最近、『選べない国で不惑を前に僕たちは・・・』と題する文章を読んだ。非常に共感する文章だった。作家の中村文則さんの事は、全く知らなかったので、この作家に興味がわいた。
日本では世代間の格差がとても大きくなっている。
高度経済成長期の基準で生活を成り立たせてきた人と、バブル崩壊以降に生活基盤を作らなくてはならなくなった若者の間には、世代間格差が広がっている。持てる者と持たざる者。
経済的な格差が広がった結果、若い人は職にあぶれ、ワーキングプアが広がっている。
■ ”幸福”とされた先にあったもの・・・
人の”幸福”とは、何に因るのだろうか?
・安全
・健康
・セックスをする
・うまい食べ物を食べ、快適に暮らす
・豊かになる
・名声
上記は、本能に支配された身体的欲求だから、人間であれば、だれでも望むものだ。
とはいえ、現代では、こうしたことは、特に日本では、すでにほとんどの人について、満たされてしまっている。人間の歴史を見ると、これ以上ないくらい、これらの欲求が満たされている時代に、みな生まれているからだ。
現代ほど、平均寿命が長かった時代はない。
その一方で、死を身近に感じているはずの、病人同士でさえ、ただチューブにつながれて生きながらえるだけが、人間の幸福ではないと主張する。老いた人でさえ、ただ長く生きるだけが幸福ではないと言う。
セックスについても同じで、現代ほど性が解放された時代はない。ちまたには、手軽に欲求をみたすための情報があふれている。
奔放なセックスライフの結果は、必ずしも”子だくさん”ということにはならないが、”子”は、必ずセックスの結果である。
しかし、長寿や健康と同じで、子孫繁栄と言う本能が欲求する”欲”に対する”成功”を収めたはずの人も、逆にそれは、周囲の人に同情されるべき”苦”であって、”幸福でないと主張する人が多い。
一つにはそのような幸福を獲得した世代の人たちが、様々な愚痴で、一様にそもそもあまり幸福そうでなく、見習ってはいけないお手本になってしまっている。”人生の先輩”が、妻の愚痴、夫の愚痴ばかりであればあるほど、子供たちは結婚とは幸せではなく、人生の墓場なのだ、と思うようになるだろう。
余談だが、「子どもが経済的に負担だ」と親がいうのを聞かされて育った子どもは、「自分のせいで親が苦しんでいる」と思うだろう・・・。少なくとも私自身はそうだった。しかるに、子だくさんを不幸の種とみなしている人を見ると、その子供たちに深く同情する。
さて、話を本題に戻そう。
うまいものを喰う、はどうだろう?
現代は”飽食の時代”と言われて、すでに ん十年が経ち、飽食の結果、多くの人が、生活習慣病を患うという結果になった。癌、糖尿病、メタボ、などだ。
もっとも多くの人が追い求める、経済的成功だが、現代人は、かつて王侯貴族しか望みえなかった充足を手にしているにもかかわらず、あれを手に入れれば、次には別のものが欲しくなり、稼げば稼ぐほど出費が増える構造にある限り、どこにも充足がない。
そのことに気が付いた人から順に、現在では、逆にシンプルに生きることを選択し始めている。
名声も古今東西多くの人が求めた”幸福”の形だ。名声を得れば、幸福になれると考えた多くの人が名声の獲得に成功しても、やはり幸福にはなれないでいるようだ。
何のために働き、何のために名声を追いかけるのか?幸福とされたことは、みな現代では、逆噴射している感じだ。
良き生活というのは、はて?と考えると、ことさら追い求めなくても、基本的にすべて満たされている。人は、生活のために働かなくてはいけない。
けれど、その生活を振り返ると、働き続けなくてはならなくなったのは、自分の消費が拡大したため、だったりするのだ。
トレッドミルの上をどれだけ速く走っても、どこにも辿りつかないのと同じことになってしまう。
■ 嫉妬 と 選択
では、幸福というポジティブを追いかけるのではなくて、逆にネガティブを排除する作戦はどうだろうか?
不安や不満・・・
山に向かうとき、人は不安に駆られる・・・ 雨が降るのでは?夜になってしまうのでは?滑落するのでは?怪我をするのでは?
そこで、天気予報を調べ、ヘッドライトを用意し、救急セットを入れる。
つまり、不安に対する処方箋は、具体的な行動だ。何が不安を搔きたてるのかを突き止め、あらかじめ備える。
山靴も買ったが足に合わない。それは不満となるだろう。そうなれば、次はそうでないものを買うだろう。不満も解消手段があるのだ。
不安も不満も具体的な行動のみが解消する。
ちなみに、海外では、不安と不満は時間の無駄と言われている。両方とも具体的な行動で対処できるからだ。
では、嫉妬はどうだろうか?
羨ましい、ということは、自分もそうすべきだ、という意味だと思う。人の感情の中のネガティブなもののうち、嫉妬は、とくに排除が難しいものようである。私自身嫉妬から自由であるとは思えない。
毎日山に登っている人が羨ましいとする。では、自分も毎日山に登れるライフスタイルを模索すべきだろう。
例えば、アルバイトをするのはどうだろう?そうすれば、豊かではなくとも、毎日山に登れるだろう。
しかし、今手にしている有利な職業を手放したくない、それは痛みが大きすぎる、とすれば、それはその人の選択でしかなくなる。
人生は選択の連続だ。
リンゴを収穫したければ、リンゴの種を撒かないといけない。
■ 幸・不幸は何で決まるのか?
そう考えると、そもそも、嫉妬しているのかどうか、自体が怪しくなる。
何かを得れば、何かが得られないのが普通のことだ。であるからには、人は、結局、自分自身がもっとも幸福であると感じられる選択をしているものだ、と思う。
多くを望まなければ、生活の喜びは身近にいくつもある、と思う。
大雪の日に、雪をよろこんで裏山にでかけるのに、いくらもかからない。雪にブツクサ言ってこたつで丸くなるのにも、いくらもかからない。
幸・不幸は、ものごとの見方が決める。
我々の世代は貧しい。貧しいが、一昔前のような、郊外の戸建てに高級外車と言うような、分かりやすい豊かさは、もう誰も求めていないようだ。
選択肢が変わったのだ。