ラッセル期待で、谷川方面の山に行く予定があり、前座で八ヶ岳の御小屋尾根に行った。
御小屋尾根は作り上げていくのに必要な山
だ。
普通は、行きたい山がすでにあり、例えば
北八つに行くなら、どこをどう歩こう・・・
などとと、発想して、地図を見る。
しかし、一緒に登って行くという相手とは、発想法が異なる。異なる経験値、異なる思想、そういうものを摺合せしなくてはならないからだ。
”いきなり本番の山”ってのは、ない。
(でも、ガイド登山では、いつもいきなり本番で、それはエベレストほどの登山でも同じだそうだ。)
なので、いきなりを避けるために、前座は安全が確保されている、類似した山に行く。
先日は、甲斐駒でガイドさんに会ったが、大きな山へのトレーニング山行と位置付けてあった。小さな山から徐々に大きな山へ、ステップアップして行くという”手続き”や発想は大事なことなのだ。
■ ボトルネック
ところが問題があって、大抵の人が、”作り上げていくのに必要な山”のことは、あんまり分かってくれない、ということ。
どの山も並列なのだ。それは山に行くことが、コレクション感覚になってしまっているからかもしれない。山には大小がある、ということをあまり知らないのかもしれない。
例えば、”本気の沢”は、ロープワークが、あいまいな人とは、一緒には行けない。あいまいな状態で、いきなり本番はないからだ。
だから、易しい沢へ連れて行く。易しい沢は、ロープワークを確認したり、覚えたりするための山だ。つまり、”作り上げていくのに、必要な山”。
でも、そこで、それを理解してくれないと、何回、同じような山に行っても、一向にロープワークを覚えてくれない(汗)
・・・ということで、山は全然ステップアップできない。し、連れて行かれる本人も、ステップアップしない。
登山者の成長に関して、何がボトルネックか?というと、この”理解”の部分ではないのだろうか?
■ 楽しさの中に意味を見出す
・・・ということは、言い換えると、山行の目的は何か?というテーマの理解が足りない、ということだ。
しかし、チクセントミハイという心理学者の本によると、楽しさ、というのは、受け取るというよりも、自分が主体的に関与し、その行為に意味を与えているときに感じるものらしい。
例えば、山とは、自分にとって何か?というようなことだ。
活動の中に、何らかの学びを得たり、自分の成長(肉体だけでなく精神も)を見たり、ということが、愉しさの源泉となるそうだ。
主観的な学びは、どのような活動にもある。例え、いやいやながらする仕事でも、個人的なチャレンジ課題とみなすことができる。
そういう風に、意味を見出すことが楽しみを継続させ、飽きから人を救う。
■ 楽しいだけの山
よく山の本には、楽しいだけの山、と書かれている。
例えば 山野井泰史さんの『アルピニズムと死』の帯には、”登山ブームは「楽しむだけ」の登山者を産んだ。”とある。
山野井さんはトップクライマーなので、そういう人と自分の山は同じではない、と皆感じるだろう。
だが、山が普通に歩くだけの技術で解決できる山でも、携帯電話が届かない山域であれば、あるけなくなったら、生死がかかってしまう。
だから、登山であるからには、基本的には、同じ覚悟、精神的土台の上にある。危険回避については、自分自身の登山力、山力のUPが欠かせない。
自分自身の登山力をUPしたい、山の総合力を身につけたい。という気持ちがないと、なんでカモシカ山行なんかしなくてはならないの!という発想になってしまうだろう・・・
歩荷山行についても同じで、なんでそんなつらいことをしなくてはならないの!となってしまうだろう。
登山で大事なことは、楽しいだけの山、にしないで、なんらかの意味を見出すことなのだろう。
山を知る、山とお友達になる、ということ。山が要求してくる困難は、山に対して正直であろうと思えば、ただの必要な代償となり、避けるものとはならないはずだ。
喜びがあれば、その後ろには、代償もある。代償を払う気持ちがある人にだけ、喜びがもたらされるのが、山、と言えるのかもしれない。