Sunday, July 5, 2015

(今ある危険以上に山を危険にする人) → (危険にしない人)へ、いかに転換してもらうのか?

■  山の危険 vs 人の危険

昨日は、沢に行っていた。初めて歩く人と一緒だ。用事があって山梨付近を通るハズだったのだが、雨天で流れ、結局沢のために来てもらった格好になってしまった。深謝だ。

そして、一緒に行った沢は、脆くて危険もあったが、一緒に行った人はその危険をそれ以上にする人ではなかった。どういう意味か?

(今ある山の危険)を(それ以上危険)にしない・・・そういう人は少ない。

(今ある山の危険)が10だとする。 それをザイルを出さないで突破すると、スリップのリスクからは身を守られていない。だから、リスクは20に増える。

ザイルを出せば、少なくともスリップで死ぬリスクは無くなる。人間は高いところから、落ちれば死ぬのが当然なのだから、物理の法則からは身を守るのが普通のことだ。

(今ある危険以上に山を危険にする人)もいる。例えば、分かりやすい例で行くと、雪の赤岳に6本爪アイゼンで来る人などだ。 もっと分かりやすい言葉では、山を舐めている、という.。もちろん、当人は分かっていないだけで、舐めているつもりがない、というのが根本的原因だ。

私が今、悩んでいるのは、

(今ある危険以上に山を危険にする人) → (危険にしない人)へ、いかに転換してもらうのか???

ということだ。

■ 山はわざわざ危険にしなくても、危険

山は、わざわざ難しくしなくても、すでに危険だ。その危険を実際の山以上に大きくしない、ということが大事だ。

いや、大事だという言葉では、生ぬるいかもしれない。そうでなくては、時間の問題で必ず山で死ぬというくらい、はっきりしていることだと思う。

山はそもそも危険なので、その危険に丁寧に対処していても、運が悪ければ死んでしまう。

昨日は脆い山だったが、私がスリップしなかったのは、運が良かったということもできる。とはいえ、スリップの確率を下げる努力はしている。下山では、沢靴のフエルトの摩耗を減らすため、私はいつも履いていた下山用の靴を履いたが、雨で、濡れた道では、スリップしやすかったので、途中で沢靴に履き戻り、念のために持ってきたチェーンアイゼンを付けた。これはもろい泥つきを高巻くことがあれば、使おうと思って持ってきたが、昨日は雨だったので、尾根の方もグランドが緩くなっていた。

こういう風に、事故というのは、予想して出会う確率を減らすことができるし、本当に仕方ない事故と言うのは、そうやって確率を減らしても起る。

そのような事故と、本来ザイルを付けるべきところでつけなくて墜ちる事故とは本質が違う。

■ 男性の心理

時々思うのだが、男性は、山を実際の山以上に、困難に見せることで、自分の凄さをアピールしたい、という心理ニーズがあるのかもしれない。

そうではなく、山の危険に、しっかり向き合い、危険に対処できる術を身に着けてもらうには、どうしたらいいのだろうか?

というのも、私は女性だからなのだ。山の世界は8:2で男性が多い。特にアルパインになると、もう女性は数える程度しかいない。

ところが、男性は一緒に行く女性の前で、カッコつけたいという心理ニーズを押さえるのがとても難しいらしいのだ…。でも女性であると言うことは変えられないことだ。

したがって、男性の側に、そうした気持ちを捨ててもらうことが、一番山を安全にする。双方にとってそうなのだ。

昨日一緒にヤキチ沢に行ってくれた人は、そういう心理ニーズを超越した人だったので、一緒に行ってもらい、ただ山を愉しむことができた。

そうでない人と行くと、私の方が安全管理しなくてはならなくなる。要所要所で安全管理するように、アドバイスをするのはいいのだが、そのアドバイスを聞かないので、聞いてもらうためには、どうすれば良いか?と頭を抱えなくてはいけない。

山というのは、冒険だ。冒険には当然危険が付きまとう。山が持つ本来の危険性よりも、登山者が加担することで危険が増してしまっては、冒険ではなく、死ぬために行くもの、になってしまう。一か八か登山という訳だ。

■ 一人の方がむしろ安全になってしまう
 
だから、誰と行くかで、実際山の危険度は違う。

例えば、滝を前にして、ザイルを出すべきか出さざるべきか、判断する、という初歩のステップ1を分かっていない人と行くと、危険は増える。

支点をいい加減にしか作れない人と行っても危険は増える。

私は少なくとも、私の危機管理センサーのアラームが起動されない人と山に行きたい。それは最低限の要求だ。

そうでなくては、一人で行った方がより安全、ということになってしまう。

もちろん、人には失敗や間違いがあり、それは成長過程では避けることができない。

たとえば、支点は、2点から取る、ということが基本だが、カムなどの不安な支点の場合は、3点にするなど数を増やす。

しかし、初心者が間違って、2点からしか支点を取っていなくても、たいていの場合は、大きな事故につながらない。なぜなら、そのような稚拙な安全対策に対する思想(つまり技術)しか、まだ身に着けていない人には、後続が歩けるような場所(つまりそもそも支点が要らない場所)でしか、支点構築をさせないからだ。

つまり、これが行ける山に行く、という意味だ。しかし、そのミスから学ばないと、いつまでたっても行ける山は大きくならない。

より大きな危険を取りたいのであれば、その危険を冒すためには、より強い安全対策を施せるようにならないといけない。

だから、より大きな山に行きたければ、小さなミスから学ばなくてはならない。それは山から送られたメッセージだ。

私が疑問なのは、なぜ、その点がそんなにも理解が難しいのだろうか?ということだ。山との自己対話している人なら、必ず分かる点だからだ。

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