Wednesday, July 1, 2015

沢を忠実に詰めるということ・生きる自信をつけること

■ 山ヤを尊敬します☆

今日は甲府もウットオシイ梅雨って感じのお天気です。

山ヤの価値観、というものを考えています。というのも、ある沢を調べていたら、誤記かなぁと思える記述があったので、良くその沢を知っていそうな人に問い合わせたら、

  沢を忠実に詰めるということは、流れ出しの最高標高点を目指すということだ

と教わり、さすが山ヤが言うことは違うなーと、納得を深めています。

先日、ナメラ沢に行ったのですが、その源流である西破風山ピークを詰めず、なんだか物足りない思いをしました。なんとなく、これではナメラ沢を知ったことにならない、という気がしたのです。

でもまぁ、その日の翌日も沢山行予定でしたし、軽めで終わりたいという気持ちもあったので、まあいいか、とりあえず偵察ということで・・・と終了。

でも、同行者は何という山に詰める沢かさえも知らずに来ていて、なんか違う・・・と違和感を覚えました。

というのも、登山という活動の骨子は、ピークを目指す、だからです。

岩も沢も、尾根も、雪もアイスも、ピークを目指す手段の多様化(派生ルート=バリエーション)にすぎません。そこのところが分かっていないと、登山をしている、とは言えないのです。

山岳会にいる、ということは、尾根を歩いている段階で、そうしたことが分かっていて当然です。一つの尾根を歩けば周辺の概念が頭に入り・・・と言う具合なので、沢を詰めることが、ピークを詰める手段の一つの派生形と言うことが分かっていれば、山頂がなんていう場所なのか知らない、ということはないハズです・・・で、あれ?思ったより初心者なのかな?大丈夫なのかな?と思いました。

私の方は、その沢はピークへ到達しなかったので、ちょっと消化不良な感じ・・・。でもまぁ、ナメラ沢が一人で行ってもいいような楽勝沢と分かったことが収穫です。

■ ドラマが楽しい

やはり沢は、

 ちょっと水の冷たさにドキドキする入渓から、

 木陰の沢の涼しそうな様子、

 一転して困難を強いられる滝場の突破や高巻きのスリル、

 そして滝上に出てくるご褒美としての美しい景色、

 山頂へのつまらないことが多いツメ、
 
 そのつまらなさを取り戻させてくれる山頂での達成感、

 下山で尾根を降りるときのむずかしさ、

 それから、途中での地図読みでのシナリオ先読み、

 その後、終了点での不安、ちゃんと戻れた時の安堵、

・・・・こうしたものが、全部揃って楽しさだなぁ・・・という気がします。

もちろん、その時の目的に合わせて、おいしいとこどりができるということは、沢の全体像を知っているからこそできる、上級テクだ!と思います。

最近、一般道が楽しくないのは、そういう”ドラマ”が全然ないからです。

もちろん、景色は次々変わっていくのですが、まるで、車窓から眺める景色が変わる、というような感じで、山と係り合っている、と言う感じが全然足りません。

しかし、尾根は登山の基本で、しかも時々は歩かないと体力も弱るので、尾根歩きはトレーニングか偵察なので、ノルマ終了というような気分です。だから、誰かと歩こうかなという気になってしまうんです…。

尾根を歩くこと自体を目的とすることはできない体質になってしまいました…(汗)。縦走も同じで、なんだか退屈だな~と思ってしまいます。

一方、沢の方はまだ何も知らないので、水線入れたり、トポを地図に書き写していると、わくわくしてきます。そこには未知のドラマがいっぱいあるからです。

考えてみれば、3年前は、縦走に同じようにワクワクしていたんですよねぇ… 最近、普通の山に足が向かないのは、ノルマだから、というわけです。

ノルマには弱い私です・・・

■ 道具依存症は尊敬できない

一般に、文明の利器に頼らないで、登山するほうが、道具を使ってする登山よりも困難です。したがって、より敬意に値すると考えています。

例えば、2万5千の地図だけで、現在地を同定できるほうが、GPSで現在地を同定するより、当然ですが難しいです。

ですから、GPS依存症は、山ヤとしてはNoNoです。山ヤをめざしているんでない?それなら結構。

GPSは電池がなくなれば、ただの重しです。GPSはまさかの事態に陥った時のための保険とするべきで、人の歩いた後の軌跡を使って、GPSをナビに使うなど、山ヤとしてみたら、とんでもないと思います。何が面白いのか、全然わかりません。

