私は羨ましいなぁ・・・と思ったことは、「あなたもそうしなさい」という神様のお告げだと思っている。
以前、ミルフォードサウンドに行った時、ミルフォードトラックを歩くというバックパッカーを見て羨ましかった。
当時私は、出張中の貴重な休暇の一日をぶらりとフェリーに乗って訪ねてきていた。
バックパッキング・・・大きなザックに生活用品一式を詰めて、自分が背負える荷だけを背負って、自分の足が歩けるだけの距離を歩く。そういう旅は、本当にフェアな行為に思える。
車を使えば、歩くつもりがない人も目的地まで行けてしまう。その車を運転する運転手を雇えば、運転することさえなく、目的地まで行けてしまう。大型車を買えば、道中も快適で苦痛は無くなる。
車中泊ではなく、モーテル、モーテルではなく、ホテル、と、どんどん、”自分の力ではなく、お金の力を借りる”ということで、困難さは薄らいでいく。
その結果、得られる究極の生活が、一点から身じろぎもしない生活、という訳なのだ。
昔の王侯貴族は、御輿に載って自ら歩く必要がなかったと思うのだが、そういう生活を現代は庶民がやっている。
現代生活においては、なぜだか、一歩も動かないで、何かを実現する、ということのほうが進歩とされている。
例えば、平社員は、地下鉄。重役はハイヤー。
でも、一番、健康なのは誰なのだろう?毎日、自転車で会社に通っている、貧乏社員だったりして。
例えば、テレビのリモコン。最近は、その他の色々な家電まで、リモコンで動かそうというくらいだ。
でも、そんなものいるか?半径5m以内の移動もしない人間って幸せなのだろうか?
その上、それを実現可能にしているのは、ただのお金でしかなく、その金自体も、その人が自ら額に汗して稼いだ金でないことが多いのが現代・・・。金銭の多寡が、その人本来の、個人の能力が実現できないことを実現させてくれる上、その多寡もその人の実力を反映はしていない。
たしかに極端な不快を現代文明は和らげてくれたと思う・・・夏の酷暑や冬の厳寒、長くつらい旅、日々の重労働・・・昔は洗濯や炊事は大変だった。
そうした重労働から解放されることは、人類の積年の想いだったためだろう・・・自らの足で歩いたり、自らの労働をしないで済むことが、”豊かさ”の象徴になったのは。
でも、それが個人の幸福に資していた程度はすっかり遠ざかってしまったかもしれない。
歩かないために足の筋肉が衰えて、マッチ棒のようになり、胴体はでっぷり太ってしまって、ハンプティダンプティのような体形になってしまった、どこかの社長をうらやむ人は誰もいない。
歩くということだけではなく、何かしら、大事なことが王侯貴族のような生活には欠けている・・・本来の幸福とはまた遠い世界だと直感で感じさせられるのはなぜなのだろう?
いわゆる労働の喜びということなのだろうか?
そういう疑問を、一介の市民が持つことになるのが、現代社会で、現代はそれだけ肉体的な意味での、庶民の王侯貴族化が進んでしまったんだろうとも思える。
そして、パラドックス。 甲府は田舎だからそうでもないが、大阪ではただ歩くとか走る、ということが、街の中は危険だから、という理由でできないため、なんとスポーツジムまで行って走らないといけないのだ!
通勤で歩けばタダなのに、わざわざお金を払ってジムで走らせていただく時代。通勤で歩けば、石油依存しなくて済む。ジムで走れば、それだけ電気を使い石油を浪費する。
それでもやっぱり現実に即すと、夜中の公演は危なくて走れないし、夜遅くまでの仕事は、朝の早起きなんてとてもできない。健康どころか命の危険に晒されてしまう。
一体どうしてこんな本末転倒なことになったのか?石油会社の陰謀か、これは。
本来、人間が発明した文明の利器は、人間を重労働から解放し、その解放された時間とエネルギーで、人間にしかできない創造的なことをする、そのためにあったのではないだろうか?
そんなことを考えながらも、そうした生活から抜け出せない毎日・・・それが都会で通勤電車に揺られる毎日だったような気がする。
そういう立場から見ると、自分の足で歩くということ、自分の背負える荷だけで自分の生活のニーズを賄うということは、それができたときには、生物としての本源的な能力をまだ失っていなかったのだ・・・という一種の安堵につながる気がする。
誰しも本当は少し怖いのではないだろうか。
電車を降りて、歩いたらって言われても歩けないかもしれない・・・とか
買い物の荷物を自分で持てって言われても、持てないかもしれない・・・とか
ホテルを辞めて、テントにって言われても、テント生活に耐えれないかもしれない・・・とか
でも、怖いけど、ちょっと知りたくもあるのではないだろうか?
自分はどのくらい歩けるのだろうか?とか
自分はどれくらい担げるのだろうか?とか
自分はテントにも暮らせるのだろうか?とか
単純に動物として、どこまで自分の生命力が残っているのか?みたいなこと。
それが意外にも結構あれば、飼いならされた生活に、Noと言わないまでも、”無ければ無いでいいんだけどね・・・”程度の精神的余裕、言い換えれば自信、言い換えれば選択肢を持つことができるのではないだろうか?
歩けないから地下鉄がないと生きていけない!とか、冷暖房完備のふかふかベッドの家でないと生きていけない!とか、そうした、”ないと生きていけない!”が少ないほど、人間は自由の身であるからにして。
そう言う意味で自分の生きる力を実感し、自信回復できるのが、バックパッキング、という活動のような気がする。
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