登山史については、総合センターの講習会当時も、ちょっと勉強した。登山史の概説くらいは知っておこうとは思った。
■ バリエーションルートと新人の距離感
が、当時は私は、一般登山者と本格的登山の境界線も分かっておらず、したがって近代登山の祖とか現代の登山の課題、という身近に感じられる問題意識のところ以外は、あまり意識に留め置かなかった。
私が行きたいのは、人が踏んでいない雪稜であり、雪中泊であって、冬壁という”本格的登山”へ向かう気がなかったので、バリエーションルートの初登が誰かについて、知っても仕方なかったのだ。
誰でも歩ける、一般ルートの初登については知りたいと思ったし、特に山梨の周辺の山については、私が目指している登山が地域に根付いた登山だったので、記憶に残っている。例えば、梨大山岳部と聞けば、積雪期南アルプス全山縦走をしたなと思うし、白鳳峠は白鳳会が開いたルートだと知っている。
■ 反発から自分を探る
登山を始めた頃、「御坂山塊を歩き尽くしたら?」と言われ、非常に心外だった。美しい八ヶ岳の雪の世界が待っている時に、なぜ?と。それも”歩き尽くす”という、地理的空白を埋めるためだけの活動、何が目的なんだ?そんな暇人じゃない、と思った。
実際にも、初めて行った山は、八ヶ岳の西岳と三方分山で、西岳は気に入ったが、三方分山は気に入らず、むしろ単独を基本とする私は行くべきでない、怖い、と感じた。
見知らぬ場所、美しい場所に行きたい。それが動機だ。
それが可能な時に、ただ歩き尽くすために山を歩くなど、時間の無駄に感じる。また、”地理的空白を埋めるために歩き尽くす”というような、発想も嫌いだ。
気に入っている八ヶ岳でさえ、歩き尽くすという発想で歩いていることはない。同じところを飽きずに何度も歩いているので、分かるだろう。
一方で、自然は豊かで美しく、どのような場所でも山を歩けば、楽しい新しい発見があると思う。先日は、大室山に行って、すごく楽しかったし、女山や節刀など、今年の冬の会心の山はみな、小さい山の冒険行だ。
■ キワ物?
先輩はこうした山を”キワ物”と自嘲気味に呼ぶ。けれども、私には少しもキワ物に感じられない。
むしろ、自分でルートを設定して歩く山は、王道に感じられる。小さい山でルートファインディングできないのに、どうして大きい山で、バリエーションルートで、出来ると思えるのだろう?
バリエーションルートで、ルートミスして遭難未遂へ至った登山者の反省禄に、ルートファイについて、「人は人に助けられてしか自然の中に存在できない」という感想があった。この人は、四尾根と思って二尾根を登ったのだった。この感想など、私には登山者としての成長の放棄宣言にしか聞こえない。
ありのままの自然と自分との対話が登山ではないのか?この人は、先人の残してくれた残置との対話がしたいのか?
そもそも登る尾根事態を間違う事態に陥るのは、クライミング力以前の実力不足なのではないのか?なぜ自分の力量への反省はないのか?
残置を追いかける、岩登りが正しい岩だと思ってしまうのは、人工壁で同じ色のテープを追いかけるからではないのか?
本当は岩の弱点を読み、自分で自分が登るべきルートを発見できる力を付けようと思うことが大事なのではないか?
それは、一般ルートで赤布を追いかける登山、つまりハイキングと同じではないのか?
■ 漂泊観
この本によると、日本の伝統としての登山は、”漂泊観”と表現されている。
漂泊観、まさに私が山で自由を得たなと思う時の感覚と同じだ。
それは、この本によると、アルピニズムの正反対とされている(笑)。
でも、正直、一番”漂泊”できるのは、ルートが明白な縦走路だし、藪の隠れた雪稜であり、間違えようのない一本道となって明瞭に示されている、縦走路や細い尾根だ。それらで”漂泊”できなかったら、一体どこでするんだろう?
