最近、私のブログを日々更新を楽しみにしてくださっている方がいることを知り、責任を強く感じています。
誠意をもって、自分の ”山の今” を説明する必要を感じました。
■ 山ヤへの尊敬の念を喪失中です
最近、私は、山ヤという人種に対する、憧れと敬意の念を喪失しました。
”上級の山ヤ”だから、
という理由で、その人を見上げることは、もはやないでしょう。
ある山ヤがいました。その方は、山に恵まれた場所から、都会の近所、不遇の地に転地されていました。それは奥様の強い希望だったためです。
おお!私と同じではないですか! 山に恵まれた場所から、不遇の地へ。それも配偶者のため。配偶者のために自分の愛している活動を譲歩してもなお、山を続ける、しぶとさ…。その強さを私も持ちたい!そう思ったのでした。
ということで、親近感と尊敬を同時に感じると同時に、近所の尾根と沢をすべて歩きつくした記録を拝見し、本物の山ヤだという確信を深めました。
その方は、実は著名な岩場の開拓者の方でもありました。開拓者…と聞いて、敬意を感じない山ヤがいるでしょうか? 私財を使って、他のクライマーのためにルート整備してくれる人、というのが開拓者の意味です。
さらに互いの居住地も近く、たったの10分。岩場に一緒に行くようになり、当然のように、交通費は私が持ちました。近所であれば。
その方を尊敬した理由は
・山、不遇の地に来ても、山を辞めない姿勢
・近所の尾根と沢を歩きつくしていること
・数々の山の著書
・開拓者であること
・高齢でありながら、山で死んでいないこと
・登れなくなりながらも、登り続けていること
でした。しかし、その方は、私が、(火曜日に)肉離れを報告した時の第一声が「(金曜日に)宴会があるから困る」だったのです。いくら私がお人良しでも、これだけ明らかに存在を軽視されると、これはおかしい、と分かります。私に原因があるのではなく、相手に問題があります。
宴会とパートナーの負傷を天秤にかけたとき、宴会が勝つような人と登るわけには行きません。
しかし、私は、許す量が大きいタイプで、「歩くのも痛いんです」と2日間、言い続け、それが理解されなかったことも、年配の人だから理解力が劣るわけで、まぁ、仕方なかったかも?と思っていました。肉離れというのは初期治療が大事ではありますが、保険証を持っていなかったのは私だし、初期治療の遅れは、遠征中では、多少は仕方ないと思っていたためです。
しかし、帰宅後のメールで、
ーーーーーーーーー
〇〇では申し訳ありませんでした。
私は、自分の経験から怪我のことを軽く考えすぎていました。
せっかく〇〇に来たのならば、ついでにいくつかの観光スポットを回った方が
良いかと思ったからです。
重大な怪我であるとの認識があったならば、
〇日に二人で帰るなり××さんお一人を帰したのですが。
判断ミスをした事をお詫びします。
ーーーーーーーーーー
と言うメールを貰い、これは、
絶対にこの判断が、今後、覆ることがない
ことを確信しました。
”経験から怪我のことを軽く考えていた”
の一文です。 怪我は全治2か月の深刻なものですから、この事故で、50年の経験があっても、怪我を軽視するのでは、経験が豊富なのではなく、むしろ、経験不足を意味していますが…ポイントはそこではありません。
この方の経験は、そんじょそこらの経験ではなく50年の経験値です。その経験から、そう考えて、間違ったのであれば、経験の豊富さは山では意味を持ちません。
教訓: 経験は山では意味を持たない
金科玉条のごとく、取り上げられる山の経験値。それも意味を持たない。
とすれば、山での安全に意味を持つのは何なのでしょうか?
金科玉条のごとく、取り上げられる山の経験値。それも意味を持たない。
とすれば、山での安全に意味を持つのは何なのでしょうか?
■ 経験でも補えない、山で生き残るのに大事な価値観は何か?
