Wednesday, May 29, 2019

他の人の山がちっぽけでバカバカしく見えるとき

■ 人を馬鹿にする心理 Bad版

山岳会の新人さんを馬鹿にする、という心理的な習慣は、日本の山の世界に、とても根強いですが、それは、先輩後輩システム、によります。

後輩=目下の人間=馬鹿にして良い 

前回のブログでの、ガイドさんが「みんなにはアップにならないかも」というのは、

 みんなにはアップにならない ⇒ 下手くそねぇ
 自分にはアップになる ⇒ 自分の実力自慢

と言うことでした。この心理は、

5年目の社員が新入1年目の社員のポカを蔑む、と同様

https://road-to-raoh.com/20160106/ より引用)
で、人間としてどうかな?と思うレベルのものです…。

誰にでも初めての時があるから、です。

私も、初めてのころは、5年前は、5.7でもひいひい言っていました… 今では同じ水準のヒイヒイが、5.10bです。(今でも5.7でもヒイヒイ言っていますけど、ストレス具合は全く違います)

つまり、クライミングという活動は、一生、ひいひいが続く…ということが予想されるわけですね(笑)。

なので、一番、頑張っているのは、もしかして、新人さんかもしれないですね?

■ Good版の ”馬鹿に見える”

これは、こちらのサイトの考察者さんによると、自分のステージが上がったためにそう見えるものです。

・中高年登山者が「丘しか登らないから」と言ってヘッドライトも持たず、地図も持たないのを見て、バカに見える

・高川山に登っている人が「甲斐駒なんて無理」と言っているのを見て馬鹿に見える

・里山しか登らないから地図はイラナイと言っている人が馬鹿に見える

・5.7しか登らないからクラックはしなくていいと言っている人が馬鹿に見える

などなど…ステージを上がると、誤解に基づいた根拠のない思い込みについては、ゲンナリすることが多くなると思います。

■ 気を付けたいこと

山の世界は、現代は後退して、その県でトップクラスの山岳会でも、初級アルパインに行くのがやっとこさ、指導者もいない、というレベルに陥っていることが多いです。

したがって、きちんとした山ヤの若者は、個人的に師匠につくということになります。山岳会に入っていたとしても、会横断的に、自分の気に入った師匠と登るというのが、通例となっています。

選ぶのは、弟子の側で師匠の側ではないようです。

山がステップアップしていくと、陥りがちな精神的陥穽は、

ーーーーーーーーーーーーーーー

自分は違うんだ。世の人とは異なることを知ってるんだという気になる。それまで自分がいた場所をすら、言わば全否定し、可哀想な目で見るようになる。

ーーーーーーーーーーーーー
です。これは特に、コンペ参加者ではないアイスクライミングの人に強くみられるような気がしました。アイスアックスは非常に高価だからですね。

■ 差はほんの少し

さて、私が言いたいのは、このような幼稚な思想が、山の世界では、蔓延しているということです。

AがBを登れないやつ、と馬鹿にし、BがCを登れないやつと馬鹿にし…という連鎖現象が起きています。

これは、価値観を変えても同じで、初登ということが価値と考える人は、5.15が登れたとしても、しょせん初登じゃないでしょ、となる…

しかし、そうした競争の世界観で山を見ている限り、すでに山には、残された栄誉の余地はないと思います。

■ 大衆化とはインクルーシブと言うことです

海外では、多くの人…一般にクライミング弱者?である子供や女性を含む…が、すでに外岩で、クライミングを楽しむ世界が出現していました。

私はラオスと台湾の事情しか知りませんが、女性や子供が外岩に参入していることは、男性の側から見て、「ちっ」と舌打ちをするような、”由々しき事態”とは考えられておらず、ごく普通に、ボーリングを楽しむような形で、あるいは、ダイビングを楽しむような形で、クライミングを楽しむ姿が出現しています。

アルパインにおいては過渡期であるのではないかと思いますが、それでも日本におけるアルパインの姿…大げさすぎる…とは、少し違った捉え方をされているのではないか?と言うことです。

例えば、レーニア山には、昨日会っただけのスコットから一緒に登ろうと誘われました。

日本では、山の仲間として認められるだけのことに数年はかかります。

もちろん、山には山の知識が必要ですので、それが不要の、ただただ楽しいだけのレジャーが広がっているのではなく、知識と技術習得が必要だという認識のもとに、きちんとステップアップできる仕組みが確立されているのではないかと言うことです。

現代の、日本の山の世界に欠いているのは、このステップアップをどうやったら安全に行えるか?という具体的な指南であるように思われます。

そこが、すでに山を分かっている人からは、得られない。自分の時もなかったのだから、自分たちで勝手に成長してくださいとなっています。

■ 古い雑誌を活用しましょう

私は雪の山で、運よく古い岳人を得たのが、大きなラッキーでした。一冊の雑誌との出会いが、私の山を本格的なものにしたのです。

皆さんもぜひ、古い雑誌にこそ情報が出ていますから、のぞいてみてください。

そして、くれぐれもそうした情報がないだけの差で、一般登山者レベルから、脱出できない登山者を馬鹿にしないようにしてください。

岳人 2004年2月号

Monday, May 27, 2019

経験は山では意味を持たないこともあります

■ 誠意

最近、私のブログを日々更新を楽しみにしてくださっている方がいることを知り、責任を強く感じています。

誠意をもって、自分の ”山の今” を説明する必要を感じました。

■ 山ヤへの尊敬の念を喪失中です

最近、私は、山ヤという人種に対する、憧れと敬意の念を喪失しました。

 ”上級の山ヤ”だから、

という理由で、その人を見上げることは、もはやないでしょう。

ある山ヤがいました。その方は、山に恵まれた場所から、都会の近所、不遇の地に転地されていました。それは奥様の強い希望だったためです。

おお!私と同じではないですか! 山に恵まれた場所から、不遇の地へ。それも配偶者のため。配偶者のために自分の愛している活動を譲歩してもなお、山を続ける、しぶとさ…。その強さを私も持ちたい!そう思ったのでした。

