Tuesday, October 29, 2013

雪洞泊にみるマーケティング的非整合性

■ 異なって見える同一対象物

A点から見た対象物とB点から見た対象物の見え方が違うことはよくある。

たとえば像の話は有名だ。群盲、象をなでる、とすると出てくる。

象の話を持ち出さなくても、円錐は真上から見ると円で、横から見ると△であることは誰でも知っていてそれでそれは不思議なことでもなんでもない。

登山でも同じような事がたびたび起こる。 

というか、登山ではこれが頻繁に起こる率がたぶん他の業界より多い。登山は客観という視線にあまりさらされたことがない最後の領域なんじゃないかと時々思う。

まるで神秘のペールを剥ぐ、に近いような様相である時は、ままある。

今回発見したそのような例は、雪洞泊、だ。

■ 初心者からの見方

雪洞泊というのは、もちろん、雪山に穴を掘って寝泊まりすることなんだが、その位置づけとすると、緊急用、で雪山でピンチにあって雪洞を掘れないなんて登山者失格の扱いを受ける技術の一つだ。

もし、雪山で遭難死しても、それが雪洞さえ掘れば回避できる死だった場合、同情を受けることはかなり難しくなるだろう(--;)。それくらい登山者は同胞に厳しい。

その”出来て当たり前”感とでもいうのだろうか?「当然雪洞掘ったよね」という当然の帰結感覚は、登山者なら、誰もが持っている。

しかし、その一方で、雪洞というのは、掘る場所の選択から、上手な掘り方、水滴が垂れてこない工夫、形、など色々な”体験知”的、”コツ”的要素が一杯詰まっており、実は難しい技術の一つだ。

登山の場合はとても多いが、雪洞も、本を読んで知識として得たものがそのまま通用するようなものではない。

ということは、登山者は、知識としての知を、体験知に組み替えていくように活動しないと、知識だけではまったく緊急時には役に立たない。

まとめると、”出来て当然”視されているのに、実際”出来る”は、かなり遠いってことだ。

ところで、山に登る人のどれくらいの人が雪洞を実際に掘ることができるのだろう?というか、掘ったことがあるのだろう?(ちなみに私は掘ったことがあります)

■ 経験者からの見方

一方、雪洞というのは、熟達者からすると、すでに廃れた技術、だ。

その昔、テントというのはとても重く、それを担いで山に登るのは一苦労だったわけで、そういう場合、持ち運ばないで済む雪洞泊と言うのはとても理にかなった方法だったらしい。

今では雪洞を掘るのに持って行くスコップほどの重さしかテントそのものがないので、あんまり雪洞泊を山行に取り入れるのに合理性はない。合理性がないことは廃れるのが流れなので…なかなかやらなくなってしまったらしい。

またこうした技術は、実は仲間うちで、遊びを兼ねて、近所の駐車場ででも、あーだこーだと言いながら、とりあえず穴を掘ってみて、失敗と試行錯誤を繰り返しながら、だんだんと上手になっていく類のもので、そうした試行錯誤をすることそのものが楽しみの一部と言えるわけだ。

まぁ雪洞と言っても、雪国のかまくらと同じようなわけで、雪が大量にあるような生活をしていれば、(そして子供でもいればなおさらでしょう)、ちょっと雪遊びでやってみているうちに、パパがはまってしまう、というような類のものだ。

(ところが昨今は少子化で、かまくらを作って遊んであげる子供が少ない上、生活時間がこれ以上ないくらい仕事で圧迫され、おちおち遊んでいる時間がない、のダブルパンチだ)

つまり、雪洞という技術は本当に生活密着型なわけですね。アルパインに代表される先鋭的な嗜好とはちょっとズレた位置にある。

大体、雪洞掘るの、とっても時間がかかるんです(笑) テントの設営の方が早くてすぐ温かい室内?に入れます。

それは夏の焚火技術と少し似ているかもしれません。 焚火も今ではやらなくなった技術ですが、それは煮炊きはガスという文明(笑)があるからです。

■ 温度差

というわけで、雪洞という登山技術は、ビギナーとベテランでは、見方に大きな温度差がある。

ひとつには、相当のベテランでももう雪洞泊はやらない、ということであり、ひとつには雪洞泊なんて合理性ないし、ということもある。

合理性がない割にかかる労力は大きいし、リスクも大きいので、誰もやりたがらないのだ。

初心者の側から見ると、”出来て当然”視されているんだから、雪山へ赴く者、一度はやっておいた方がいいんじゃ?と思うのは無理はない。誰だって”非常識登山者”扱いされるのはゴメンだ。

これらの温度差の帰結の結果、雪洞泊をしてみたいという希望はあっても受け皿は限りなく小さいという様相を呈している。デマンドは大きいのにサプライは非常に少ないのだ。

・雪洞はできて当然視されている
・しかし、雪洞泊をする山行自体に合理性はなくなって久しい
・ので、ガイドレベルの登山者でも雪洞を作る指導ができる人は少ない
・雪洞は遊びレベルで楽しむ生活技術
・雪洞作りは経験がものを言う
・つまり雪洞は実際のニーズそのものが低い技術だ

例えて言うなら、初心者の側から見ると雪洞泊は円なのに、ベテランの視野から見ると三角なわけだ。

若い人が自然と親しまないと言って嘆く人は多いけれど、実際、だからと言って、自分が自然との親しみ方を伝授できるか?というとできないのではないかという実態と同じでしょう。

けっきょく、誰もが傍観者であり当事者にはなりたがらない領域って言う感じですね(笑)

ということの帰結かどうか分からないが、一番危険なのは、まったく素人同士での雪洞泊です。雪洞を掘る以前の問題で天候や雪の状態から危険を察知できないレベルではやってはいけない。たとえばこんな。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~bunayama/topics.htm

http://lcymeeke.blog90.fc2.com/?mode=m&no=1617


遊びレベルとはいえ、上部の雪が崩れてきたら生き埋めです。というわけで、初心者は、あーだこーだ試行錯誤と言う選択肢もほぼ残されていない。(まぁ初心者のレベルにもよりますが)

■ チャンス

私が思うには、こういうのはビジネス的にみるとチャンス以外の何物でもない。

というのは、たまたま、雪洞を掘るのに、はまってしまったパパ的人材がいれば、その人は他の人にとっては非常に大きな価値を持っているはずだということが原理的に実証できるからです。

自分にとっては当然で大したことがなくて、他の人にとっては当然でないこと、にチャンスが隠されていると、よく言いますよね。

というわけで、ちょっとビジネスをかじっただけの私の目にさえ、登山はお宝ゴロゴロに見えるのですが(笑)

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