それは、パートナーへの配慮、です。
怪我は、登攀、即刻中止です。
事情が許さなくても、少なくとも負傷者を第一に考えなくてはなりません。
事情が許さなくても、少なくとも負傷者を第一に考えなくてはなりません。
どんなに経験豊かな人であっても、パートナーを大事にできない人と組んではいけません。
それが今回、この件で私が学んだことです。
■ パートナーを大事にできる人か?どうか?
では、パートナーを大事にできる判断ができる人かどうか?というのは、どうやって判断したら良いのでしょうか?
これは、非常に判断が難しいです。
一般に、日本は男尊女卑の世界です。ですので、女性は、男性本人のニーズの後回しにされ、それを当然視する傾向が男女ともにあります。
もちろん、私にもあり、例えば、好物の卵焼きを弟が先にたくさん食べたとしても、私は、仕方ない子ねぇと思って、怒るわけではありません。女性のほうが精神的に大人であるからです。
同様に、男性と登る場合、登る順番で後回しになるのは、私は構わないですが、私自身が十分に練習できないような立場に落とされることが多かった、のです。
それは、男尊女卑的な男女感覚に基づく気がします。山にもジェンダーがあるということですね。
おそらく、私が海外で楽しく登れるのは、ジェンダー役割が、海外ではほとんどないからでしょう。
女性が自分のニーズを後回しにする期待をされていない、ということです。ケア期待、というそうです。
ケア役割の期待をされたときに、女性は、それを受け入れない判断をしないといけません。なぜなら、それは、自分のニーズが優先されて当然という男性側のエゴに基づく役割期待だからです。
■ ペテランおじさんだけでなく、本物のベテランも
さて、このような理由で、私の山ヤへの敬意というものは、かなり、低い地点を現在、指しています。
以前も似たようなことがありました。
山岳会で、すでにメタボになった、ペテランのオジサン登山者にセクハラされたり、とかです。(ベテランを装ったニセモノをぺてらんと言うのだそうです)
しかし、この人は例外的にペテランだということが、かなりよく分かる、明らかな事例でしたので、私の中では特殊ケースとして処理されていました。
なにしろ、赤岳ノーマルルートで息切れするような人は、すでに山ヤとして終わっています。雪の赤岳は新人の実力を測る登竜門であり、それが登れない=一般登山レベルの山に限定すべき、だからです。つまり、肉体的なメンテ悪すぎです。
また、二人きりで泊まっているテント泊で面と向かって「浮気したい」と女性の後輩に言って、それが許されると考える人は、時代錯誤しすぎです。誰が見ても、NGケースであることは明らかです。
ところが、私が今回ご一緒していた方の場合は、違います。地元の名士と言うような方ですし、普段から、腰が低く、静かで素晴らしい方です。大学山岳部顧問でもあります。
山でいかにふるまうべきか?というのは、50年の積み上げがあるという期待ができるはずです。
■ 人間として自立していない
その方の唯一の欠点は、古風な男女観、なのかもしれません…。時々、奥様の話を聞かされましたが、奥様はお料理が苦痛で嫌がっているそうでした…分かるなぁ。
メニューは「なんでもいい」と言っているそうでした。それは当人からすれば、思いやりからでしょう…しかし、現実には、なんでもいいが一番迷惑、です。
