Friday, January 23, 2015

山と正面から向き合えば・・・

■ ダーリンも風邪

昨夜は夫がなんと夕方の6時に家に帰ってきた…帰ってきた途端にベッドに入って、眼鏡もかけたまま、ぐっすりお休み…沈没です。

私たち夫婦はいまだに一緒のベッドで寝ている。世の中にはそうでない夫婦もいるらしく、そんなことは私には想像もつかないことだった。たぶん、それは私の方が一般から、かけ離れた感性をしているらしい…と、結婚して10年以上たってから、友人に教えてもらった。

…というわけで、夫は昨日、私に風邪を移され、彼の方が重傷、なんと熱まで…。晩御飯も食べないで伸びていた…。

同じベッドで寝るという代償は、風邪を引くリスク倍増。高くつくわけだ(笑)。

■ 山の死

昨日は一日、ベッドの中で、終日『登山の文化史』を読んでいた。

私は登山歴まだ5年しかない。

山の死は悲しい…。 

どう位置付けて良いか分からないので、いつも動揺する。

自分も死の可能性があるからだ。それは知っている。だがそれは一般登山者も同じことだ。山は危険が一杯なので、いつでもその可能性はある。

山の死をすでに何例か知っている。実際に会って話をしたことがある、知っている人が亡くなった例も既にある。

■ リスクを引き受ける精神

登山は趣味にしようと決めたもの、だ。職業を選ぶのと同じだ。やると決めたから、やっている。

登山を始めたとき、私は、自分をアルパイン志向だと思ったことはなかった。

ただ山は危険であり、その山に登るからには、最低限のことを知り、備えを持つべきだ、と思って、普通に安全対策を実施して来た。

今振り返ると、それこそが、アルパインの精神だ。リスクを引き受ける精神。

自然の脅威は、相手がハイカーだろうが、本格的登山者だろうが、山である限りは同じ自然だ。
雨は誰の上にも雨なのだ。 ハイカーの上だけ雨が振らない、なんてない。

どの登山の指南書を見ても、天気に注意せよ、計画をきちんと立てろ、地図を持て、地形をよめ、山の機嫌を感じろ、装備は細心に、無理はするな、と書いていある。

■ アルパイン=向上心

しかし、ただ一つ、本に書いてなくて、”本格的な登山”と”お気楽ハイカー”を分けるのは、向上心、ではないだろうか?

山のために、自己を向上させよう、とするか、しないか?

当然ながら山の世界では山仕様の度合いの強い人が、そうでない人より上だ。

より山に順応しているほうが山に順応していない(つまり下界の価値観を山に持ち込んでいる)人よりも、上級者にランクインする。

■ コストを払う

つまり、登山者とハイカーを分かつのは、どこまで山仕様に自分を変える覚悟があるか?だ。

登山の文化史にはこうある。

「ハイカーが山で死ぬほどバカげたものはない」

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ハイキングと登山を峻別するべきだと思う。ハイキングは良き娯楽であるが、要するに人の通った道を指導票によって歩くものである。おのずと歩きは上手になるが、これを重ねて登山になるのではない。

そこには登山におけるごとき、敢闘の精神、またそれを可能ならしめるための普段の技術の鍛錬ということがない。ここで登山は初めて娯楽と区別され、スポーツに数えられる。

ただ一般に登山家と数えられる人々のうちには、実はハイカーにすぎぬものが案外多いのであって(日本アルプスにもハイキングはありうる)山に対するなんらの正しい、知識訓練もなくして、山へ登って死ぬ人がいる。これはハイカーが山で死んだのである。

登山家と言われるためには、地図の見方はもとより、雪崩れの知識、山スキー、岩登り等を心得ていなくてはならない。
ーーーーーーーーーーーーー登山の文化史 P52 より引用

■ 上は一つだから誰もが同じところを通る 

どんなことでも同じだが、上を目指す人…は、山でも、山でなくても、自己を向上させようとしている人だ。

アルピニズムは、西洋の価値観なので、登山しつつ、”上”をめざし、自己研鑽に励む。その”上”は技術と言う意味の、”上”でもあるし、山のサイズと言う意味の”上”でもある。