ということで、親近感と尊敬を同時に感じると同時に、近所の尾根と沢をすべて歩きつくした記録を拝見し、本物の山ヤだという確信を深めました。

その方は、実は著名な岩場の開拓者の方でもありました。開拓者…と聞いて、敬意を感じない山ヤがいるでしょうか? 私財を使って、他のクライマーのためにルート整備してくれる人、というのが開拓者の意味です。

さらに互いの居住地も近く、たったの10分。岩場に一緒に行くようになり、当然のように、交通費は私が持ちました。近所であれば。

その方を尊敬した理由は
 ・山、不遇の地に来ても、山を辞めない姿勢
 ・近所の尾根と沢を歩きつくしていること
 ・数々の山の著書
 ・開拓者であること
 ・高齢でありながら、山で死んでいないこと
 ・登れなくなりながらも、登り続けていること

でした。しかし、その方は、私が、(火曜日に)肉離れを報告した時の第一声が「(金曜日に)宴会があるから困る」だったのです。いくら私がお人良しでも、これだけ明らかに存在を軽視されると、これはおかしい、と分かります。私に原因があるのではなく、相手に問題があります。

宴会とパートナーの負傷を天秤にかけたとき、宴会が勝つような人と登るわけには行きません。

しかし、私は、許す量が大きいタイプで、「歩くのも痛いんです」と2日間、言い続け、それが理解されなかったことも、年配の人だから理解力が劣るわけで、まぁ、仕方なかったかも?と思っていました。肉離れというのは初期治療が大事ではありますが、保険証を持っていなかったのは私だし、初期治療の遅れは、遠征中では、多少は仕方ないと思っていたためです。

しかし、帰宅後のメールで、
ーーーーーーーーー
〇〇では申し訳ありませんでした。
私は、自分の経験から怪我のことを軽く考えすぎていました。
せっかく〇〇に来たのならば、ついでにいくつかの観光スポットを回った方が
良いかと思ったからです。
重大な怪我であるとの認識があったならば、
〇日に二人で帰るなり××さんお一人を帰したのですが。
判断ミスをした事をお詫びします。
ーーーーーーーーーー

と言うメールを貰い、これは、

 絶対にこの判断が、今後、覆ることがない

ことを確信しました。

 ”経験から怪我のことを軽く考えていた”

の一文です。 怪我は全治2か月の深刻なものですから、この事故で、50年の経験があっても、怪我を軽視するのでは、経験が豊富なのではなく、むしろ、経験不足を意味していますが…ポイントはそこではありません。

この方の経験は、そんじょそこらの経験ではなく50年の経験値です。その経験から、そう考えて、間違ったのであれば、経験の豊富さは山では意味を持ちません。

教訓: 経験は山では意味を持たない

金科玉条のごとく、取り上げられる山の経験値。それも意味を持たない。

とすれば、山での安全に意味を持つのは何なのでしょうか?

■ 経験でも補えない、山で生き残るのに大事な価値観は何か?

それは、パートナーへの配慮、です。

 怪我は、登攀、即刻中止です。

 事情が許さなくても、少なくとも負傷者を第一に考えなくてはなりません。

どんなに経験豊かな人であっても、パートナーを大事にできない人と組んではいけません。

それが今回、この件で私が学んだことです。

■ パートナーを大事にできる人か?どうか?

では、パートナーを大事にできる判断ができる人かどうか?というのは、どうやって判断したら良いのでしょうか?

これは、非常に判断が難しいです。

一般に、日本は男尊女卑の世界です。ですので、女性は、男性本人のニーズの後回しにされ、それを当然視する傾向が男女ともにあります。

もちろん、私にもあり、例えば、好物の卵焼きを弟が先にたくさん食べたとしても、私は、仕方ない子ねぇと思って、怒るわけではありません。女性のほうが精神的に大人であるからです。

同様に、男性と登る場合、登る順番で後回しになるのは、私は構わないですが、私自身が十分に練習できないような立場に落とされることが多かった、のです。

それは、男尊女卑的な男女感覚に基づく気がします。山にもジェンダーがあるということですね。

おそらく、私が海外で楽しく登れるのは、ジェンダー役割が、海外ではほとんどないからでしょう。

女性が自分のニーズを後回しにする期待をされていない、ということです。ケア期待、というそうです。

ケア役割の期待をされたときに、女性は、それを受け入れない判断をしないといけません。なぜなら、それは、自分のニーズが優先されて当然という男性側のエゴに基づく役割期待だからです。

■ ペテランおじさんだけでなく、本物のベテランも

さて、このような理由で、私の山ヤへの敬意というものは、かなり、低い地点を現在、指しています。

以前も似たようなことがありました。

山岳会で、すでにメタボになった、ペテランのオジサン登山者にセクハラされたり、とかです。(ベテランを装ったニセモノをぺてらんと言うのだそうです)

