今日は甲府は雨模様…お盆を過ぎるとだんだんと涼しくなってきた。
今年のお盆休みは、とても満ち足りた、幸福な気分だった。
そのことについて考える…今年のお盆は、とても良い山行が二つあった。それが幸福感の理由だ。
明神主稜、爺ヶ岳だ。
■ そつのなさ
明神が心の充足をもたらしたのは、前から行きたいと考えていた山だったから、という理由だけではないかもしれない。
考えられる要因は、8の山だったということだった。つまりギリギリではなかった。安全のマージン、ゆとりが大きい山だったのだった。幸福へのヒントその1、自分の実力に見合った山。
また一緒に行った相手と山での行動がストレスフリーだったのには、驚いた。初対面でも”アルパイン”の人とは行動が同じなのだった。行動に対する無駄がない。
今何をすべきか?次に何をすべきか?ということは、単独の旅で覚えるものなので、連れられていく旅しか経験がない…と、次にどうするか?と言うことに対して、合理的な判断(と言っても、山ですることは大抵の場合、同じ行動になる…)ができない。
つまり単独の経験がないと、まともなセカンドにもなれないってことだなぁ・・・。
何もしないで指示待ちで突っ立っている人間の頭数と時間が多くなれば、それが全体の行動時間の遅さに現れる。
アルパインを理解している者同士なら、初対面であっても、何の指示もなくても、行動は同じになるのだ…ということが明神では発見だった。
時々、私がアルパインクライミングの考え方にマッチしているのは、普段の生活でも、行動の出戻りや無駄を嫌う、テキパキとしたタイプだからではないか?と思う。
さっさとする。合理的。はアルパインな価値観だ。ヒントその2.
この山行は、技術的にもゆとりを残していた。クライミングも2ピッチのみだったし。手に汗握るクライミングはしていない。
■ リスク回避
爺ヶ岳が心の満足をもたらしたのは、悪天候を完全に回避したからだ。リスクを予期して、それを回避することに喜びを感じる。
それともう一つは、やはり、ゆとりのある行程。朝5時半出発、14時半下山はゆとりがある。
翌日、案の定、雨が平野部でも降った時は、山にいたらさぞ悪かったろうと想像でき、判断の的確さを感じることができて、満足した。
というわけで山における心の充足のヒントその3は、リスク回避の的確さ、だ。
危なげのないところはなく、このような山行を組み立てることができるようになったなー、と非常に満足した。
■ 同じ失敗をしない
さて、面白かった山行をさらに振り返る… 峠沢~ナメラ沢も面白い旅だった。
一番面白かったのは尾根の下りはじめだ。それは未知の要素が次々現れたからだ。
一方、登りに使った峠沢では一瞬きわどいシーンがあり、結果オーライではあったが、2度目の冒険は無しにしている。リスクヘッジなしでの、命知らず体験を積み重ねるようなことはしない主義だ。
もちろん、一回目もそのようなつもりでそうした羽目に陥ったのではなく、先行者が単純にヤバそうになっただけだったのだが。
1度の経験で学び、より慎重さを身につければ良いということだ。慎重さは臆病さということで、ヤバい目に遭った時は、それを教訓に2度目はヤバくないようにすることだ。
■ 兜山
特筆すべき、面白い山だったのは、3月に行った兜山だ。これは単純な地図読み山行。
地形をこう歩けば、こうなるに違いない、ここに出るに違いない、という予想が面白かった山だった。
したがって、岩登りのような命の危険はない。それでも、とても面白く、病みつきになりそうだった。
予想し、それが当たる、という喜びなのか?誰も”連れて行かれる側”、依存している人がおらず、3人で行ったが、3人ともが協力関係にある、ということも楽しさの秘訣のような気がした。
ともかくガードを外して楽しめたのだった。
■ 景色 vs 静かさ
その他、過去の山で面白かった山を色々と考えてみる…
最初の頃は、単純に見たことのない景色に感動をしていた…しかし、それらは、しばらくすると、混雑へのウンザリ感で打ち消されるようになった。
動物との出会いも、喜びだった。
つきつめると、過不足なく回っている生態系について、地球と言う環境の完成度の高さについて感動していた。
自然の中で生かされている存在、人間の存在のはかなさやちっぽけさを感じる。それが山の魅力だった。
アルパインでは、素晴らしい景色を見るには見るのだが、登らなくてはならないので、ああ、美しいとは思っても、景色に心を打たれている場合ではないことの方が多い。
沢も同様で、沢の目的が滝の登攀にあることが多いので、景観に心打たれている、という場合でないことが多い。
それは残念な面だが、もちろん、感動して、岩から落っこちている場合ではないので・・・技術的なことが先立つのは、困難な山を求めている場合は、当然のように思える。
山と自分との対話を愉しむ・・・という面で言えば、やはり単独がもっともすばらしい旅の形態ではないかと思う。特に一般道であれば。
そういう内的対話の山は、瞑想の山で、これは単純に歩くということから発していると思う。歩けば人は瞑想できるのだ。
したがって海外のロングトレイルなどの長い道は、日本の登山のように、”ジャンダルムに登ったぞー”(vサイン)、”槍に登ったぞー”(vサイン)と他者との競争のために歩くトレイルではないだろう・・・
私は知らなかったのだが、最近読んだ、『新岳人講座 アルピニズムⅠ』によると、登山がスポーツ化したことと、アルピニズムはほぼ同意義のようで、山対人ではなく、人対人が山を舞台に競い合うのがアルパインの流れなのだそうだ。
その対極にある、景観を楽しむ…という目的で行くとなると、見るべき景観がある山は、あまり多くないのかもしれない。
私自身は、雪のある景観がやはり好きだ。なぜだろう?
誰にも踏まれていない尾根を歩きたい、といつも思う。
そこにある孤独の感じ、静寂の世界、生命感のなさ、そんなものに魅かれる。無機的な世界が好きなのだ。
とは言っても、そういう山に一人で行くわけにはいかないから、事は難しくなってくる・・・
・・・というわけで、駄文になってしまったが、自分が山のどのような点に引かれているか、のまとめ
・計画の適切さ
・行動のそつのなさ
・山岳景観
・山との対話
・静寂
・慎重な行動
・未知との遭遇
まぁ基本的には単純に、行ったことがないところに行ってみたい、ということがある。
それは旅行と同じことだから、行ってしまえば満足してしまう。
ある一つの別の側面は、ライフスタイルとして、自然と近くありたい、ということがある。自然の中に身を置くのは、今の時代では特殊なことになってしまったけれど、基本的に人間としては普通のことに思える。
現代が、人間の生活を自然と切り離してしまったので、その反動、ということなのではないか?と思ったりするのだが・・。そういう意味では都会人の頃のほうが、自然回帰に対するニーズは強く、今はそれほど自然の中に身を置く精神的ニーズは感じていない。
足るを知る、と言うが、満ち足りている。
私は、今、もう十分だと思える登山経験を積んでいる。
そのことについて考えると、巡り合わせへの驚きと与えられたことへの感謝の念が浮かんでくる。
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