Monday, April 18, 2016

主体性=委譲

■ 主体性

昨日は、最近入会した会の総会だった。30代が多い会なので、私は年増に入る(笑)。

参加者が主体性をもって運営に取り組んでいる。新鮮だった。

前の会では、一部の特権者(管理する側)と平市民(管理される側)に別れる運営スタイルだったからだ。

主体的に会を盛り立てようと発言しているメンバーは、まだ数年レベルの入会歴の浅い人も多かった。前の会では考えられないことだろう。

何が違うのか?

会長職などの会を率いる人の度量が一番問題なんだろうな。委譲、ということだ。平たく言えば、実務は若い者に任せて、自分は見守るということだ。

■ 説明力

山は自己責任と言われる。が、自己責任と言われるのに、主体性を発揮しようとすると、危険を盾に、非常識登山者扱いされることが多い。

例えば、私は雪の山から登山をスタートしたが、さんざんガイド登山をしないことをとがめられた。

自分で自分のことを判断する権限(もしくは知識)が与えられない事が多い。本音は色々で、商業登山の場合は、要するにホンネはお金を払ってほしいということだ。自立してしまうと、優良顧客ではなくなる。

山岳会の場合は、心配だということなのだが、それなら、何がどう心配だ、と具体的に分かりやすく伝えることが重要なのではないだろうか?単純に会の責任問題になると困る、ということも、あるかもしれない。

”ホンネと建前”が分離=行動に合理性を見出すのが難しいスタイル・・・それでは、分かりやすさと公明さが無くなる。結果、運営に謎や無理が生じるのだろう。

もしかすると、古いスタイルの山岳会の衰退は、そうした封建主義的とも言えるスタイルの衰退にすぎないのかもしれない。

そうであれば、自己責任が増えているか?減っているか?と言う視点で見ると、

  封建的スタイルの衰退=主体性を持って活動している人が多くなったことを示す、

に過ぎず、正常化への正当な流れでしかないのかもしれない。この辺は企業形態と似ているかもしれない。

無責任と依存は表裏一体なのだ。自立させたければ、責任(決める権限)も持たせないといけない。

古い会   新しい会

発言権  経歴順 ⇔  メンバー一律
i役割   押し付け ⇔  自ら選ぶ
責任     会   ⇔  自己責任

発言は活発で、指摘は論理的・合理的だった。

合理的でない主張が、会員歴が長いというだけで通ったり、古い会員を守ることが至上課題になって公平性を失っていることはなかった。

発言がカジュアルなので、古い会だと生意気扱いされるだろうな~ということは容易に想像がついた。

パートナーが見つからなければ、出ていくだけのこと、ということで、メンバーの入れ替えも、頻繁そうだったので、”今いる人が今必要な活動をする”という方針だと、当然、入会数か月レベルの人が主体の活動にならざるを得ないし、その人たちが運営の主体者となる。

そうしたことは、数年の実績を積んで実力を証明し、上の者に「許されないと自由がない」という、従来型のスタイルでは起らないだろうなーと思った。

発言権を得るまでに石の上にも3年が、日本の通例だからだ。変な言いかただが、日本企業から外資にうつった時みたいな感じだ。

■ 感謝

私は指導者に比較的恵まれた。非常に感謝している。私一人の見識では、登山がここまで本格化することはできなかったであろうからだ。

もちろん、私自身の資質もある。

 ・オープンマインドでいること
 ・支払わなければならない代償を受け入れる気でいること (責任をもつこと)

は大事な二つの資質だ。
 
オープンマインドと言うのは食わず嫌いをしないということだ。臆せず、先入観で判断しない。これは多くの女性登山者に言えることだ。先入観で、「ロープがでる山は怖いからやらない」とか「リーダーは男性がやるもの、だから女性の私はロープワークを知らなくて良い」と、やってみる前に判断してしまえば、一般登山で終わりだろう。