しかし、この人は例外的にペテランだということが、かなりよく分かる、明らかな事例でしたので、私の中では特殊ケースとして処理されていました。

なにしろ、赤岳ノーマルルートで息切れするような人は、すでに山ヤとして終わっています。雪の赤岳は新人の実力を測る登竜門であり、それが登れない=一般登山レベルの山に限定すべき、だからです。つまり、肉体的なメンテ悪すぎです。

また、二人きりで泊まっているテント泊で面と向かって「浮気したい」と女性の後輩に言って、それが許されると考える人は、時代錯誤しすぎです。誰が見ても、NGケースであることは明らかです。

ところが、私が今回ご一緒していた方の場合は、違います。地元の名士と言うような方ですし、普段から、腰が低く、静かで素晴らしい方です。大学山岳部顧問でもあります。

山でいかにふるまうべきか?というのは、50年の積み上げがあるという期待ができるはずです。

■ 人間として自立していない

その方の唯一の欠点は、古風な男女観、なのかもしれません…。時々、奥様の話を聞かされましたが、奥様はお料理が苦痛で嫌がっているそうでした…分かるなぁ。

メニューは「なんでもいい」と言っているそうでした。それは当人からすれば、思いやりからでしょう…しかし、現実には、なんでもいいが一番迷惑、です。

そのメッセージが伝えているのは、結局のところ、自分の健康管理においての責任放棄、です。つまり、大きすぎる責任を妻が担うことになってしまいます。奥さんが言っているのは、自分の食べたいもの、相手の食べたいものは、肉体が違うからには当然違い、健康管理まで面倒見切れない、ということです。

一種の責任放棄、が、古風な、男女間の役割分担には存在しています。

具体的には、二人で遠征を楽しむための用意がほとんどありませんでした…。それは目下であり、女性である私の役割に指定されていたのかもしれません? 雨で沈殿した時にすることを用意する、とか、食材の仕入れ先をあらかじめ調べておく、とかです。

ただくっついてきているだけ、と言うことが明らかで困りました。まぁ別に車中泊してしまえばいいので、相手の様子を見て、自分がどうしたらよいか決めよう、と思ったとしても、それは理解できますからいいのですが…。

しかし、今回は、もし相手の様子を見て決めると考えて、用意ゼロであったのであれば、すぐに帰宅する、というのが当然の判断になったケースでしょう。

なにしろ、一本も登る前に、肉離れしたのですから(笑)。

■ 幻滅

この事件で、私は2か月ほど自宅軟禁状態でした。そのため、私は山への愛自体をすっかり失ったような気持ちになっていました。

山をするという活動のすばらしさの、約半分は、人によってもたらされるもの、だからです。

それは、登山しかしなくても、登山道を歩いてきた何千人もの人と感動を共有する喜びであったり、歴史の共有であったり、です。

たとえ単独行であったとしても、そこを歩いた先人がいる、というのは、登山道を歩く限り、明確です。

ですので、多くの人が美しい樹木を眺めながら、この道を歩いたのだなぁ… 人々はどのような思いで、ここを歩いたのだろうか?子供と歩いたのか?楽しく歩いたのか?失意に歩いたのか?苦しかったのか?楽々だったのか? そういうことを考えると、人は一人で生きているようで、決してそうではない、ということを感じることができます。

しかし、そうした先人の歩みに連なる一つの点として、自分を加えて行く活動に、自分の時間を費やすだけの意義を見出せなくなっていました。

私は男尊女卑という価値観を信奉はしないからです。控えめなのも奥ゆかしい女性も素晴らしいですが、怪我をしたパートナーを思いやらなくていい、という考えは、賛同できません。人間失格判定です。

■ 山そのものは、まだ好きみたいです

とはいえ、山が嫌いなわけではないようです。

それは、一人で、山を歩いてみて、やはり山は美しいなぁと思ったために分かりました。

ガッツリ山をしたいですが、それは、たぶん、一人でする山であり、誰かと歩く山ではないでしょう…

それは、相手の問題というよりも、私自身の対人関係構築術の問題なのかもしれません。

私は元々、単独で歩くのが好きなタイプですが、それは、山と自分と一人だけで対峙できるからです。

読図の山でもない、一般縦走路で、誰かと歩く必要なんて感じたことはありません。

逆に、人と歩くことは、山とだけ対話していたいのに、対人的な配慮を優先せざるを得ず、重荷、と言うくらいです。山と自分だけの関係だったら、本当に世界は楽で、山からの癒しを100%受け取ることができます。

■ クライミングは相互依存の世界

それが変わってしまったのがクライミングで、私はクライミングでは、指導者のニーズを強く感じていました。

私に来てくれた人のビレイのスキルがまったく当てにならないからです。

経験不足による失敗の痛手が、即、死、につながる。

クライミングにおける経験値というものは、どういうルートを登ったら安全なのか?