誰にとっても山をしていれば、”上”へ行く道のりは、必然的に地図読みへつながり、地図読みの後は、ロープワーク、そして、クライミングにつながり、アイスや沢につながる。

ハイキングの人は自己を向上させようとは思っていないので、”上”につながらない。彼らが行く山は同じ山でも、内容的に自分で登ったとさえいえない。

山ヤの体系の中で、”上”を目指す以上、技術を避けることはできない。山をよく知ろうという道のりにある人であれば、誰もが同じところを通る。

それは尾根を歩いてさえいれば、やがて森林限界が出てきて、ハイ松エリアになるのと同じようなことで、最初に出てくる技術は地図読みなので、地図読みをすっ飛ばして、その先はない。いつどこで、どんな登山をしていても、山が少しずつでも、向上して行けば、必ず、同じ場所を通る。

だから、山ヤの先輩は、時代が違っても、普遍的に後輩の成長段階を知ることができるし、アドバイスを与えることができる。

■ 自分との戦い

食べることに事欠かない人にとって(つまり大方の日本人)、仕事は何のためにするのか?

それは昨日より良い自分になるためだ。先月より、今月、去年より今年、よりベターな自己を目指して頑張る。つまり自己実現のためだ。そのことを理解できない人は仕事で踏ん張れない。これはより初歩的な段階では、他者との競争でスタートする。

けれども、結局、高度化すると、自己との戦いになる。

己れとの戦いに転換できるか否か?が一つの分かれ目だし、それが生きることの本質だ。

生きることと言うのは、結局は自分を実現して行くことだ。

自分を生きること、そのものが、未知への冒険行だ。

西洋的アルピニズムは山を通じた自己との戦いだが、日本には、もともと近代登山はなかった。あったのは修験道の山だ。

だから、登山を自己との対話、それも自分の限界をプッシュする活動、と、とらえる心的ニーズは、個人差が大きいのかもしれない。

私にとっては、登山は初めは、禊的な意味があった。

■ 試練がなければ、価値は形成されない

山は誰しにも試練を与える。

 雪上訓練をしなくてはならない、というコストを上回っても、〇〇山に行きたいか? Yes/No

私の場合、冬のタカマタギに出かけたときに一つの境界線があった。あれは現地へ行くだけでも大変な山で、時間と労力と経済的負担、の三拍子だった。

 そのコストを払ってまでも雪山に行きたいか?Yes/ No

問いは人によって違う。

 雪道運転をマスターしてでも雪の山に行きたいか? Yes/No

 苦手の地図読みを乗り越えてでも、山に行きたいか? Yes/No

単独では、甘えは一切許されない。つまり、苦手を誰かに頼ることはできない。だから、単独行者は非常に強い動機を持っていると言える。単独行では、小さなハードルのすべてを自分の力で越えなくてはならない。

 林道が心細くても行きたいか? Yesの人だけが単独でも山に行く。
 オジサンに襲われるかもしれなくても行くか? Yesの人だけが単独でも山に行く。

登山初年度、夫が一緒に行ってくれない日曜日、冬の大菩薩に出かけた。

 冬に行く大菩薩は初めてで、心細かった。それでも行きたいか? Yes/No

 林道を冬タイヤで走るのは、初めてだ。それでも行きたいか? Yes/No

 ひとりで行くか? Yes/No

 寒いよ、それでも行くの? Yes/No

こうした小さな葛藤のすべてに Yesと答えられる人だけが単独行を選択する…

だから、分かっている人はソロ登山に注目する。ソロであってもなお、そのリスクを冒してまで、行きたいか?という問いに全部Yesが出た、という意味だからだ。

つまり、試練を経ていないで、得た山行より、試練を経てなお行った山行の方が価値が高い。

それだけ強く行きたいという気持ちに貫かれている、ということだ。 岳人の凄さは、山の大小だけではなく、貫きたい意思の強さで計られる面がある。昨今は、”行けるから行っただけ”の山が増えているので余計にそうだ。