何事もやる前からできないしないということにしてしまうと、山行の内容的にも、人間的にも、成長はしないだろう。食わず嫌いということだ。

もう一つは、代償を払うということ。何かを得るということは、代わりに何かができないことでもあり、何かを失うことでもある。

子どもを産むという幸福を得れば、自由な時間と言う代償は当然払わなくてはならないし、経済的にひっ迫するかどうかは、かかる経費と自分の収入を照らし合わせれば、事前に自分で予見できることだろう。

何か技術を教わりたいと思えば、授業料は払わなくてはならない。それは金銭的負担かもしれないし、遠方に住む支援者の元まで出かけていく、と言う事かもしれない。犠牲なしで何かを得ることはできないのだ。

私は幸運に恵まれ、また自分の資質もマッチしていたので、比較的知識が充実しているので、そうしたメリットを自分だけで独占する、というのは狭量なことだろうと思うし、教えてくれた人たちの意思にも、そむくと思う。

なので、それを後進の人に拡散する義務があると思う。

師匠らに教わったことを若い人、次の人に還元する事に対して、恩着せがましくする予定はないし、これまでもしていない。

が、相手の無知のために、自分自身が危険に巻き込まれてしまうほどの自己犠牲は、誰であってもすべきでないと思う。

■ これまでの問題点

これまで、何人かの人が教わりたい、もしくはパートナー候補と言うことで、来てくれた。私が教えられるのはアルパインの基本的なスタカットの手順まで。

それ以上・・・つまり、経験が必要な岩を見る目やルート選びなどは教えられない。

それらは一緒に成長していく中で、一緒に考えてくれる人が欲しいわけだった。

≪パート―歴のまとめ≫

30代前半女性: 高所登山経験者。危険予知せず。ロープワーク、何度教えても覚えられない。

50代後半男性: 性格的に慌ててしまうため、危険。ロープを通さず投げそうで怖かった。体力があるため、一人で行けてしまう。パートナーを本人は必要としていない上、パートナーにとってもその人と組むほうが危険になってしまう。

30代女性: 判断面で合意形成に不安が残るため、パートナー成立に至らず。

40代男性: いきなり四尾根のため。行ける場所の判断が違うため。

50代男性: ビレイが不確実。習得意欲がない。

50代男性: ビレイに不安。必要な所でロープを出さないで良いと思っている。

50代女性: 一般登山(読図)がまだ習得に至っていなかった。

40代女性: ロープが出る山に行きたい気持ちがない。一般登山未満で満足中

30代女性: 冒険的な心情が不向き。安心領域から出たいと思っていない。

結論すると、問題点は拡散すべき対象者が、アルパインクライミングに進むには、準備不足の人が多かったということかもしれない。

当然だが、パートナーには命を預けるので、そのことを自覚していない、無責任体質の人はアルパインには向かない。

危険予知をしようとしない人にも適性がないかもしれない。

危険予知のうち、具体的には、地図読み等も入る。読図をしないで済ませようとすると、単純な手抜きというだけではなく、地図をみないで山中に入ったら、どうなるだろうか?という危険の予測力に欠けている。

ロープワーク、ビレイ、雪上訓練、装備、天候知識などすべて同じ。

私は山を教わったことを、とても感謝しているので、私が知っている程度の事は、垣根なく教えてあげたいと思っている。

が、やってみた結果理解したことだが、準備不足の人に教えても、その労力は徒労になってしまう。

基本的に徒労は避けるべきだと思う。

そのサインの一つは

 ・装備不足

であり、雪山に行くのに冬靴を持っていない人は、短時間の体験レベルにとどめるべきだ。

また

 ・認識不足

も、教えるにはまだ早いということを示すことが体験して分かった。 認識不足であれば、立て板に水で何もかも流れて行ってしまうのだ。

したがって、登山者を育てるのは、タイミングをよく見て、必要なことを必要なタイミングで入れてやる必要がある。

そのタイミングの見極め、が、経験が必要、と言われる部分だ。

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