Sunday, March 2, 2014

登山界におけるパワーバランスの逆転と同時に減少した登山本来の愉しみ

■ 仲間意識

昨日は他の山岳会の山行に便乗していたのですが、新人さん、代表、私の3人パーティだった。

私は自分で会を発足する必要も、将来的な選択肢として、ほのかに感じているのですが、会を発足するにしても、コンセプトが必要。

でも、私の山は、現在のところ、地味な山。それに私は派手なルートに連れていける実力がないので、会を発足するにしても指導者が必要。 結局、コンセプトが固まらず、身動きできないでいる。

そこで、新人のタケちゃんに 「この会を選んだ時、何が決め手だったの?」 と聞いてみたら、

  「仲間意識」

ということだった。

仲間意識かぁ・・・

■ 言葉のイメージ

同じ言葉でも、人によって想起するイメージは違う。

  仲間意識

という言葉によって、私が想起するイメージは… 非常に悪い(ーー;)

  一方的に面倒を見させられる

なんだな(笑)…

その他 ”仲間意識”によって想起させられる内容。

 ・人を利用しようという人が使う、体裁の良い言葉
 ・足の引っ張り合い
 ・嫉妬
 ・出る杭は打たれる
 ・しがらみ
 ・お荷物
 ・お金やモノを失う
 ・時間を失う

うーん(笑)

こうしたイメージは一体なぜできたのだろう?と考えると、基本的には、経験がそれを作るのだろう。

それじゃ、私にとって仲間って、どんだけ悲惨経験だったんだ?!って話だ(笑)。

■ 悲惨経験 事例

今年も、色々と失敗事例があり、

 悲惨事例その1は、アイスクライミング初心者 
 悲惨事例その2は、雪洞泊依頼者

です。それ以前に、

 悲惨事例その3、雪山初心者
 悲惨事例その4、ヨガの教え子
 悲惨事例その5、山小屋の主

悲惨事例その1は、登山初心者をアイスクライミングに道具を貸して連れて行ったら(冬靴も)、全部貸し続けてほしいと言う話であり、

悲惨事例その2は、雪洞山行を依頼され、依頼先がないのだろうと心配して、ガイドとの窓口を延々とすることになり、結果的に山行企画のパシリに使われた、という結末。ついでチケット入手のパシリもさせられそうになると言うオマケつき。 

悲惨事例その3、として、山に行きたいと言うので、北八つ、日向山から始め、初心者の雪山北横岳に連れて行った人がいた。結局、私の発言に傷ついたといい(私には心当たりがない)、一方的にメールを無視し始め、貸しているザックとレインウェアを返してくれない・・・。

悲惨事例その4、は、無料でヨガを教えてあげていた、カフェ経営者。ストレスコントロールを自分で身につける気はなく、愚痴のはけ口を求めていただけのようだ。

悲惨事例その5、は、一緒に歩いていた人で、「この道〇〇時間ですが、歩けますか?」と聞いたら「お任せします」と言われ、撃沈。

大体の事例において、共通の性質は

  ・頼ってきてくれる人が自分の立場を客観的に見れていない

であり、私の方の反省点は

  ・親切にしすぎる

であった。

私は責任感が強く、義理堅いほうなので、面倒見が良い。

その結果、頼ってきた人が増長する、というのが典型的パターンだ。

これは欠点として、ストレングスファインダーでも指摘されているんだな。だから、そういう意味では、私の側の問題とも言える。

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人から助けて欲しいと頼まれるとき、あなたはよく考えて頼まれなくてはいけません。あなたはとても親切心が旺盛なので、やるべきことより多くを背負い込んでしまう、ことになるからです。
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■ 仲間意識の原型

仲間意識の原型は、一番小さな社会である家庭だと思うので、結局、この典型的パターンは、私の家庭における立場と同じだ。

その立場はというと、三人兄弟の長女で、片親の母子家庭に育ったので、年功序列?の仕組み上、私は”おねえちゃん”=”小さな母親”であった。面倒を見る側であり、見られる側ではない。