そのメッセージが伝えているのは、結局のところ、自分の健康管理においての責任放棄、です。つまり、大きすぎる責任を妻が担うことになってしまいます。奥さんが言っているのは、自分の食べたいもの、相手の食べたいものは、肉体が違うからには当然違い、健康管理まで面倒見切れない、ということです。
一種の責任放棄、が、古風な、男女間の役割分担には存在しています。
具体的には、二人で遠征を楽しむための用意がほとんどありませんでした…。それは目下であり、女性である私の役割に指定されていたのかもしれません? 雨で沈殿した時にすることを用意する、とか、食材の仕入れ先をあらかじめ調べておく、とかです。
ただくっついてきているだけ、と言うことが明らかで困りました。まぁ別に車中泊してしまえばいいので、相手の様子を見て、自分がどうしたらよいか決めよう、と思ったとしても、それは理解できますからいいのですが…。
しかし、今回は、もし相手の様子を見て決めると考えて、用意ゼロであったのであれば、すぐに帰宅する、というのが当然の判断になったケースでしょう。
なにしろ、一本も登る前に、肉離れしたのですから(笑)。
■ 幻滅
この事件で、私は2か月ほど自宅軟禁状態でした。そのため、私は山への愛自体をすっかり失ったような気持ちになっていました。
山をするという活動のすばらしさの、約半分は、人によってもたらされるもの、だからです。
それは、登山しかしなくても、登山道を歩いてきた何千人もの人と感動を共有する喜びであったり、歴史の共有であったり、です。
たとえ単独行であったとしても、そこを歩いた先人がいる、というのは、登山道を歩く限り、明確です。
ですので、多くの人が美しい樹木を眺めながら、この道を歩いたのだなぁ… 人々はどのような思いで、ここを歩いたのだろうか?子供と歩いたのか?楽しく歩いたのか?失意に歩いたのか?苦しかったのか?楽々だったのか? そういうことを考えると、人は一人で生きているようで、決してそうではない、ということを感じることができます。
しかし、そうした先人の歩みに連なる一つの点として、自分を加えて行く活動に、自分の時間を費やすだけの意義を見出せなくなっていました。
私は男尊女卑という価値観を信奉はしないからです。控えめなのも奥ゆかしい女性も素晴らしいですが、怪我をしたパートナーを思いやらなくていい、という考えは、賛同できません。人間失格判定です。
■ 山そのものは、まだ好きみたいです
とはいえ、山が嫌いなわけではないようです。
それは、一人で、山を歩いてみて、やはり山は美しいなぁと思ったために分かりました。
ガッツリ山をしたいですが、それは、たぶん、一人でする山であり、誰かと歩く山ではないでしょう…
それは、相手の問題というよりも、私自身の対人関係構築術の問題なのかもしれません。
私は元々、単独で歩くのが好きなタイプですが、それは、山と自分と一人だけで対峙できるからです。
読図の山でもない、一般縦走路で、誰かと歩く必要なんて感じたことはありません。
逆に、人と歩くことは、山とだけ対話していたいのに、対人的な配慮を優先せざるを得ず、重荷、と言うくらいです。山と自分だけの関係だったら、本当に世界は楽で、山からの癒しを100%受け取ることができます。
■ クライミングは相互依存の世界
それが変わってしまったのがクライミングで、私はクライミングでは、指導者のニーズを強く感じていました。
私に来てくれた人のビレイのスキルがまったく当てにならないからです。
経験不足による失敗の痛手が、即、死、につながる。
クライミングにおける経験値というものは、どういうルートを登ったら安全なのか?