痩せ尾根は歩いてください、と山が言っているように見える。
ということは、八ヶ岳のようなご近所のアルパインとはなんなのだろうか?要するにスポーツクライミングなのだろうか?それとも、ギアを頼らないと言う意味でのフリークライミングなのだろうか?単純に登れさえすれば良く、歩くのが嫌いな人のためのルートなのだろうか?
■ 相反する世界?
”アルピニズムと低山趣味の応酬”という小見出しがあるくらい、アルパインと低山趣味は相反する価値観らしい。
低山の側は、静観派と呼ばれるのだそうだ。その潮流を担ったのが、”霧の旅”という会だそうで、エリート登山家が顧みない低山趣味に徹したのだそうだ。
顧問・長老は、小暮理太郎、田部重治、武田久吉、担手に尾崎喜八。柳田国男の、深田久弥の名前も見える。霧ヶ峰の小屋が挙げられているのが印象的だった。私と夫も霧ヶ峰で山を始めた。また厳冬期に行きたいくらいだ。
興味深いのは、これら二つが相反する要素として考えられていることで、同じ地平線に続くものではないと考えられていることだ。
しかし、未知のルートを探すという、冒険的要素を抜いたら、アルピニズムは、タダの苦行か、山を征服する、という傲慢の活動に陥ってしまうのではないだろうか?
バリエーションルートという言葉そのものが”より困難”と言う意味だからして。
それには、小さい山で、ルートファインディングできない人がどうやって大きい山でルーファイするつもりなのだろう?
他にも相反するとされる要素がある。それが、門外漢にとっては意外な発見で面白かった。
相反する要素
- 信仰登山 vs 物見遊山
- エリート登山 vs 強力
- 登頂 vs 縦走
- ブルジョワ登山(慶応ガイド付き) vs プロレタリアート登山(早稲田 人夫付き)
- エリートのヒマラヤ登山(大学山岳部) vs 谷川岳(社会人)
- アルピニズム vs 低山趣味
- 極地法 vs アルパインスタイル
- 大学山岳部(リッチ) vs 社会人山岳部(貧乏)
- ヒマラヤ vs 国内の岩と氷
- ヒマラヤ vs ヨーロッパアルプス
- 冬山登山 vs ゲレンデスキーヤー
近しい要素
- 学校登山&女子登山&信仰登山
- 探検&渓流の遡行&黒部&奥秩父&漂泊観&山旅
- 学校山岳部&アルピニズム
- 槍&アイガー&涸沢
- 積雪期初登頂&スキー
- マナスル&極地法&集団行動
- スキー&大衆化
- ヨセミテ&フリークライミング
- フリークライミング&スポーツ
- エベレスト&大衆化
- 高所登山&パック旅行
- スポーツ化&レジャー化
- 百名山&オーバーユース&中高年&遭難
■ 現代のテーマ
・自然保護、芸術の山、思索の山。
・冒険⇒スポーツ化、レジャー化は、登山そのものの価値観の崩壊
これらの要素の中で、くくれる共通項を探すと、
お金の有無
が出てくる(笑)。
社会人山岳会は、基本的にはお金がないほうに入るらしく、また海外に行くための組織力もないらしく、そうなると、海外の山の代替えとしての、国内のバリエーションルート、谷川岳、穂高の岩場、ということになるらしい。
思うに、現代は以前と違って、海外登山の敷居が非常に低くなり、経済的なゆとりも、体力的なゆとりもある、大学山岳部時代に、高所登山を経験させたい、と、この時期に高所登山を経験することが多いのではないかと思う。
しかし、大学山岳部の高所登山は、伝統的に見ても、国内のバリエーションとは対極にある登山スタイルのようだ。
オマケに今の時代は高所登山はパック旅行化されている。となると、高所登山でリーダーを務めたからと言って、国内のバリエーションでも務められると考えるのは、短絡すぎるのではないだろうか?そもそも、どうも性質が180度反対のようなのだから。
それが、この登山史の本を読んで透けて見えたような気がする。
また
大衆化=集団化
であるようだ。山ほど集団化がそぐわない場所もないように思う。人数は増えれば増えるほど危ない。私の意見では4人がベストだ。
レジャー化、観光化、スポーツ化、は、アルパインの進化には、逆のベクトルだと言うことを改めて確認した。
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