弟も妹も

「小さいからまだ分からないから」 

「あなたがやってあげなさい(我慢しなさい)」

が基本構図だ。

あまりに遠い過去なので忘れかけていたが、私は、この構図から逃げるのを初期の人生テーマとしていたと思う(笑)。

「人の面倒を見たくない」→ 「自分の面倒は自分で見るべき」=自立というテーマが確立。

これは、「山は自己責任」と非常によくマッチする価値観なので、私に山が合っているというのは、そういうことなんだろうと思う。

余談だけど、自立していると、女は可愛くない、と悪口を言われるのが日本社会である。娘時代は男性諸氏には「可愛くない」と言われ、全然モテたことはない。

でも、20年後に振り返ると、そういう事を言っていた当時の男性諸氏は、「可愛い人」を嫁にもらって、結局、嫁で苦労しているような気がするんだが…(笑) 

男性におごってもらうことが、普通のような女性は”彼女”としては可愛いが、結局、砂糖衣がかかったタカリと同じことだ。その結果、妻となり、砂糖衣が必要なくなると、鬼嫁化する。

そんなことも分からないのだろうか?何例も見ているけれど、若い男性のココロは、一向にそのことを理解できないようだ。おだてにとても弱い。でも”頼りにされるとうれしい”というのが、男性のなのだから、仕方ないのかもしれない。 

まぁ 我が家は関係なくてよかった。

■ パワーバランスの逆転

一方、自分が後輩になるのは苦手だ。 でも、私は、どちらかというと、とても良くされてきた方ではないか?と思う。

大学の学生寮住まいの時は、1年は一人だったので、7人が先輩だったし、大体において先輩との関係は良好。 ドイツ語もロシア語も、アラビア語も先輩に教えてもらったし、インド語科の先輩にはインド料理を教わった。

入社した時も開発部で、唯一の新人だったが、来る仕事は拒まない体質だったので、ソフト屋なのに半田ごてを持って基盤を作っていたり、なぜか恒温室で恒温テストをしたりしていた。考えてみれば、先輩がしたくない雑用をこなすのに、いいように使われていただけのような気がするが(笑)、世界が広がったので全然損はしていない。 

それはなぜか?

 「自分の立ち位置を客観視でき」

 「必要以上に甘えない」

からなのではないだろうか? 

後輩がスキルや知識を持っていない場合に、手助けするのを嫌がる人は少ない。

私も、後輩格となる相手が知らないだろう、分からないだろうと思うから、手助けするのであって、それは別に嫌なことではない。

嫌なことは、それを当然視し、パワーバランスが逆転することだろう。 パワーバランスが逆転しない限り、その関係は正常だ。

■ 最初が肝心?

人は最初に入った会社を生涯ベンチマークにして、その後の会社勤め生活を送るらしい。

それは山岳会でも、どうやら同じらしい。

こうしたことを考えるのは、山岳会が組織であるからだ。どうせ入るなら、自分にマッチした組織が良い、と思うからだ。

■ 自分の立ち位置を客観視できない、一般登山者

昨日は、すごく楽しい山行だった。 

登山は、登山という大きな世界の中で、自分がどこに位置づけられるのか?を客観的に把握するのが難しい。

実力を客観視するのは難しい。 槍自慢や百名山自慢は見苦しい。

たとえば、尾根しか知らなかったら、その人は、登山と大きな世界の、極端に基本的な一面しか見ていない。

「自然っていいね」とそういう人が言えば、冬山を知っている人は、”冬にしか見えれない雄大な自然の姿”を見てから言え、と思うはずだ。

沢を知っている人には、「一般道のどこが自然なんだ?」と思える。

それは、登山に慣れた人が、別荘を見て”自然って素敵ね~!”と喜ぶ都会生活者を見て、「自然って言われても、別荘って電気、ガスも水道もあって、どこが自然なんだろう?むしろ自然破壊では?」と思うのと同じ構図だ。

原生林の森を知っている人には、庭の植木は「自然」ではなく「不自然」だ。

野生のキノコや山菜を知っていたら、農業は「自然」ではなく「人工」だ。

野草をしっていたら、庭の草木は「人工」だし、カタカナの花は「不自然な外来種の脅威」だし、野草園などの施設は、「不自然」だ。

岩登りをする人にしてみれば、赤岳に登った自慢をしている人は単純に微笑ましい。赤ちゃんが「立てました」に似てるのだ。それは重要な一歩だが(だから喜んで良いのだが)、ゴールではなく、スタートだ。