あるいは、これくらいの登攀力の時に、これくらいのリスクが取れる、というような判断です。

日本は、5.7を登る人が5.7に取り付くことが許されない特殊な課題設定のされ方をされており、それが海外との違いです。海外では経験者のアドバイスがなくても、普通に経験値を上げていくことが可能です。

しかし、この判断…新人が取り付くべき課題へのアドバイスも、経験値が大きい人ほど、的確さを失っています。それは、現代の新人ではなく、昔の”新人”の基準に合されているからです。現代の新人は、昔の基準では全くビビってしまい、2度と来なくなります。

そうした現実を見てもなお、「俺の時は」と経験値を手放せない指導者クラスを最近経験しつつあり、結局のところ、新人の手ほどきは、やはりより現代人に近い私たちのほうが良いような気がしていました。

しかし、私自身が必要な指導が得られない、というのが、最も大きな問題でした。

後輩を指導するには、自分がその少し上を行っていなくてはならないからです。

私が得てきた指導は、最初は、師匠の鈴木さん、クライマーの菊池さん、亡くなった吉田和正さん、師匠の青木さん、です。

とくにクライミングでは、日本では初心者が安全に登れる課題が少なく、その判断に経験者の目があるほうが安全です。

■ 自分を信じましょう

というわけで、結局のところ、私自身は後輩を育成したり、新人を指導したとしても、自分自身を指導してくれることができる人はいない、自分で自分の道を歩くしか、方法はない。

それが最近のこの出来事からもらっているメッセージである、と私は考えています。

■ 過去の記録

自分の記録を読んで、確かに、安全に山を行うための思考というものが、手探りのながらも、行われていたなぁと、もはや初級者&初心者で無くなり、思います。

例えば、この記事です。2014年の6月16日ですから、5年前です。ほとんどお上りさん当時です。

https://stps2snwmt.blogspot.com/2014/07/blog-post_50.html

縦走路でロープを出す場合に、何でプロテクションを取るか?と思案している内容ですが、登攀経験が、ほとんどない者が考える内容としては、かなり的を得ていると、もはや登攀経験が豊富になった今でも、感じます。

ということで、過去の自分を客観視して、

 原則から考えるという強い適性

を感じます。 このブログの読者の方に、お願いしたいのは、これです。原理原則から、自分の頭で考え、自分で実行してみる、と言うことです。

山では不安になることが多いと思います。

山だけでなく、山ヤ道、山をやるやり方自体が不安です。

同じように山をやっている人…特に女性、がいないということが大きいですね。

このやり方でいいのか?という不安がある。しかし、原則に照らし合わせ、自分で考え、解決していくのが、結局のところ、もっとも安全である、と思います。

自分の命、だけは、誰に対しても譲ってはいけません。

自己主張しなくてはならないときには主張しなくてはなりません。

それで、あなたを腑抜け扱いするような人は、最初から、あなたのパートナーではありません。

■ 関連記事

山をどう教えたらいいのか分からないのでは?
https://stps2snwmt.blogspot.com/2018/05/blog-post_15.html

Sunday, May 26, 2019

私がこのブログで訴えたいこと

最近、読者の方からコメントをいただき、ありがたいことだなぁとしみじみと実感しています。

このブログでは山の知識…初心者山ヤとして、私が発見し、生身で体当たりして得た知見を共有したいと思っています。

富士山で下山報告せず降りたという若者は、ネットでバッシングされそれがかわいそう、行き過ぎだ、という批判があるそうです。

■ 不寛容な社会は生きづらい

私が、常日頃、思っていることは、不寛容な社会は生きづらいということです。

人は誰でも過ちを犯しますから、過ちを犯すこと自体を否定されてしまうと生きていくのが難しくなり、それは100人人間がいたら、100人に共通です。

私事で恐縮ですが、面接に行ったら、会場が見つけられず、5分前に電話で、遅れますと連絡。その後、3分程度遅れて到着したら、「面接に遅れてくるなんて何様か?そのような人と仕事をするのかいかがなものか」と言う先方。こりゃ、この会社で働いたら、さぞかし私は不幸になるなーと思って、求職依頼を取り下げました(笑)。10分後には踵を返して、帰宅の途に就きました(笑)。やですよ、そんなゆとりのない会社。

時間感覚に厳しいのは、日本人の美徳ですが、自分に適用しても他人に適用するのは、ほどほどにしておきましょう。30分遅れる話なら、違うと思いますが、3分で怒っているのは、心のゆとりなさすぎです。

■ 情報が歪んで伝えられている?

しかし、情報源の読売新聞と言えば、老舗です。

その辺の素人が書いた記事ではなく、本職の記者が、裏取りをして書いた記事である、というのが、このロゴマークの意味です。

もし、その記事がミスリードをしているようであれば、そのロゴマークへの信頼は失墜ですね?

ですので、大手の報道の信頼度は、無名の報道機関の信頼度よりも、高いと思いますが。

しかし、このネット時代、広告収入に頼る大手メディアの報道は信頼が低下していますので、小規模メディアであるから、ダメということではないです。

とはいえ、このニュースで、大手が広告収入のために事実を歪曲する必要があるとは考えにくいケースですね。

■ 社会人の常識レベルの低下は、やはり依然、うかがわれる

”何度も県警から連絡したけれど、本人が電話に出なかった”、とあり、やはり一般常識では、捜索しているかもしれない可能性を考えて、少なくとも22時より以前には、なんとしても、他人に携帯を借りたとしても、連絡を第一にするのが社会人の平均的な常識ではないでしょうか?

ご自身に照らし合わせたらどうですか?

