Sunday, September 27, 2015

違和感・・・山岳会を考える、その2

■ 最初の違和感

振り返れば、最初から、少し違和感があった。

入会前に岳連で冬山講習があった。それは地獄谷だったので、親しみのあるエリアでもあり、入会直後の山行が、厳冬期の冬山合宿というわけにもいくまいと思っていたので、講習会で自分の理解度を会に理解してもらうのは好都合であり、即答で参加を決めた。

・・・が、送られてきた山行計画が杜撰だった。山初心者の私でも分かるくらいだ。当時は師匠についていたので、すべて相談する形式をとっており、その師匠も、「誰ですか、こんな計画を立てたのは」と言う。

それでも、知り合いづてに調べたところ、催行する人は上位団体の上のほうの地位にいる人で、しっかりした山ヤのようだったし、そこはぜひ行きたい山域だったので、この際、計画のずさんさは、おそらく、慣れによるものだろう・・・と解釈することにした。まぁ、慣れて杜撰になることを、世間では慢心する、と言うのだが。

しかし、その山行は、結局は行かなかった。私にとって、冬山での合宿で、食事を共同にするのは、ごく普通のことでいたのだが、とくに指示もなく、個別で持ち寄る計画のようだったし、協力しようと思い分担の提案をしたがうまくいかなかったし、避難小屋泊で、念のため程度のテントを持参するときに、なんだかテントが大きすぎる気がした。

その時は、ただの冬山ではなく、厳冬期だったので、違和感を感じたら、安全のためには行かない方が良いような気がしたのだった。それに天気が悪かった。

未入会者とはいえ、会から先輩が一人出動を決めた後で、行かなかったので、出動になった先輩には悪かったなぁと思ったが、どちらにせよ、参加者の大学生1名を見るのに、経験者2名が必要そうだったから、それはまぁ、私が行っても行かなくても同じかもしれなかった。

・・・が、どちらかというと、山行の結果のほうが、不思議だった。計画は貫徹されず途中で終って帰っているのだった。そのルートは私が登山2年目で、夫や60代の女性と歩いたルートだったので、不思議だった。

つまり・・・催行する力がないのかもしれなかった。もちろん、お天気が悪かったり、参加者が予想以上に弱かったりしたのかもしれないが・・・。

だた可能性としては、打ち上げた計画が大きすぎ、実際の山行は、現場判断で縮小、ということかもしれなかった。もちろん、現場判断で必ず縮小しなくてはならない場合もある。

しかし、優れた山ヤが計画した場合は、計画と実際の山行のズレは少ないものだ。

特にそれが公的な山行の場合だ。それに、目的を達する方法は一つではなく、ありとあらゆる選択肢で、相手に必要なスキルを身に着けさせようとするものなので、違和感を感じた。

■ 小さな違和感の積み重ね

もう一つは、役員のことだ。上位団体の仕事は、一度引き受けたら、10年も引き受けなくてはならなくなるようで、おや?と思った。

先輩たちも、上位団体の仕事は、あまり歓迎していないようだった。今の時代にそぐわないやり方が変えれないのかもしれない・・・というような感じがするが、詳細は知らない。ただ、やっている人が楽しくなさそうと言うことが分かるだけだ。

次の違和感は、意欲についての反応だった。

私がゲスト参加した山岳会では、先頭のラッセルは、皆が競ってやりたがる、取り合いだったし、重い荷を担げる方が強い山ヤだった。

他の会では、人工壁ではトップロープを覚えると、すぐにリードしかしなくなったし、入会初日にビレイを教わり、登りたかったらビレイをマスターしなくては登れないことは明白だった。交代でビレイし合うのだから。

確保理論の勉強会を呼びかければ、すぐに人数がまとまった。

しかし、自分の会では、ラッセルは延々と、くたびれて変わってください、と言うまでしなくてはならなかったし、ワカンの履き方も知らないで、山で悪びれず今日初めて掃きます、という人がいて、それを悪いとも思っていないようで、驚いた。普通は、そんなことをしたら、蹴飛ばされるのではないだろうか?山を舐めている、と言って。

クライミング練習に誘えば、入会2か月の私にトップロープ張ってくださいと言われ、驚いた。

確保理論の勉強会は、せっかく意欲がある人もいたのに、無視され、なぜか結び目を作るだけに終わった。どうもその資料に目を通したくないという意図が見えた。

そう言うモロモロの点で違和感があったが、要するに、私は私の山を勝手に続行しており、忙しかったので、小さな違和感はスルーだった。

■ スピンアウト

そうこうしている間に、友人のつてで、関西からのクライマーの訪問があった。山岳会から逃げてきた人だった。

その時期に、ちょうど、誰かがコメントで、会への返礼を新人に期待するのが近年早すぎる、というコメントを出した。

その人に聞いていると、なるほどなぁと思わされる内容だった。後進の育成を3年目の人がすることになるのは、やっぱりまだ早いのではないか?と思った。

まぁでも後進の育成は半分は自分のためだ。自分のパートナーに仕立てる目的なのだから。

私自身は自分が岩2度目から教える側&リードする側だったし、三つ峠も2度目から連れて行く側だ。やっぱり、その時は恐怖や負担には感じたが、今は良い機会だったと思っている。

流動分散の作り方とか、クローブヒッチとか、図解があるものは、それだけを教えればいいのであるから、そんなに難しいことではない。リードフォローも同じ。懸垂のセットも同じ。

ただ初心者はとんでもないことをしでかすので、初心者を一人きりにしてはいけないと言う意味で、助手はいた方が良い。

それよりも、違和感の根源は、健全さを感じさせないことだった。

■ 体面

組織と言うものは、あまりにも変化がない状態が続くと、淀んだ水と同じことで、腐敗して来るものだ。

組織の腐敗とは何を指すのだろうか?