■ 諦観というか覚悟と言うか

私の、二つ目の試練は、経済的なものだった。昨今山を学ぶにはお金がかかる。大町の講習会に出ると決めたときは、一つの諦観があった。

だって、山に行きたいんだもの、講習会にお金を払うのは仕方がない・・・そういう諦観だ。

まぁ経験から、経済的負担と言うのは乗り越えるのが比較的易しいタイプの試練だ。働けば済むことだからだ。実際、小屋に働きに出て解消した。

その後、歩荷散歩も試練だった。無いものはつけないことにはしかたない。

山岳会に属すことも気に入らないが、仕方ない、とあきらめた。

そういう諦観は、やってみると別に大したことでないことが多い。

逃げてばかりいないで、正面から取り組んでみることだ。

中はこんなことになっているんです・・・
■ 山バカ

次々と出てくる試練を甘受して、どのようなハードルが出てきても、山へ行く、という方を選ぶようになると、これはもう病気である(笑)。

しかし、この病気の基礎はどこで築かれたのか?いうと、前の趣味バレエにある。バレエをやっている人は等しく、バレエ馬鹿である。寝ても覚めてもアンドゥオールしようとしている…(アンドゥオールと言うのはバレエの基礎で足を外旋(ターンアウト)すること)。

バレエをする人は、趣味だろうがプロだろうがバレエに生きてしまう。

山はそれと似ている。


今日の御坂方面

6 comments:

  1. いつも楽しく読ませていただいている山梨県内の登山初心者(というか「ハイカー」)です。雪山は行ったことがないのですが、ツアーで来月、大菩薩に行くことに。ウェアや靴で悩み中です(実は冬用の靴を持っていない)。自分で考えてリスクテイクしなくては!と思いつつ。。。

    ReplyDelete
    Replies
    1. 大菩薩、冬もいいところですよね!私も初心者の頃、良く行きました。あそこなら年中行けます。

      冬の大菩薩の特徴は、乾燥していて、寒いことです。風も強いです。防風対策があると安心です。 風を通さないシェル、耳当て、風を通さない素材の手袋などですね!アイゼンはいる時と要らないときがあるので、念のため入れておくので、6本でも12本でもどちらでもOKですが、入れてはおかないといけないです。
      靴はアイゼンがつくものであれば、本格的な冬靴でなくても、スリーシーズン用でも行けます。下半分は普通の里山です。
      稜線上、ともかく風が強くて、乾燥していて、寒いです・・・ 前に行った時は、甘栗が凍ってくっついて食べられなくなりました。ピッケルの出番はないです。が岩場が少し出てきます(唐松尾根)。

      きっと富士山の景色が素晴らしいので堪能してきてくださいね!

      Delete
  2. 返信したつもりが反映されてないようで。。。ありがとうございます。とても参考になりました。富士山麓住民ですが、違うところから見るとそのたび新鮮なので、楽しみです。

    ReplyDelete
    Replies
    1. 一回ツアーで行けば、その後は自分で好きな時に行けるようになります。丸川峠も良いですし、石丸峠もとても良いところです。 また感想聞かせてくださいね!

      Delete
  3. 上のポストをした者です。この週末、無事行ってきました!丸川峠~大菩薩嶺~介山荘、で泊まって、翌日福ちゃん荘経由で下りました。天気が今一つで(くもり時々雪)、冬の山というのは夏山とは全く違うところなのだなと実感しました。ウェアや靴の感じも分かりました。寒くなく、でも汗かかないように、が難しいですね。ベンチレーションつきのハードシェル買って本当に良かったと思いました。

    ReplyDelete
    Replies
    1. すばらしい!厳しい天候条件の中でしたね!この冬一番の大型の寒気だそうです。すごく良い経験をされたのではないでしょうか?条件の悪い時を経験しておくと、その経験はものすごく貴重です。強くなれます。逆だとあとでがっかりしてしまうこともあります。

      おっしゃっているように、今はウエアや靴の感じ方、違いますよね~。ペース配分も難しいですよね、汗をかくなと言われても、かいちゃうし。 大菩薩のあたりは、寒さは一級品なので、八ヶ岳などの大きい山でも変わらないですよ~

      Delete