Monday, February 25, 2019

那須岳雪崩事故 被害者のページ

■ 那須岳雪崩事故の被害者ページを見つけました。

https://nasu0327.com/page-148/

この事故は、一般的な山ヤの感想としては、雪崩岳を少しでもかじった人であれば、雪崩は予見でき、このようなルート取りや、よくわからない言い訳など、考えられないというものです。

引率者たちが全くの素人レベルで会ったことをうかがわせる事故、事件だ、というのが一般的山ヤの見解ではありますが…

こういう事故が起こりうる社会システムがあるところが、基本的に日本のアキレス腱となっているかもしれず、また確実に言えることは、事故が起きてからでは遅いということです。

各自で自衛するしかありません。指導者がダメならば、指導者を凌駕する知恵や知識をみにつけましょうということです。

■ いったん失われた命は戻らない

結果とリスクを分けて考える、ということが山では一般的です。

例えば、落ちて死ぬところでは、どんなに登攀が易しくてもロープをつける。

ということは、結果(の重大さ)、と リスク(の低さ)を分けて考えています。リスクは低くても、起きる結果は重大、という事象です。

しかし、一般に、一旦事故になることの結果が重大でも、リスク(そうなる可能性)が低ければ、ロープはつけない、とする態度が日本の登山の世界では一般的です。

分かりやすく言えば、シートベルトに相当するかもしれません。シートベルトの着用が義務付けられたのは、今の世代は最初からそうだったかもしれませんが、私が子供のころはシートベルトは任意着用だったように思います。

また子供を膝の上にのせて運転することも、問題視はされていなかったように思います。

問題が起こらなければ、なんでもないこのような些細な安全対策も、今では、誰もが当然のように行うことになりました。

これは、何かが起こった時の結果が重大であるので、そうなる可能性は小さくても、その可能性を補填する、ということだと思います。

■ 雪崩

雪崩というのは、自然界では、あちこちでそれこそ、しょっちゅう起こっている事象だそうです。

雪崩が起きやすい傾斜、というものも言われますが、斜面があれば、すべて雪崩れると思え、というのが基本的な山ヤの態度です。

なので、雪の山に入るのに、雪崩の知識を得ないで入る、ということがそもそも理解不能ですし、雪崩があるとしたら、どこが起きやすいか、というのは、一つ一つの山に固有なので、その山で過去に起きた雪崩事件は、たぶん知ってから入りたいと思うはずです。
当然、遭難の事例を調べるなどします。

この調べるプロセスで、人が介在した雪崩事故は記録に残されるが、人的被害がない雪崩はどこにも記載されない、ということも理解するようになります。要するに、雪山でデブリを見たら、それは雪崩の痕で、それはそれこそあちこちにあります。

普通の人は、この時点で、自分には雪崩が起きそうな箇所が見極められる経験値が足りない、と実感することでしょう…。

そうであれば、比較的安全と思われる日に、どこが雪崩が起きる可能性があるのだろうか?デブリはどこにあるか?という目で、雪山を見る習慣をつけて、雪山に入る場合は観察が主な関心となることでしょう。

そういう関心をもってして雪山を見れば、状態が一様ではないことは、数回の山との接点で明らかなので、観察量の不足、つまり、経験値が溜まっていないことを感じるでしょう。

となれば、リスクに十分に備えたとは言えないという自覚が生まれるので、それなりの緊張感をもって雪山に入ることでしょう。

那須岳の雪崩事故については、この緊張感が皆無、という点で、山やの起こした事故とは全く本質が異なり、単純な無知と行政の責任逃れを露呈している事件にしか思えません。

このような態度で国民は接せられているという事例で、対策としては、自衛する以外あるのだろうか?というのが私の感想です。

人命という大きすぎる犠牲を払っても、国民が全員戦死するまで戦争を辞めない、というか辞めることができない狂信的な国だったわけですから、同調圧力の強さは並ではなく、人の命を何と思っているんだと糾弾したとしても、和の精神というものは裏を返せば、責任の所在をあえて不明瞭にしてしまうことだ、ともいえるわけなのです。

このような場合は一人一人が賢くなり、知識武装するのが、唯一個人が取りうる自己防衛手段と言えるのでは?と思える事件でした。

亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りしています。

また残されたご遺族への誠実な謝罪、このような愚かなミスを繰り返さない対策が施されることを切に願います。




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