私も夫も体力のない、へなちょこ登山者ですが、初期の時期からGPSをナビに使ったことはありません。現在地が分かりにくいときに見るか、分岐などで確認で見たりする程度でしたし、最近は間違いながら進むのに慣れたので、全く見ないで、家に帰ってトレースを見て、要所要所の判断を反省しています。

もちろん、本来はクライミングに来ているのに、目的の岩が見つからずに右往左往している時にGPSと座標で見つけてくるとか、そういうのは別です。何をしに来ているのか?というとクラミングに来ているのですから。私も見つけにくいなと思った岩場の座標は取ってあったりします。

■ 生きる力を確認する

都会生活が長いと、自然とは切り離された生き方をしています。空調の効いた部屋で、昼も夜も蛍光灯の光に照らされています。

すると、人間の体内時計やメタボリズム、精神状態もおかしくなってくるみたいで、都会にいると原因不明の不調に長いこと悩まされます。それは都会でなくても甲府でも同じみたいで、ヨガの生徒さんには、身体の不調の話をよく聞かされます。

私は幸いなことに体の不調からは、ずいぶん解放されました。サプリメントも飲んでいないし、薬も買わないし、化粧品も買いませんし、衣類も登山の物を買うくらいです。

それでも悲しきかな、お勤めの人と同じように確実に8時間はPCの前に座っているような気がしますが・・・(^^;)

登山の魅力の一つは、今まで依存していた文明の利器に依存しなくても、意外に大丈夫だ、と分かる、と言うことがあると思います。

例えば、トイレ。トイレがない生活など考えられない!と思っているのが普通ですが…青空トイレ、慣れると、普通のトイレより清潔かも???

今の時代は、みな先行きに不安を持っていると思います。何しろ、年金制度は破たんすることが確実です。自分が年を取った時、どうやって生きていけばいいのか?

そんなことを心配するのは早すぎる、と分かってはいても、日本の未来が明るく感じられる要素が少ないために、漠然とした将来の不安に包まれた社会である、というのは言い得ています。

人間は希望さえあれば、現状が幸福でなくても生きていける動物らしいですが(たとえば、ナチスの迫害に耐えた記録、『夜と霧』に描かれています)、現代はその全く逆です。

生まれたときから裕福で飼いならされ、生き物としての野性や生命力は弱くなっている。現状は幸福でも、将来に希望が全くない時代です。

これは個人の問題ではなく、時代の背景がそのような時代にあると言うことです。そのような時代的な不安を払しょくする一つのよすが・・・として、今、自然回帰の流れがあるのでしょう…

将来、現金収入が得られなくなるかもしれない、自分の肉体と自然が与えてくれる土、水、日の光だけで、生きていかなくてはならないかもしれない…そんな風に考える人は少なくないようです。

若者の新規就農の動機は、およそ、そのようなものではないでしょうか…

そういう目で見たとき、登山と言うのは、ありとあらゆるアウトドアアクティビティの基本で、もっとも一般の人にとって取り付きやすいもの、入門的位置づけである、ということが言えると思います。

自分のカラダと判断力だけで自然と対話する… 自分が背負えるだけの荷と今ある知恵だけで、なんとか山に行って帰ってこれた、そういう成功体験によって皆が得たいと思っているもの…それは

 生きる自信

いや、もっと言えば、何があっても

 生き抜く自信

なのだと思います。



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