18歳に選挙権が下げられそうになっていますが、若者であったとしても、それくらいの判断力は、大人としては、あってほしい判断力でしょう。

■ バッシング

ネットでバッシングの嵐だそうですが、そうなんですか? 私はそういうバッシングをあまり目にしないのですが… 

発信側に立っている人より、受信側に立っている人が多いのですかね? そういう場を知らないので、何ともコメントしがたいですが。

一般に、容易にバッシングの対象になる、ということが、ネット社会のマイナス面ということなのでしょう。

そのような対象、標的にされないような仕組みが世の中に必要だということですね。

個人攻撃と、社会的問題を切り分ける、ということです。

■ 取り上げるべきか、否かの判断

山の世界では、取り上げられるべきことが取り上げられず、そうでないことが取り上げられがち、ということがあります。

例えば、山のリスクは取り上げられず、山の楽しさ、ばかりが強調されています。

物事の両面を見せないと、片側だけの情報で行くとえらい目に遭いますが、この時期の富士山に丸腰で登ってしまうというのは、まさにその典型に見えることが、このニュースのツボ、ですね。

無知な人に見える、という点と、どうも、本当に無知だったようだ、というのは、真実味がある洞察です。

■ 社会的インパクト

バッシングを受けた若者はかわいそうですが…、仮に

”レスキュー依頼して、無事下山したことを言わないで帰ってもいい”、

ということになれば、その後の山の世界にとって、ゆゆしき事態であることは自明であると思います。

それでは、こうした失敗を防ぎたいというニュースの意図につながって行かない。

ニュースの意図は、若者をバッシングすることではなく、このような無知な行為をほかの方に、再度繰り返してもらわないためにあります。

■ 検索エンジンの偏り

ネット社会特有の問題として、Google独り勝ち問題があります。

ネットに出ている情報のうち、検索エンジンにヒットした上位4~5件の情報しか広まらないという、いびつな情報伝達の形式になってしまっているということです。

それほどまでにGoogleの独り勝ちになってしまったのでしょう…

余談ですが、私は、こちらの検索エンジンを使っています。

https://www.ecosia.org/

45回の検索で、1本の木を植えることができるそうで、山やにぴったりな検索エンジンではないかな?と思っています。

今からは、検索エンジンを多様化していくのも必要なことなのかもしれませんね。

■ まとめ

・バッシングされた若者よ、お気の毒です
・無知を憎んで、人を憎まず、が正しい姿勢でしょう
・バッシングした方は自らも完ぺきな人間とは程遠いことを顧みましょう(笑)。
・若者は反省しましょう バッシングと反省は別です
・レスキューの方ご愁傷さまでした
・ニュース記事を書く方、信頼度高目でお願いします

■ 知識

富士山は、この時期、当然ですが雪山です。アイゼンとピッケルを使いこなせない方は登る時期ではありません。

しかし、行って楽しい時期でもなく、高所登山をやる人が、順応目的(具体的には昼寝)で行くような時期です。

当方の富士山の記録はこちらです。 2014年5月31日に登っています。登り6時間下り2.5時間の山でした。
https://stps2snwmt.blogspot.com/2014/05/blog-post_31.html




Saturday, May 25, 2019

観光収入増大と迷惑はセット販売です

こんな記事が回ってきました。

富士山に「登山鉄道」再浮上 何度も頓挫、新知事が意欲

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190522-00000036-asahi-soci&fbclid=IwAR0q7NH5Za-gjX-vCDFwdaxh1tpA7eQuUuP734kmstYX-Al-WL1oK-0bHxo

富士山に観光鉄道をという記事です。誰でも分かることは、このような事業計画…道路にせよ、ロープウェーにせよ、鉄道にせよ…の目的は、

観光収入の向上、

ということだ、ということです。

一方、このような記事もあります。

富士山で「動けない」救助隊捜索、連絡せず自力下山

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190521-00050232-yom-soci&fbclid=IwAR2ggE7IA3JNvLdk90_oTbzZINTTzsnRCyWGiiG3cayh5fj1TcjEIvsnnUg

■ 観光収入と迷惑はセット販売

物事には、どんなことにも2面性があります。マーケティングというのは、その2面性のうち、1面だけを強調することです。

観光収入が上がるようなことのネガティブ面は?

あきらかに、山に無知な登山者を招き入れる、ということでしょう…

要するに問題の火種は

 観光収入(富)に関する欲

にある、ということですね(笑)。

■ 知恵(ウィズダム)

このような場合、ウィズダム、知恵とは、あらかじめ予防線を張っておくことです。観光鉄道が、鉄道の観光を世間に宣伝するのと同時に、冬山の厳しさ、一人でアイゼンもなしに登り始めてはいけないこと、あるいは、入山禁止のロープを張り、警告文を設置しておくことなどと、色々な対策を同時にやれば、

観光を盛り上げつつ、山の厳しさを伝える

という両方の点を一挙に獲得することができます。

しかし、おそらく、山に詳しくない人が、ただ観光盛り上げだけをやれば、その付けは、

・人命が損なわれたり、
・救急隊に安易なレスキュー要請が増えて思わぬことになったり

するでしょう。山では、すでにそのような事例は豊富ですから、安易な開発ではなく、きちんとリスク評価して進んでもらいたいものです。

観光のマイナス面は、

 無知な登山者が増える

だけでなく、

 環境自体の破壊

もです。自然環境を愛でにいくのに、そもそも環境破壊していては、元も子もありませんから、その点も配慮しないと、こうした計画は、本末転倒のお荷物設備を作って、誰も来ない閑古鳥、と言う結末にもならないとは限りません。

