Tuesday, June 11, 2019

オーバーユースの山

■ 荒れに荒れている登山道の山=夏山

九重連山は、霧ヶ峰みたいなところだった。

基本的にえらいオーバーユースされた山だった。

登山道は、人が歩いたせいで、深くえぐられ、表土が削り取られて、その下の真土?が、出ているせいで、粘土質の黒い土…火山性なのだろう、黒ぼくのようだった…が露出しており、荒れに荒れている、と言える状態だった。

この荒れ具合は、登山道の左右の痛めつけられていない部分の状態と比べると分かる。落ち葉が積もり、平坦で段差もなく、ごく快適で、ふかふかな地面で歩きやすい。これが健康で正常な山の様子だ。

こんな快適な表土を、岩がごつごつで、木の根っこが露出した、泥だらけで、歩きにくく疲れる道に変えてしまったのは、人間なんだよなぁ…

登山道は多くの人が歩く間に、どんどんと削り取られる。

昨日は、雨後でもないのに、泥でぬかるんでいたせいで、まるで雪の路面みたいに、ラッセル痕ならぬ、トレースができていた。2本のレイルのように。

■ 踏み後から登山道へ

登山道は最初はきれいだ。うっすらとした踏み後、というのは、人に踏まれる間に少しづつ、くぼんでいく。

人間が歩いてくぼんだ所には、雨水が集まる。集まった雨水が大雨などの時に、小川のようになり、表土を削る。それが繰り返されて、だんだんとはっきりした道になる。

そして最終的に、この写真のような、ぬめぬめで通りにくい道を作る。その証拠に、このぬめぬめの1m両脇は、落ち葉が積もった、ただの普通の森の中の地面だった。

こんなひどくぬめった、泥のぬかるみ歩きは、通常、読図を要するような山をしていても出てこない。沢を歩いていても、出てくることはまずない。沢の下山でも遭遇することは稀だ。
つまり、バリエーションルートをやっているような、本格的な山をする人は、経験しないで済む。

ということで、一般の観光登山のほうが、うんと登山道の悪絶さでは、勝っている、ということなのだ。

しかし、私も雪で山を始めたので、雪を2年やってから、夏山に出てたため、初めて、こうした ”人間が作った自然”の道を経験したときに驚いた。

こんなに悪いとは!という驚きだ。

雪山で4回八ヶ岳の天狗岳に登った後で、夏山で行ったら、冬より超絶に歩きにくくて驚いたのだった…

いくら読図しなくていいとはいえ、こんな悪絶な道歩いて、何が楽しいの?とその時も思ったが、今回も同様に感じた。

こんな悪絶な道を、何度も歩かなければならないとしたら…?もし、それが仕事であったら…?私はとても、不幸になるだろう…と昨日は直感できた。

さぞかし、ガイド業は私にとって苦悩をもたらす不幸な職業だろうということだ。

それにしても、山がこんなにオーバーユースで痛めつけられているとは…。

登山道が1センチ削り取られるには、何年を要するのだろうか? 1センチ1年と仮定しても、1mも削り取れば、100年だ。左右に壁みたいに1mは盛り上がっているところは、稀ではないので、1m、削られているのは少ないほうに見えた。

坊がつる近辺が人間とかかわりあってきた歴史が長いことを意味する。

人間は存在するだけで自然環境に悪い、とはよく言ったものだ。

とはいえ、人が自然に親しむことは悪い事ではないわけだし…

どういう妥協が考えられるのだろうか?

というので、人と自然の在り方として、何か別の良い方法があればよいのに、と思ったりした。

登山道は、ところどころ木道を設置してあった。深くえぐれ過ぎて、階段や木道なしでは、急すぎて歩けないからだ…それなら、最初から木道を設置するというのも一つの案だと思った。最低限の侵襲で済むからだ。人間が怪我をするリスクも減るし…

■ 歩いている人たちの質

歩いている人たちの質…もう60代では若いほうで、70代は普通で、下手したら80代がいそうだった…を見ると、こんな、ぬめぬめで露岩しており、その岩ですら、泥で滑るために飛び石はできない道を、いくらストックがあるからって安全に転ばず歩け、と言うほうが無理そうに見えた。

ストックが登山道を削ることが良く問題視されるが、そもそも、すでに人がたくさん入りすぎて、登山道の荒廃が進んだ状態なので、ストックで3センチ穴を削ることは、小さな問題にしか見えないような状態だ。

むし、ストックなしでコケてしまうほうが、骨折の危険が多大である年齢の人たちに見えた…

ストックの先っぽは、昨日、3個は確実に落ちているのを見た。やむをえまいと思った。

こんな道で、転んでいるオジサン…昨今は女性のおばちゃんより、オジサンのほうが歩くの下手くそです…は、何回か見た。

昨日見たのは、この状態の道で、一眼レフを首から下げた上、アイフォン持ちながら、動画を取りながら歩いている、おじさん(メタボ)。

足が細くお腹が出ているという、下が脆弱で上に重量物という、物体としても不安定形状の上、注意力散漫とつるつる滑りやすい道というコンビネーションなわけで、コケないほうが不思議なくらいだろうと思った。しかも、転んだら、首から下げている一眼レフはおじゃんだろう。

どうしてこういうスタイルでの歩きが可能になるか?と言うと、両手が開いているから。

ということで、両手も歩きに集中させるために、ストックを持つルールにするのが、一番良いのではないか?と思ったりした。

■ 山ヤ冥利

山ヤ冥利とは、こんな悪絶な道を一生知らないで、楽しく山を歩ける特権を手にする、ということだ。

なので、もう絶対に夏山の一般ルートには戻るまいと心に決めた一日だった。

それにしても、普通に山に登りつづけていては、今歩いている道が、オーバーユースされた道か、どうか?など、10年歩いても分かるようにならないかもしれない…

それを思うと、私が雪で山を始め、夏山を一切知らないで、雪、沢、岩と山ヤ道を驀進したことは、本当に奇跡だと思われる… なぜなら、私はたぶん、

「これは、自然に親しむ活動にはなっていない!」

と漠然と気が付いて、すぐに山を辞めることになったのではないか?と容易に推測できるからだ…。

山の問題と言われている、あらゆる問題は、もっと正確に言えば、山の観光問題、だ。観光に山を使うと山が痛む…環境問題が起きる…が、人間は山から観光収入を得たい…そして、それは、山を愛する、という活動とベクトルが逆になる。

山の観光業は、山からの略奪行為だからだ。

そんな略奪行為に加担せずに、山と交歓できる活動、それが山ヤ道だ。

左右は1mは高い 人間が1mはゆうに削ったということです

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