Monday, April 13, 2015

密度を上げる時期

■ 野山を自由に闊歩できるという楽しさ

昨日、兜山に行って、ちょっと思ったのだが、野山を自由に闊歩できるという楽しさは、やはり、一般の人には随分と分かりづらいのではないだろうか?

私は梅田も難波も三宮も庭化することが好きだった。自分のテリトリーにしてしまうのだ。でも、近くの梅田なら半月も通うと飽きて、別のところを”開拓”したくなってしまう。容易に引っ越すことができない日本ではそうやって都市を開拓する。

引っ越しが容易だと、どうなってしまうか?というと、1年しか住んでいないサンフランシスコでは、なんと6回も引っ越しをした。あちらには敷金礼金などと言ったボッタクリな仕組みはなく、引っ越す負担が軽かったので、ホテルを変わるように次々、住んでみたい居住地に住んでみたのだ。そのエリアが分かった、という一定の自分なりの要約ができるまで、興味が持続した。逆に言えば、分かった、という気持ちになれば、興味が持続しなくなった。サンフランシスコでハマっていたのは、小さな町の特色を知ること。街歩きだった。

同じようなことが海外旅行では、サンフランシスコ以外に、パリ、ウェリントン、メルボルンで言え、大体これらの都市は、エリアごとの特色、近づいては行けない場所、魅力的なエリア、ファッションタウン、静かな自然が楽しめる場所、鉄道があれば沿線の特徴、などが頭に入っている。というか、頭に入れるまでが、楽しく、それが済んでしまえば、あとは、ときどき新たな発見を付け加えることに喜びを見出すくらいで、あまり動き回らない。基本的に自分の感性のアンテナにひっかかるオシャレなカフェやアンティークショップを探し歩いていた。

そういう空間把握の仕方は、ギャザラー(gatherer)なのかもしれない。太古の昔、自分の家の周りで、採取生活をしていた時の。じゃ、男性はハンターなのだろうか?だからルートを次々落としたがるのだろうか?彼らには何が起こっているのだろうか?

■ へぇ~が基本

野山の闊歩の愉しみに話を戻そう。

知らない尾根をここはどんなところかな?思いながら歩くのが、なぜ楽しいのだろうか?

楽しいのは、どんなところか、行って見たら分かるからだ。単純に「へぇ~」という発見の驚きだ。逆に言えば、行って見なくても、分かっていればタノシクナイ。

つまり情報がありすぎるとタノシクナイ

そのどんなところか?という情報… これが、色々と表しづらい。ただ”美しい場所”と言ったところで、美しさという言葉に何をイメージするか?は人によって千差万別…。

だから、主観を大いに含む修飾語、例えば、”美しい”や”面白い”などを、あるものを表現するのに対して、使うのは正しくない…というか誤解や落胆を招くだろう。

昨日の山は、楽しかった…が、そこは行ったことがない場所をこういう場所にこんなものがあるのかと発見したことが楽しかったのであって、それが他の人に同じように楽しく感じられるとは限らない。

そこが野山を自由に闊歩するスキルを得たいと思っていない人に、アピールするには、弱含みだ。

■ 自由の大事さは人によりけり

地図読みの山の愉しみには、自由と言う楽しみがある。

決められたルートを辿るのではない、自分で好きにルート設定して歩く、という楽しみだ。

でも、自由が良いというのも、一つの価値観で、自由であることを心地よく思わない人たちも実際はたくさんいる。

自由がないことの反対は安全であり、安全志向が強いと安全な不自由を選ぶだろう。実際は、不自由でも安全でなかったりするが、しかし、不自由を強制する者が提供する、と建前であっても語るところのものは”安全”だ。大体偽りの安全が不自由の釣餌だ。

自由は楽しい。でも、その楽しさは、万人に共通ではない。

でも、私は自由を楽しい、と思う人に増えてほしい。自由の拡大を担当する係でありたく、逆ではありたくない。

自由をありがたがるかどうかは個人差があるが、

 登山史は、自然界における人間の自由の拡大の歴史

だと思う。それに異論がある人は少ないだろう。

だから、やはり個人における登山活動も登山史をなぞるべきだ。登山史と同じく、

 自然界における自分の自由を拡大するプロセス

であることが、登山の王道として大事だと思う。

今の時代は、それが逆行している。 

 自然界における人間の行動を出来るだけ制約しよう、

という方向に向かっている。

しかも、制約しようとしている人たちは、なぜか実力とは別のところで人間を選別して、ある人には自由を与え、ある人には与えまいとしている。大抵は、料金を払うかどうか?だ(笑)。

彼らは神を演じようとしている。それは大体は、お役人的な特権志向が土台になっている。大衆によって与えられた権利を使って、自己利益誘導する、ということが、世間で当然視されているのも問題だ。

しかし、山はいい。

自然界は、その人の実力だけが反映される。実際、実力しか反映されない、と言ってもいいわけだから。

そういう意味で、山に行くことで、その人は自信や誇りを深めるだろう…小さな挫折も味わうだろう。

■ 自分のありのままの力を受け入れる

私にとっては、自分への誇りを高めた山は、ジョウゴ沢だった。

ジョウゴ沢山行が示したことは、私が自分の実力を下回る山、つまり安全圏内の山しか企画しないという、実力に大してちょうど良い山を企画できる力が備わっている、ということだった。客観的な自分の力をよく把握している、と言える。

逆に、ちょっとした最近の挫折は、昨日行った兜山で尾根の取り付きを間違ったことだ。現在地の確認力、周囲の地形から現在地を読み取る力が不足しているのだ。

山は、率直に、その人の実力を暴く…。

そういう意味では、

・12の力をつけて、10ではなく、8の山に登る= 登山計画力 はOK
・沢の地形で目的の尾根を見つける =沢の地形把握力 は要注意

とそういうことかな。

どちらも自分を守る防御力の世界だ。歩荷力や登攀力の攻めの力ではない。

私は攻めの力は今以上今の時点では欲しいと思っていない。それは、防御力と不釣り合いに攻撃力が備わってしまうと、とんでもないところに連れて行かれそうで嫌だ、というのが多分にある。

この2年は急成長した。そういう時は取りこぼした課題も多いはずだ。既に上った山の数は197山行だ。

今までの中でやれていないことを埋める、密度を上げる時期に来たのだろう。


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