと思っているから。
”スタンダードルート”は、英語にはあるらしいが日本では聞かない。”ノーマルルート”は、聞いただけで、エベレストの渋滞を思い浮かべる。愉しくなさそうだ・・・
どちらも、”一般ルート”の”一般”に当たる部分だと思うが、ノーマルの反対は”アブノーマル”となり、なんだか悪いことをしているような感じ(^^;)。
そう言えば、雪が降った日に藪が隠れたのを期待して、尾根を地図読みしながら歩く山行を、御坂山岳会では、”キワモノ”と、言っている。
でも、尾根を読んで歩く山は、”キワモノ”ではなく、王道。雪は山の弱点なのだし、正しい登山のあり方だ。
登山の分野?としては、
・フリークライミング
・アルパインクライミング
・トレイルランニング
・ロングトレイル
・高所登山
・藪山
・沢登り
・山菜取り・きのこ取
・自然観察
・動物観察
・野鳥観察
・ハイキング
・アイスクライミング
・ミックスクライミング
・ドライツーリング
・キャンプ
・撮影登山
・団体登山
・学校登山
・ガイド登山
・百名山登山
などがある。全く違う登山スタイルとして認知されるべきだと思う。最近では、”婚活登山”なんてものもある。
大別すると、(一つのところにじっとしている活動)と、(旅的に通過してしまうもの)とに分けることができる。
私は旅派。
■登山における”正しさ”というのは、どう求められるか?
登山における”正しさ”とは何か?
それは意外に簡単で、山がそもそも、何もない原始の場所だったら、と想定すればよい。
何もない、ただの地面の隆起だった場合に、人間はどう山頂にアプローチするか?ということが、登山のスタート。
道路や登山道があるのは、たくさんの人たちがそこを通ったという歴史的経緯の結果であって、仕方ないな、と受け入れるもの。
その”原点”から、遠く乖離したものの例が、観光登山であり、百名山登山。百名山登山は、ピークハントに、スピードと効率を求めたもの。最も易しいルートで登るのはピークだけが目的で、早く100個登りたいからだ。
しかし、深田さんの意図とは全く別の登山スタイルになってしまった。高度経済成長期の時代的価値観が背景にあったのではないだろうか?そうだとすると、こうした登山は今後下火だろう。今世の中で受けているのは、”断・捨・離”だからだ(笑)。シンプルは貧乏を意味しなくなった。
スポーツを登山に持ち込む流れもある。登山はスポーツではない。が、どこかスポーツに対して、憧れがあったのだろうか?スポーツになることを”格上げ”と感じている節がある。クライミングをオリンピック競技にしたがっているのも一つだ。
だが、オリンピックの現代社会での位置づけを見れば、この分野が人間の可能性を広げるためのもの、というよりは、各国のエゴとコマーシャリズムに冒されている分野だということは、誰に目にも明らかに分かる。
トレランに話を戻すと、山岳耐久レースを目的にしているものなので、レース、つまり”競争”をしたいのだ。マラソンを山岳エリアに場所を移したものであって、登山とは違う。
この”競争したい、競い合いたい”という心理ニーズは、むしろフリークライミングと近い。スポーツクライミングでのコンペだ。コンペと言えば、リン・ヒルと言われるほど、リン・ヒルは、コンペの女王として君臨したそうなのだ。
なんだか私が知っているサンフランシスコのヒッピー文化の価値観とは全く180度違うなぁ。ヨセミテは岩登りの聖地だけど、なんでその帰結がコンペになっちゃったんだろう?
私が知っているヒッピー文化は、Love&Pieceだったから、全く性格が違う。求道者のようにトレーニングに明け暮れ、節制し、限界を高め…るのが嫌な、どちらかというと怠惰な人たちが、マリファナを吸ってのんびりソファで寝転んび、反戦を主張するのが正しいヒッピーのような?