Thursday, May 23, 2019

富士山で「動けない」救助隊捜索、連絡せず自力下山

このようなニュースが、おとといありました。

ーーーーーーーーーーーーーー

富士山で「動けない」救助隊捜索、連絡せず自力下山

5/21(火) 19:50配信
読売新聞オンライン
 山梨県側の富士山を登っていた20歳代男性が20日午後、「疲れて動けない」と富士吉田署に通報した。救助隊員6人が捜索を続けているうちに、男性は自力で下山。同日夜、東京都内の自宅に戻るまで、下山したことを同署に連絡しなかった。

 発表によると、男性は同日朝、単独で麓から登り始めた。アイゼンをつけていないなど軽装で、登山届も提出していなかったという。残雪に覆われた8合目付近で動けなくなり、午後0時40分頃、救助を求めた。

 曇天でヘリによる救助ができず、県警の救助隊員が5合目から現場に向かった。途中で男性と連絡が取れなくなり、捜索は午後9時半頃まで続けられた。その間に男性は麓まで歩き、電車で帰宅。男性から連絡があったのは午後10時頃だった。

 富士山の山開きは7月1日。県警は「この時期の富士山は残雪があり、非常に危険。下山中の滑落や、救助隊員が二次被害に遭うおそれもあった」と指摘している。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190521-00050232-yom-soci&fbclid=IwAR2ggE7IA3JNvLdk90_oTbzZINTTzsnRCyWGiiG3cayh5fj1TcjEIvsnnUg より引用


■ 無知 が原因


このような無知をどうやって防げばいいのでしょうか…?


このような無知による、社会的損失のインパクトが大きすぎますね。


5月の富士山に行くような登山者は、私のようなアルパイン経験者か、もしくは、この登山者のような完全無知レベルの人か、どちらかです。


私もこの時期をわざわざ選んで富士山に登っていますが、それは、無雪期の富士山なんて、山初心者が行くような山でしかありません。標高というのは、登山の実力を測るにはまったく無意味な指標です。そのことが分からない人が、一番高い山、を目指します。


この時期の富士山は、経験者には簡単ですが、アイゼンがいる山です。雪の山としては、簡単な部類です。寒さが厳しくないためと雪も腐っているためです。最大のリスクは紫外線。


さて、この方は、雪もしらず、山も知らず、ただ、時間が空いたから、登ってみようかなとでも、思って登りに素直に行ってしまった程度の無知な登山者でしょう…


しかし、引き起こした迷惑、最大…


こうしたことをしてしまった人を責めるのは簡単ですが、一つ間違えば死んでしまいますね。


遭難救助を要請したということで、そのまま連絡せずに下山したら、連絡して下山した場合よりも、なんらかのペナルティがないことには、このような判断を防げないでしょう。


救助隊に


 A)連絡しても、怒られて終わり。


 B)連絡しなくても、怒られて終わり。


であれば、どうするでしょうか?


ここのところに、Aを選択する、なんらかのインセンティブを設けない限り、これからも、


全く無知


な登山者がこのような判断をすることは、避けられないでしょう。


無知な人は無知なだけに、捜索隊がどれほど、大変な捜索をするのか?見つからない限り、帰宅もできないということなど、知らないし、想像する能力すらないだろうからです。


この世で最大の問題は、無知、ですね。





Monday, May 6, 2019

塩見小屋の訴訟問題について

今日のFBから
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「登山者にとってはどうでもいい話です。」

というコメントが入りました。

当然だと思います。
反応してくれたり、応援してくれる方は沢山いますが、割合にすれば、山に興味のある方の数%かもしれません。
殆どの人は、スルーしていると思います。

逆に登山者の一意見として、コメント入れてくれるだけ、有り難い事なのかもしれません。

ただ、内容は塩見小屋の事や管理人としての私の事ではなく反論も出来ません。
裁判や小屋についてなら理解も出来ますが、それとは関係のない個人的な感想は、酷い言い方をすれば、私にも必要ではなく「見ないで下さい。」としか言えません。

前にも書きましたが、テレビの様に嫌でも目につくという訳ではないので、スルーして欲しいです。

仮に私がこの方の投稿に、「あなたの山行日記は、殆どの人にとってどうでもいいこと。」と書き込めば、この方はどう思うでしょうか?

何を言っても一見自由だからこそ、私は投稿には、慎重になっています。
他人の事を考えなくなれば、今の伊那市と同じになってしまうからです。でも、A課長に関してはかばう気にもなれませんが。

伊那市にすれば、これも立派な管理人に対するクレームになるのでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■ 正直者が馬鹿をみる世界を放置することは、全員にとっての悪

このコメント、「登山者にとってはどうでもいいことです」

を聞いたときに思ったことは、他者の痛みが分かる人間でありたい、ということでした…。

山に、みなさん、癒されに来ていますよね。山ですら、弱肉強食の論理を持ち込まなくていいじゃないですか…

山くらいは、ただ”母なる大自然に対する深い理解と知恵”を身に着けた人が、その努力の対価を受け取れる世界であってほしいです。

塩見小屋の訴訟は、あきらかに伊那市市長の横暴ということが見て取れます。私自身は、そのような横暴に対して、真正面からぶつかっていく塩見小屋の方が、心身を悪くされないか、心配でなりません。

