今日は甲府は結構な量の雨ふり…どんよりではなく、ハッキリとした雨の日だ。
雨の日は、家の中で片づけ物がはかどる。片づけ物を済ませたら、なんだか成し遂げた気分だ。それで、ご褒美に映画を見る。
■ アメイジンググレイス
昨日は『アメイジング・グレイス』を見た。
アメイジンググレイスという名の讃美歌は、アメリカにいたら、しょっちゅう聞かされる音楽だ。
この歌の歌詞が、奴隷船の船長だった人が悔い改めて作った歌詞だと言うことは知っていた。当時の奴隷貿易が、人を人とも扱わない非人道的で悲惨な仕打ちだったのも知っていた。奴隷は海に投げ捨てられていたそうだ。家畜以下の扱い。(でも人道的に扱ったとしても、奴隷貿易はおかしい)
植民地のプランテーションが労働搾取以外の何物でもないことは知っていた。当時は砂糖は奴隷の血で出来たものだったのだ。
先進国の議場で、搾取のほうが人道より上になってしまうことの理由が、「どうやってイギリスは食べていくんだ!」という漠然とした経済不安であることも知っていた。
が、その歌詞を作った人がジョン・ニュートンという名の人で、改心して牧師になり、孤独で貧しい生涯を送ったことは知らなかった。
その牧師がウィリアム・ウィルバーフォースという教え子に奴隷解放という天令を伝達し、政治家となった彼がイギリスにおける奴隷解放運動の先鋒だったことも知らなかった。
奴隷解放が成し遂げられるまでに20年の月日を要し、その実現に史上最年少、つまり実力者のイギリスの首相ウィリアム・ピットが親友であった背景があったとも知らなかった。
どこかで一つ歯車が途切れても、奴隷解放は遅れただろう。たとえば、ジョン・ニュートンが教え子にアメイジング・グレイスを教えなければ?教え子が政治家の道を進むように励まさなければ?ウィルバーフォースに妻がいなければ彼は健康を維持できず死んでしまったかもしれない。親友ウィリアム・ピットの実務の手腕が無ければ、議会でこっそり法案を通すことができなかったかもしれない。とまぁ、こんな感じに、色々な点で、運命の歯車が動いているので、それがなんとも不思議な気分だった。
この当時イギリスは奴隷貿易を経済基盤として、繁栄を享受していたそうなのだが、奴隷貿易が廃止されても、イギリス経済が破たんしたとは歴史の教科書には書いていない。こういうことから今の日本が学べそうなことはいっぱいあるような気がする。
それにしても、資本家 vs 労働者(単純労働者)という世界の、基本的な労使の構図は、隷属&酷使(他の言葉を使えば効率化)であって、共存共栄ではなく、人道か?経済メリットか?という問いに対する答えは、今の現代においても、いまだに出ていないのだと思った。
もちろん、奴隷制度がなりふり構わず横行していた時代と違って、今の時代は少なくとも先進国では、基本的人権が守られているということに法制上はそうなっているけれども、実際は、”サービス残業”に代表されるように、言葉がマイルドになっただけで、無賃労働という搾取の本質が変わらぬ日常であることは誰もが知っている。
…というようなことを考えた映画だった。
■ 現代的な解
人道主義
自然保護
などといった正論は、大人になるにつれて、かっこわるいもの・・・と位置付けれれるようになる。
それで、経済的メリットを他の何もかもに優先する思考回路が大人だ、ということに落ち着くのだが、結局、そうしたものにかじりつく、根本的な理由は、
不安
でしかないようだ。”持てる者”は”持たない”ことが怖いのだ。 資産家は破産が怖い。まぁ怖くない人がいたら不思議だ。
持てる者 → 持たざる者への移行
と言う視点で見ると、現代日本はそのような状況にある。
で、ここで私は登山の出番かな~と思う訳なのである。
登山というのは、持たざることの疑似体験、だから。 電気のない生活。自分の背負える荷だけを背負って歩く生活。自分の歩ける距離だけを歩く生活。
ほんの1日でも、そういう生活をすることで、自分の力以外のものに頼らなくても意外と大丈夫なんだな・・・と思うことができる。
最初は一日10kmしか歩けなくても、20kmくらい誰でも歩けるようになる。
1日20km歩けると分かっていたら、会社にいる時に電車が止まっても、20km離れた自宅に帰ることくらいできるだろう。普段は電車を使っていても、いざとなれば電車に依存しないでいい、と知ることは安心につながる。
今まで依存していたものが、”無くては生きていけない”から、”あればあったで便利なもの”程度にランクを下げる。
それは、自立が増し、自由が増すということなのだ。
経済的に自分が立ち行かなくなるのではないか?という不安という足かせが無くなれば、大義名分に生きたくない人などいないだろう・・・と思うのだ。 どうだろうか?
そう言う意味では、例えば、電力会社の”電気がないと大変なことになりますよ”というようなタイプの漠然とした脅しに屈しない、強い人間を、登山という体験が、小さなことからコツコツと積み上げている、ということは言えなないだろうか?
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