話はそれたが、要するに 登山に”競争”を持ちこんだら、
コンペ
トレラン
国の威信を掛けた高所登山
等、になったようだ。コンペも動機づけとして考えるとそんなに悪いこともないのだろう。
わたしにとって、あまり良く分からない&興味がないため知らない、のは、”記録”の世界で、名誉と栄光の世界だ。今の時代は、世界最高齢とか最年少などの年齢、酸素ありからなしへ、など、記録としての”初”に手を替え品を替えしないといけないらしい。この方面も本質とはだんだんかけ離れて行っているような気がしないでもない。なんとなく行き詰まり感が見える世界である。
…と考察すると
量・数
競争
名誉と栄光(記録)
と、どの方面を向いても、旧世界の、それも戦後日本の産めや増やせや、の一時的で普遍的とは言えない特殊な価値観に毒されているように見える。
わたしにとってはあまり価値を感じない世界が広がっているようだ。でも、まぁ、それは、過去の時代の世相を単純に表現しているような気がしないでもない。
問題は 今から先、だ。
■ 質
人は生きている。 生きるという方向は、生まれてしまったら、もう変えられない。これは不変的だ。
なので、どうせ生きるなら、生きることを愉しんだ方が良い、と思う。
そう思うと、”生きること”の中身の質が重要になる。楽しく生きることもできれば、不平を言いつつ、生きることもできる。
同じ物事でも、視点を変えれば、物事の良い面を見ることもできる。難しいのは、
視点を変えることだ。
そういう意味では、人間は体験の質を自分で主体的に選ぶことができる。
良く言われるように良い面を見るか、悪い面を見るか?だ。できればハーフエンプティではなく、ハーフフルを見たいと、誰もが考えるだろう。
良き人生を生きるのに、大事なことは、いかにして視点を変えるか?だ。
≪視点の転換法≫
1)そこから何か学ぶことはないか?とする(反面教師的利用)
2)何が自分にとって不快刺激かを知る材料とする (あらかじめ避ける後学的利用)
3)大抵は自分に足りないもの、なので、それを知る材料とする (弱点の克服)
良く言われることだが、ピンチは逆にチャンスだ。逆境は学びが多いとき、でもある。過去を振り返るとそう思える。
今現在を”つらさ”として認識している時には、”止まない雨はない”と思えばよい。余談だが、そういうことは自然界から学ぶものだ。だから登山は人を作る、と言われるのだろう。
■ みそぎ、瞑想、めくるめく感
登山を始めた頃、山を登ることによって、禊的な意味合いを感じていた。しばらくは、歩く瞑想=登山だと思ていた。
山の道を上がる一歩一歩で、余計なものが剥がれ落ちて行くような感じだ。ピークに立った時にはすっかり、無垢な自分に戻れている。
ところが、それは残念なことに、百名山登山者に「何個目?」と問われることで、がっかりに転換されてしまう。汚点が付くとはこのことだ。
それで、「おばちゃんが団体で登ってこない山に登ろう」と思い、アルパインを志した。
だが、残念なことに、アルパインをスタートすると、逆に問題が増えた。羨望、嫉妬、競争、優越感、技術への無理解や軽視、その結果としての命を粗末に扱うデカダン的姿勢、そういうものだ。
山の道を上がる一歩一歩から、開ける展望が面白くてたまらず、目の前の苦を忘れる、というような山が、私の好きな山だった。
そうした山行を夫と共有して面白かった。山があまりに美しいので、急斜面だと言うことを忘れてしまうのだ。そういう山は、急いで歩くことによって失われる。
岩を始めたころ、「岩は今に生きるということだ」と思った。ところが、今は岩をそのような、現在のみに意識を向ける活動とは、感じられない。なんとなく岩には義務感が付いて回る。人工壁もノルマちっくだ。ノルマになってしまった活動が楽しいわけがない。なぜそれがノルマ化したのか?理由は分かっている。登れなきゃ人間じゃない文化に触れたからだ。
アイスは寒さを忘れる面白さ。今は、アイスは氷があると、それが登路に見えるようになった。ので、正しく成長している気がする。
というのも、尾根も以前はそれが登路とは感じられなかったが、今は山が”歩いてください”と言っているような登路に見えるからだ。
沢もこれまでの経緯から、わたしにとっては、山へ至る登路、山がこちらへどうぞと言っている道になりそうな気がする。
というのは、大体において、自分で行き先を探してこれるものは適性があるからだ。伝丈沢やズミ沢など自前だ。その活動に適正がないときは、どこへ行ったらよいのか、そこから、そもそもわからないものだ。
沢は、閉塞感が漂う山の世界の中で、今後が期待できる、自由でのびのびしている世界だ。だから沢は、今の登山界で、もっとも可能性のある分野と言えると思う。
山梨で沢登りが登攀要素が強いのは、地形的に山梨が急峻なこと、たまたまそのような沢ばかりが紹介されているからだ。登攀要素の強い沢をしなくても良い。歩く沢だって沢は沢。
≪山ヤ道のヒント≫
・余分なものがそぎ落とせる山行が良い山行 ⇔ 問題意識が積み重なる
・苦を忘れる面白さ
・急がない
・ゆっくり取り組む
・今に生きる
・それが登路に見えてくる
・連れて行ってもらわなくても、自分で次に行くべき場所が分かる
・非”ノルマ”
ビジネスの世界にはPPM分析というフレームワークがあるが、それで捉えると、こんな感じ。
人は強みを生かしている時に喜びを感じるものだ。
だから、フリーに強みがある人はフリーの愉しみを追求し、それを世に広めれば良い。チームとして見たときには、各人がそれぞれ強みを生かし、全体として山行に必要な機能が備われば、それでよい。
逆に、同じ強みを持った人とは強みの競争が激化して楽しさは失われるだろう。例えば突破力がある人が二人いれば、二人の間で競争になるだろう。あ、そっか、だから男性同士は一緒に山に行かないんだな。
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Problemchild | Star
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沢 | アイス
| 地図読み
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Dog | Cash Cow
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岩 | 縦走・雪稜
フリー |
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