私自身のことだったら、こんなことに時間をかけないと思います…なぜなら、戦うことで得るものがあまりに少ないと思うからです。

しかし、果敢にも立ち向かっている人に対して、無関心 を伝えることは。

愛の反対は無関心なのです。

社会で行われた不正義を見過ごせば、その社会はどんどんと生きづらい社会に変化していきます。まわりまわって、人を信頼できなくなっていく…。そうした時に返ってくるのは、自分に対してです。

本当に、山ですら、こんなことを言うような人が来てしまう社会になってしまったのですね…

日本の世相が残念です。






Saturday, May 4, 2019

山小屋のオヤジが怒れなくなった山の世界

■ 登山ガイドなんか、まともな山ヤは、なりたくないですよ…

だって、変な人しか山に来ないんだもん…


さて、この本は、山小屋で働く人には必携です(笑)。

何しろ、山小屋には、もうとんでもない人たちが来ます

というか、登山人口の中で、とんでもない人を選別して連れてきているとしか思えないような人がきます。

つまり、基本的にとんでもない人”だけ”がくるのが、夏山の小屋です(笑)。

というのは、ちゃんとした山やは小屋なんか泊まる必要がない、ですから。

山小屋のオヤジが怒鳴らなくなりました。

…というのは、

 第一に、トンデモ件数が多すぎる
 次に、逆切れするお客さんが多い

からです。もう、小屋には怒っていたら、キリがないくらい、怒り心頭するような、自分で、自分の安全も守れないような人…しか来ないんですよ…。

「○○大雪渓って私にも歩けるでしょうか」  知らんがな!って人が多いです。

■ 市場的に見ると…

つまり、マーケット的に成熟してしまい、レイトマジョリティー市場なんです。

市場が成熟して、トンデモな人すら来るようになった、という表現のほうが、実態をよく表していると思われます。

登山ガイドさんにしたって同じです。山岳会で新人を扱っていても、一様にみな同じことを思います。もう、みなさん、トンデモばかり…です。少しは自分で勉強してなーって。

■ 怒りは当然の反応です

そういう場合の解決案として、日本人は怒りを良くないこと、として押し込めていると思いますが、それこそがストレスの原因では?

問題の根源は、コミュニケーション力の不全にあり、怒りを感じないというのは、人間である限り、無理であると結論しています。

  1)覚悟、
  2)コミュニケーション能力、
  3)ルールの明確化

この三つが怒りを上手に表現し、解決へ持っていく基本ツールです。

最初から逃げに走るとストレス耐性次第では、引きこもる以外なくなります。

つまり、怒りを避けるという手段は、”逃げ”という選択肢という訳です。

世間とのかかわり方を子供時代に、きちんと学ばなかったという自覚が私にはありますが、私はどちらかというと、健全な魂を持っており、良くないことには、きちんと怒りを感じるタイプです。

善と悪の判断にも、自信があるタイプです。神の場所は知っている。小さいころから、心に神を持っていました。もちろん、悪いこともしていますから、聖人君子ではありません。そんな人がいたら、その人こそ、ウソつきです。

とはいえ、パオロさんの指摘は、子供のころ感じていたことと同じでした(笑)。素朴な疑問、ってやつです。

■ 具体例

先日、チベット僧のターパさんに ”怒って注意” しました。というのは、お寺に朝から座禅に行くのに、ナビで運転中に話しかけるんです、今、運転ナビ聞いてるってば!っていう奴です。それでも、彼とは変な仲になっていません。

同じようなことで、日本の74歳、世間に名の知れた往年クライマーの場合…。足が痛くて歩けないですって何度も言っているのに、私を連れまわすんです…。

何度も何度も「歩くのも痛いんです」と言って、事態を理解してもらうのに、丸2日、かかった上、彼との仲は、3か月の投資期間があったにもかかわらず、おじゃんです。ちょっと怒っただけで。

それは私が文句を言ったからです。ターパさんにしたのと同じように。

どんだけ打たれ弱いねん!

ターパさんと日本の往年クライマーの差は、”メンツを立てられるのを当然視しているかどうか”だと思います。

恐るべし日本のオジサン。チベット修道僧より、俺様化!!

つまり、日本の男性の自尊心は、俺はお前よりエライ、ということにしておいてもらわないと、はかなく散るような、自尊心ないのかもしれません。

先日、運転をしていた高齢者が、通行人をひき殺して、すぐさま保身に回り、話題になりましたが、似た部分を感じました。逃げ足と無責任さ、にです。

■ ルールを無視する相手対策

余談ですが、海外では、自分の安全は自分で守るものなので、私は小型小銃すら携帯していました…

私は体が小さくて、暴力やレイプには非常に脆弱だと誰が見ても明らかだからです。

日本では、女性に対する性的嫌がらせは、厳罰化していないので、特に都会と田舎では温度差がかなり激しく、田舎に行けば行くほど、セクハラは、”大したことないでしょ視”、されています。

