Wednesday, October 9, 2013

「もうどこでも登れるよ」

■ 最初の山で…

私が最初に登った山は、八ヶ岳の西岳でした。西岳がどこかも知らず、八ヶ岳の山とも知らない・・・

もちろん、北に向かっているのか南に向かっているのかも分からず、ただ人の後をついて行っただけです。靴だけは今履いているのと同じシリオの登山靴でしたが、ザックも服も普段着です。

地元の山道具屋ストローハットのイベントで行きました。

山梨に転居してきて、今までの趣味を続けようとバレエの教室の門を叩いたり、ぶどうの産地だからとワインを勉強してみたり、家にいる時間を充実させようと、編み物を始めてみたり…どれも続かず、続いているのは、山とヨガだけです(笑)

この山に登ってから、「(初心者の私は)どこに登ったらいいんですか?」と聞いたら、「もうどこにも登れるよ」と言われました。

当時の私には ???? 

今考えると、西岳って、片道4時間、標高差で1000mくらいある山なんですよね。日帰りでそれくらい登れれば、どこだって登れますね。

でもそんなことも分からない状態でしたから、今振り返れば、やっぱり、”一人では登れない人”だったんですよね。

■ 正しい・・・隠れた前提

うっそぉ~と思った私は、今振り返れば正しかったし、正しくなかった。

登山は体力が基礎になりますが、ガイド業をするような人にしてみれば、体力がある=登れる人、です。

なぜなら、登山に必要な条件の、

・判断力
・スキル
・経験

というものは、ガイド本人が自分でカバーすることが前提だからですね。 

この「もうどこに行ってもいいよ」といってくれた人のセリフに語られずに含まれていたものは「僕といっしょなら」という前提条件だったのです。大体の人は、一緒に行ってほしさから「○○さんなら登れますよ」と言います。

■ 正しくない

…ところが、私は、自分で行きたい人だったんですね(笑)

山は、体力だけあっても行けない。だから、この時点の私は「どこでも」は歩けません。

そこで始めたのが、不足している経験、判断力を補うための知識蓄積です。たくさん本を読みました。

スキル不足を補うためにはボルジムが良いと小耳にはさみ、なんどか行ってみましたが、ピンとこなかったので継続はしませんでしたが、絶対に安全と思われる山から初めて、自分が安心して歩けると思える領域を少しずつ拡大してきました。

最初は夫や友人と、今では一人です。

■ 登れる山

安全に登れるか登れないかは、その人の

・体力
・判断力 
・スキル

によります。

あえて経験を書かなかったのは、経験がないなら行ってはいけないのであれば、初登なんてのはみんな無謀登山になってしまうからです(笑)。

ただ登山経験は、難しい山に赴く場合の、根拠ある判断基準を提供してくれますから、経験はとても重要です。

たとえば一日14時間歩いたことがある経験が私の大きな判断のサポートになってくれます。

ただ、こればかりは無いものを責めることはできない。経験があっても間違った判断を下す人はいるし、経験があるからこそ、事前調査が手抜きになる、というリスクもあります。

■ 判断力をダメにするガイド登山

ガイド登山はツマラナイのは、登山において一番面白い判断するという部分を、人にお任せしてしまうからです。

登山で面白いのは、この道はあっているかしら、とドキドキ&わくわくしながら歩くことなのに、先頭を「こちらですよ」と歩かれてしまっては、一番面白いところを取られているってことになります。

だからガイド登山が嫌いなんですよね。なんでお金を払って一番面白いところをわざわざ人に譲らなきゃならないのか…って感じです(笑)。

でも、判断することが嫌いな人はいますよね。 判断することが嫌いな人は、もしかしたら、判断に伴う責任が嫌いな人ではないでしょうか?

■ 自信は裏切られる

初めて西岳を登ったあの日、「もう登れるよ」と言われても「うっそ~」としか思えませんでしたが、

今の私は、「一般ルートならもうどこでも歩けるな」と思います。

自分が歩けるか?歩けないか?の判断、それができるようになるための経験の蓄積…それに3年かかったんだなぁ…

アコンカグアの遭難訴訟について書いた記事のアクセス数は驚くほどです。

このアコンカグアで、両手の指を失った男性は、おそらく自分が歩ける山だという確信を持って臨んだのでしょう…

高所登山に出向くくらいの人ですから、きっと国内での登山経験も豊富だったに違いありません(昨今の山事情ではそうとも言えず、まったく素人でもガイド登山に参加する風潮があるようですが)

一般的に登山者は登れる!と思うからチャレンジするので、自信もあり、その自信が誠実で確実な積み重ねの上に得られた自信だとしましょう… 虚栄心からこの山に登っているわけではなく、この山が
彼にふさわしい山である…という前提で…たとえば、その他のお客さんは普通にピストンできて下山で来ているとして…

それでも、山は登頂の犠牲に全部の指を差し出させた・・・とは…

払う代償としては大きすぎる代償ですね。その無念が起こさせた訴訟なのかもしれません。訴訟しても決して、指が戻ることはない。そんなことは百も分かっている。けれども、訴訟と言う手段に訴えざるを得ないのが人間の弱さなのかもしれません。この方に必要なのは多くの人の慰めの言葉なのかもしれません。

そうなると、学ぶべき教訓は、

それでも、山は牙をむくことがある…

ということですね。 人間の英知を超えた存在が山、ですから。 



3月5日

これは去年凍傷になった足指・・・

これ以外に右足の親指もひどく黒くなり、爪がはがれました。

凍傷とは知らなかったくらいです。

てっきり血豆ができたのね~くらいの気持ちでした。




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