連れて行ってもらった登山で、ビクトリーを意味するピースサインをしてしまう、ガイド登山の登山者もほほえましい。それ、自分の勝利ではなく、わざと勝たせてもらった試合だ。

そういうのを、一言でいうと、

 話が通じない、

ということになる。

 「〇〇ちゃんはまだ自分のことが分かっていないから」

と、結局は同じだ。

去年は山小屋にくる登山者の8割が、「分かっていない〇〇ちゃん」だったことに衝撃を受けた。

分かっていないことをわかっていないことが主流化している。

悪貨は良貨を駆逐する、という言葉を思い出す。

要するに、分かっていない人の方が権利を振りかざすようになって、教える方がなぜか立場が悪いのだ。

立場逆でしょう、と言うことになってしまっている。つまり、パワーバランスの逆転だ。

■ 解決案は?

それでは、一体どうしたら、この逆転状況が解決できるのか?

それは非常に困難な問いだ。

障害はというと…

 ・教えてもらって当然と言うような考え方は本人の資質によるところが大きい

 ・歳をとればとるほどと、ものの考え方を変えることは難しい

というわけで、結局、人の資質そのものに帰結してしまう… しかし、これでは何も解決できない。

なので、資質の問題に帰せず、技術的な問題に徹しなくてはならない。

これにはアイディアマンである必要がある。

たとえば、

・人の後ろについて歩くことを登山だと思っている → 先頭を当番制にして、ワンピッチずつ先頭を歩かせる

・登山道を歩くことを登山だと思っている  → 一般道でもベアリング表を作る。

・食事、バテナイ歩き方、ウエアリング、ペース配分、など、山行に MYテーマを持たせる

などなど・・・

たぶん、多くの人は、自分を成長させるテーマを自分で立てること、それができない。

でも、それが面白いんだけどなぁ・・・

■ 身の丈の山

しかし、そうやって、テーマを持つ、となると、一つの山行は、普通の山行であってもかなり時間がかかることになり、大きな山には行けない。

結果、地味な山、小さい山となるのだが・・・考えてみると、それがその登山者の身の丈の山、ってことなので・・・それでいいんじゃ???

昔、岳人は丹沢で修業したそうだし・・・

それが嫌だ・・・っていう人に、屈してしまうから、パワーバランスが逆転することになるんだろうな・・・・

自らの反省も込めてそう思う。 なぜ屈してしまうのか?

それは、自信を付させてやりたいという親心から出たものだ。

しかし、期待とは裏腹に、自信をつけ、山を好きになるのではなく、山を舐め、図に乗ってしまうというのが結末のようだ。 

そしてそれが、結局、それが登山者が安易に山頂を求めるようになった原因でもある、ということなのだろう。

■ プロセスから学ぶ楽しみを登山者に与える

でも・・・それで、登山が最大限に楽しめるのだろうか?

私の甲斐駒(黒戸尾根)は、達成するのに4年かかった。 

行って見ると、体力的には何も問題なく、たしかに人に言われたように、歩くだけなら、別に1年目でも歩けなと思う。 

若いから体力は問題ないし、そういう人にとっては先延ばしにすればするほど、体力貯金が減るので、体力が要る山を後伸ばしにしてもいいことはないと思えるからだ。 

体力が要る山は若さが勝負だが、体力が必要ないクライミングなどは年を取ってからでもできる。 

全体像が見えている人はそういうことをつい先回りして、考えてしまうのだ。

でも、もし一年目で黒戸尾根に登ってしまっていたら、私はその辺の、つけ上がった登山者と同じになり、考えない登山を繰り返していただろう、と思う。

登山の判断力や状況の理解、風のリスク判断や、雪面の歩き方、など、分かっての山だったかどうか・・・

だから、4年かかったことは、悪いことではなく、むしろ、4年かかったからこそ、そのプロセスで分かったこと、勉強したことがいっぱいあった。

安易な山頂を与えると、結局その登山者の”プロセスから学ぶ楽しみ”を奪ってしまうかもしれない。

どうだろうか?


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