山登り…”山をやる”という言い方をしますが、山は人との出会いを抜きにして語ることはできません。 出会いは確実に山の魅力の一つです。
そして、個人の山の歴史を彩り、個性づけるものです。 一つ一つの出会いが、”私の山”を作る・・・
そして、そうした山の個人史を彩ってくれた、そのおひとりが亡くなってしまいました。 今日は彼に最初に会った山を追悼登山してきました。花と岩の山です。
花の山は岩の山… 高山植物は厳しい環境に耐えることを生き残り戦略に選んだ植物なので、基本的に岩場にお花は咲きます。 岩と花は、ちょうど美女と野獣のようなコンビネーションで、険しい男性的な岩山の隙間や割れ目に寄りそうようにそっと咲くのが高山植物です。
それを教えてくれた彼によると、彼は岩登りをしていて、こうした花々に出会い、魅了されたのだそうでした。 ひょろっと背の高い、およそ山男らしからぬ、スマートな体型の方でしたが、クライマーと聞いて、なるほどと思ったのでした。
山岳カメラマンにして、環境ジャーナリストとして活躍中で、花の図鑑を出したり、最近では雑誌の露出も増えてきて、今を時めく活躍の人でした。 私は高山植物の保護活動で知り合い、同年代だったため気安いこともあり、時々メールを出してみたりもするのでした。
元々調査会社系の会社勤め経験があることや、環境への意識が高いことなどが共通項でした。
私は都会暮らしが長く、その長い都会暮らしでは、合成洗剤は使わないで石鹸洗濯をし、化学合成品やプラスチックを嫌って、わざわざ国産の無垢材でマンションをリモデルし、有機の野菜を直送品で買い入れ、間伐のボランティアをするような都会生活者でしたから、山麓というような場所ほど、環境意識が低いことは、とても謎で、環境問題に詳しく、都会生活者でありながら、岩も雪もやれる本格的な岳人であり、長く山をやり続けている彼は、そんな疑問を素直にぶつけることができる稀有な存在でした。
都会と田舎、と一言で言いますが、文化の違いは大きく、でもそれは非常に繊細でデリケートな問題なのです。他意はなくとも、聞きづらい…それはちょっとしたところでも現れます。
たとえば… 地元野菜を使った手作りの料理を出す、素朴なカフェ(友人がやっている)で、植物が売られていたので、見るとそれはシャジンでした。聞くと裏山から採取したものだと言います…「シャジンですか?」「さすが山やっているから詳しいね」
でも…心境は複雑です。シャジン、採取してはいけないんだな。人にはそれぞれ生活がありますし、生活には現金が必要で…でも、田舎には収入のもととなる産業が乏しく…、常に正義とマネーの間で揺れ動くところがあります。
でも人間生活は田舎に限らず、大なり小なり同じで、たとえば、パン一つ焼くにも、輸入小麦粉なら、安いけど、ポストハーベストが心配、かといって国産小麦粉は安全だけれども、品質が一定せず、高い。 車に乗るにしても、車は化石燃料を消費するので環境に悪い、けれどもないと買い物にも行けない。
山でもそれは同じで、一つの些細なことを挙げつらって、「どっちが正義か」論争をしても仕方ない。与えられた環境の中でベストを尽くすしかないのです。
そんな中、長く環境について携わってきた人の目には、総体として山では、環境意識は高まり、山の自然は回復しつつある、というのが彼の意見でした。 それを聞いて私はどれほどホッとしたでしょう。
都会人のくせと言うか、競争社会のくせかもしれませんが、ニュースになる事柄ばかりを情報源として利用せざるを得ない、情報弱者の立場におかれると、どうしても、「世界は悪いほうに向かっている」というペシミズムに陥りがちになるのです。
たとえば、鹿。今は鹿の増加が取りざたされ、鹿は問題視されていますが、古い山の本には鹿のいななく声が絶え間ないほど聞こえた、というビバーク記述もあったりし、昔はむしろもっと鹿が多かったのではないかと思ったりもします。
問題、ということならば、問題は常に存在し続け、人々は常に憂い続けてきたのだなぁとそんな時思ったりするのです。
彼が生業としていたジャーナリストという職業はある意味、火の無いところとまではいかなくても、うっすらと煙が一筋立ち上がるような状況でも火事を叫ぶと言うか、問題をあげつらうことで生計を立てるものなので、そのことからも、良い方向に向かっている、というセリフは彼の人柄の正直さを示すものでした。
■ 死と隣り合わせ
そして、何より私にとってショックだったのは・・・この人は無謀な登山をするタイプの、イケイケな野心家ではなかったのです。
亡くなったのは一般ルートではないため、落石止む無し、という感じに素人目には思われますが、登山を少しかじると分かるのですが、一般ルートなどというものは、冒険的要素を限りなく取り除いてあるまったく遊歩道のようなもの・・・バリエーションと言われるルートは一般登山者は入らないと言われますが、結局は多くの人が歩く決まりきった道と言う意味では同じで、道なき道ではないのです。だからバリエーションであっても難易度が変わっても、多少冒険的要素が増えるだけ。 それでも山はいとも簡単に人の命を奪ってしまう・・・ 人の命とは本当にはかないものです。
でも良く考えると、別に山でなくても・・・それは同じなんです。私の弟は、24歳の時に、普通にお酒を飲んで就寝し、その後二度と目覚めませんでした。普通に夜、おやすみなさいと言ってそれでおしまいなのです… 実は人生は常に死と隣り合わせ。
山だからそのことが普段の生活より色濃く感じられますが、山だから、死が身近なわけではない。どんなときも死はすぐそこにある。
そのことを知るまい、直視せずに済ませよう、と努力しているのが人間の正直な姿かもしれません。
誰もに与えられた死。誰もに与えられた生。限られた時間。
それをどう使うか?時間は有限です。憂さを晴らすのに使うもよし、夕陽を見て涙するのに使うもよし。
それは各人に任せられているのです。
■ 追悼登山
キタダケキンポウゲ
キタダケトリカブト
クモイカグマ
キタダケデンダ
ホテイアツモリソウ
キバナのアツモリソウ
アツモリソウ
タカネビランジ
ホウオウシャジン
ヒメシャジン
チシマギキョウ
ユキワリソウ
クモイコザクラ
コマクサ
ハコネコメツツジ
チョウジジコメツツジ
ムシトリスミレ
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