この根底にある思想は、マチズモです。マチズモとは、力が正義に勝ると定義している世界観ですが、この世界観では、力が弱い=序列の最下層です。昔の父権制度と同じです。

ですので、弱い性である女性をセクハラしても、まぁ、それは大したことにカウントされません。子供に対しても同じです。

それは、強い側から見たとき、共感が得られないからです。尻を触られたくらいなんだ。とかそういうレベル。

したがって、チベット修行僧と74歳の差が出るような理由というのは、よくよく原因を求めると、

日本という国では、弱者であっても、きちんと強者に向かって怒りを表明できる社会でない

ということが根底にあると気が付きました。

要するに、多様な価値観が受容されていないからだと確信しました。

日本でも多くの価値観が認められるようになっていくのが私の願いです。

特に山は 体力1点豪華主義の人が多数です。体力だけで遭難が減るわけないでしょ。


エゴシステム・エコシステム

https://7secondcoach.com/2017/02/28/egosystem-ecosystem-one-program/より引用。

登山の良さ、本質を一言で捉えると、山は、エゴシステムではなく、エコシステムだということに自覚をもたらすことです。

山でもっとも優秀なのは、誰か? 山でのサバイバルという非常に狭い範囲で見ても、人間ではない、ということは、ちょっと考えただけで明らかです。

鹿さんや、カモシカさんなどの野生動物が、一週間道に迷って死にますかね?死にませんね? 一方人間は脆弱で弱く、数日の野外生活ですら、死んでしまう人いるほどです。

人間は傲慢になっているため、自分たちのシステムを山に持ち込むために、遭難が後を絶ちません。

私が山をスタートして以来、遭難者数は過去最高の記録を更新中ですが、理由はあきらかで、

 山の本質の捉え方

が、間違っているからです。山は町ではない、そんな言われてみれば当たり前のことを、みなきちんと自覚せず、山に行くからです。

山の本質の一つは、登山をするからには、

 新しい地理認識システム

を習得する必要がある、ということです。それは、下界のような 東西南北の碁盤の目でもなく、30m歩いたら、右手にコンビニが見えて右折、みたいなナビシステムでもなく、尾根と谷を使い、標高差と歩く時間を使うものです。

山では体力は必要ですが、どんなに低い体力の人にとっても、登れる山はあります。

山での体力一点豪華主義は、傲慢につながります。体力順のピラミッドシステムで、山の価値、序列をつけるようになるということです。

例えば、美しい尾瀬と急峻で体力がいる甲斐駒、どちらの価値が上ですか?

そんなの、比べられませんよね? 比べられないということに、序列をつけるシステムが、価値観、になってしまっています。それは、往々にして、我田引水のことが多く、体力がいる山が上だと思う人は、体力一転豪華主義を採用していることが多いです。

例えば、アルパイン・クライミングにおいては、体力だけを強調される往年のクライマーが多いですが、現在のアルパイン初級ルート(前穂北尾根を想定します)は、アプローチ6時間の涸沢側から入ったとしても、往年のクライマーはすでに体力が初心者より下になっている可能性が濃厚です。

では、というので、アプローチで消耗がないゲレンデ的なアルパインルート(例:錫杖)が人気になっています。つまり体力一転豪華主義はなくても、楽しめるルートはすでにある、ということが基本的には明らかになってきています。

(これは、もちろん、登山者としての最低限の脚力、一般登山を終わり、一日10時間程度の行動は苦にならないくらいのもの)が無いのはアルパインはそもそも教えられないという前提です)

なので、体力はあっても邪魔にならない資産ではありますが、ありさえすれば安全という資産ではありません。山において、体力や歩荷力は、下界のお金と同じことですね(笑)。

ないなら、ないなりの山をすれば良いということです。

■ どのような問いを作っていけばいいのか?

これから山をされる方は、ぜひ問いを持ってください。その問いとは

”どうすれば、山に安全に登って降りてこれるだろう?”

というものです。誰かについて行けば安全 という解を出される方が多いのが、問題ですが、誰かについて行っても安全は増えません。その人が、山を知らなければ、意味がないからです。

ガイドさんについて行けば安全も、間違った思考です。ご自身の安全はご自身で守れなければならないからです。

例えば、低体温症でなくなる人は、ザックにレインウェアやレスキューシート、ツエルトが入っていたことが多いです。ガイドさんが着れと言わなかったから着なかったのでしょうか?

その方は寒かったら服を着るという6歳時でも行えることをしなかったために山で命を落としたのです。

ですので、どんなにすごいガイドがついても、自分で考えない人には、ゲームアウトが待っています。

常に自分で考える、そのためには、

 山で死なないためにはどうしたらいいか?

と常に問うてください。そうすれば、山は常にあなたに微笑みかけてくれるでしょう。

Wednesday, May 1, 2019

雪上のルート選択


こちらは、雲ノ平ナビ 北アルプス黒部源流域/Peak2Peak写真山岳ガイド事務所からFBで回ってきた画像です。

今年は積雪が多く、特に雪崩での遭難が心配されています。

GWは雪山にデビューされる方が多い時期ですが、人のトレースを歩くことが山だと思ってしまう人も多数の時期です。初心者の傾向として、そうなります。

一方安全の中で大事なことは、地物があるところを歩く、ということです。雪庇の上かどうかの判断は、夏道を知らないと想像できないかもしれません。

あらかじめ無雪期に山の形状を頭に入れてから、GWに舞い戻ってくるような、用心深い登山者は昨今だいぶ減ったのではないでしょうか?

山でも、日本的な、みんながやっているから大丈夫、が目につきやすいですが、この画像でも示されている通り、安全な選択肢(左側)を取れば、より高度な雪上歩行技術が必要になります。

 ・安全なルート選択を知っているということと、
 ・その道を歩ける技術がある

の2点が必要です。