あるいは、これくらいの登攀力の時に、これくらいのリスクが取れる、というような判断です。
日本は、5.7を登る人が5.7に取り付くことが許されない特殊な課題設定のされ方をされており、それが海外との違いです。海外では経験者のアドバイスがなくても、普通に経験値を上げていくことが可能です。
しかし、この判断…新人が取り付くべき課題へのアドバイスも、経験値が大きい人ほど、的確さを失っています。それは、現代の新人ではなく、昔の”新人”の基準に合されているからです。現代の新人は、昔の基準では全くビビってしまい、2度と来なくなります。
そうした現実を見てもなお、「俺の時は」と経験値を手放せない指導者クラスを最近経験しつつあり、結局のところ、新人の手ほどきは、やはりより現代人に近い私たちのほうが良いような気がしていました。
しかし、私自身が必要な指導が得られない、というのが、最も大きな問題でした。
後輩を指導するには、自分がその少し上を行っていなくてはならないからです。
私が得てきた指導は、最初は、師匠の鈴木さん、クライマーの菊池さん、亡くなった吉田和正さん、師匠の青木さん、です。
とくにクライミングでは、日本では初心者が安全に登れる課題が少なく、その判断に経験者の目があるほうが安全です。
■ 自分を信じましょう
というわけで、結局のところ、私自身は後輩を育成したり、新人を指導したとしても、自分自身を指導してくれることができる人はいない、自分で自分の道を歩くしか、方法はない。
それが最近のこの出来事からもらっているメッセージである、と私は考えています。
■ 過去の記録
自分の記録を読んで、確かに、安全に山を行うための思考というものが、手探りのながらも、行われていたなぁと、もはや初級者&初心者で無くなり、思います。
例えば、この記事です。2014年の6月16日ですから、5年前です。ほとんどお上りさん当時です。
https://stps2snwmt.blogspot.com/2014/07/blog-post_50.html
縦走路でロープを出す場合に、何でプロテクションを取るか?と思案している内容ですが、登攀経験が、ほとんどない者が考える内容としては、かなり的を得ていると、もはや登攀経験が豊富になった今でも、感じます。
ということで、過去の自分を客観視して、
原則から考えるという強い適性
を感じます。 このブログの読者の方に、お願いしたいのは、これです。原理原則から、自分の頭で考え、自分で実行してみる、と言うことです。
山では不安になることが多いと思います。
山だけでなく、山ヤ道、山をやるやり方自体が不安です。
同じように山をやっている人…特に女性、がいないということが大きいですね。
このやり方でいいのか?という不安がある。しかし、原則に照らし合わせ、自分で考え、解決していくのが、結局のところ、もっとも安全である、と思います。
自分の命、だけは、誰に対しても譲ってはいけません。
自己主張しなくてはならないときには主張しなくてはなりません。
それで、あなたを腑抜け扱いするような人は、最初から、あなたのパートナーではありません。
■ 関連記事
山をどう教えたらいいのか分からないのでは?
https://stps2snwmt.blogspot.com/2018/05/blog-post_15.html
ReplyDelete5月25日に夫婦の著名プロガイドの女性ガイドの講習を甲府幕岩で目撃しました。
その一、アップで10cのルートをトップロープで登らせて「これはみんなにはアップにならないかも」だって('◇')ゞ
その二、10aにしてはむずかしいルートの、普通は登らない一番難しいラインを登らせていました。
講習生は全然登れません。テンションしまくりで核心を抜けたら「核心を抜けたんだから後は易しい。サッサと登れ」と言ってました。核心で疲れたら、易しくなっても辛いんですけど。
その三、25メートル以上あるルートの終了点で、講習生にヌンチャクを回収させていました。
残置ビナにトップロープを掛け換えさせ、ヌンチャクを回収するということです。
それを取り付きから口頭で説明していました。講習生はなかなかできません。当然ですね。
そんなことをやらせるのなら、取り付きから終了点がよく見える短いルートでやるべきです。。
普通ロープの架け替えができる人を最後に登らせるでしょう。
HPを閲覧しると結構な能書きをかいていますが、変な山岳会の危ない講習みたいでした。これで講習料15000円です。よく岩場で会いますが、目の前で講習をじっくり観察したらこの様子でした。
肩書、経験はたいした意味はないです。
「これはみんなにはアップにならないかも」⇒ 自分の実力 PR
Delete「核心を抜けたんだから後は易しい。サッサと登れ」⇒ 人を下げて自分を上げる
ロープの架け替え ⇒ 教える側の怠慢
ラオスにいた私をトニーが助けに来てくれたのは、教える側の怠慢のツケを私が払っていたからでしょう…
分からないことが当然だと、分かっている人が考えないからです。
分かっていないことが分かっていないのが新人とは、言いえていますが、新人さんの側には、ものすごくたくさん学ぶことがあり、すべてが完璧に学び終えているなら、教える人は必要ないわけです。
お金を取る限り、相手の知識はゼロという前提で、その知識になんらかのプラスを加えてやるようなことがプロ意識である、と思います。
講習の場=自分の実力自慢の場になっている!