最近読んだ『安全・安心の心理学』によると、

 ・相手の体面を重んじて、反対意見が表明されないことがある

 ・誰に頼まれたかによって、仕事の優先順位が異なる

 ・仕事ぶりより好き嫌いで評価される

 ・トラブルが生じた場合、何が原因か?より、誰の責任か?が先に問われる

とあった。属人的風土は安全安心には、マイナス要因なのだ。

体面や組織維持の方が、安全よりも重くなるという意味なのだ。それは登山においてはとても危ない思想だ。

それを顕在的に理解したのは、凍傷者3名を出した厳冬期のバリエーションだった。私は、計画段階から、計画に不安を感じていた。師匠も驚く、杜撰な計画・・・。

幸い、パートナーの都合によって参加せずに済んだのだが、予想通りの展開というか、予想より悪い展開だったために、驚いた。

私の予想では、良識によって計画縮小で帰ってくるのかもしれないと感じていたからだ。しかし、そうではなく、どうも無理な計画は、無理な計画のまま決行されたようで、その無理の代償を支払ったのは、計画者本人ではなく、サポートした人のようだったし、サポートしてもらった側には、相手の身体を傷つけた内容の計画および判断を実施したことについては反省がないようだった。

そのため、明日は我が身、かもしれぬ・・・と警戒した。

その不安を裏付けるかのように、同じルートで山岳遭難が起った。山では体力が弱いものから順に犠牲になるということの証明だった。他人事ではない。

≪関連記事≫
八ヶ岳バリエーションでの遭難

■ 付録

これには驚きの付録がついた。参加していない山行で、食当費を請求されたのだ。それも公然と。

一般的感性として、当人が使用していない代金を請求するというのは、かなり勇気がいることだ。しかも、それを公然と請求されたと言うことは、請求して来た人は、かなり正当性に自信をもっているということを意味する。

・・・ということは、含まれる人たちが自分の側に着くと言う確信がある、ということだ。

それはどういうことか?というと、おそらく、否定的な話題で、取り上げられたのだろう、ということを意味する。そうでなくては、普通、人はそんな非常識なことはできない。

しかも、その人に生ガキを贈呈した後。夫は「あげる人を間違ったね」とコメントした。

■ 洞察

まとめると、不安を搔きたてられるのは

・大きく打ち上げて、計画縮小 → 計画は立派でもその立派さは慢心により、実際は実力不足なのでは?

・意欲 → 価値観の逆転現象が起きているのかもしれない?

・運営 → もしかして、押し付け合い?ババを誰が引くか?のような感じ?

・風土 → 体面が本質的にあるべき姿よりも重視されると、安全から遠のくかもしれない

・貢献 → 貢献しようと言う気持ちは、凍傷や怪我などとして還元されるかもしれない

・スケープゴート →ありうるラインかもしれない・・・

と、いうわけで、もろもろの違和感が、具体的な懸念となって沸き起こる。

無論、これらの懸念は、私がそう懸念するだけであって事実ではないし、その懸念は私の推察、洞察によるもので、なんらの根拠はないが、事実を基にした目撃情報による洞察であることは確かだ。

目にしたこと、耳にしたこと、それが私に不安を起こさせるのだ。

■ 忍び寄る、ほつれ 

結局、それらはどこに起因するのか?というと、おそらく、マンパワー不足とか、高齢化によるレベルダウン、とか、世代間の断絶とか、そういうところに落ち着くのだろうと思うのだが・・・

それは、出来事ややり方に起因する不安であって、誰それという個人の問題とは思えない。

個々人を見ると、すべての関係者が良い人ばかりだと思う。

ただ良い人の集合が、良い行動を引き起こすとは限らない。

人間の弱さは憎むことはできないが、時間的に不可逆的・・・場合によっては、取り返しのつかない出来事を生むという事実は変えられない。

弱さを制するのは、理性だが、欲求と理性の対立となったとき、理性が勝てない人が主流化すると、子供の集まりと同じになる。

例えば、望まれない子供は、性的衝動への弱さの結果として生まれ、その人間的弱さの結果は、20年の長きにわたって、関係者全員に重しとなってのしかかる。

肥満も同じで、食欲をコントロールできないことを示す。

組織の面で言えば、食品会社による偽装隠ぺいも、誰一人として悪者はいないうちに、身内びいきが起り、隠ぺいという自覚がないままに、起ったものだ。

組織とは、個人とはべつのそういう生き物であり、善人の集団が善とはならないし、衆愚という言葉も知られている。

各論ですべての判断が善であっても、総論で悪ということが成り立つのが組織ということの恐ろしさなのだ。

むろん、万事が塞翁が馬で、良き事が必ずしも、善となるは限らないし、不運が必ずしも悪と転ぶとは限らないわけだから、何が起こったところで、良いのだが・・・。

ただ、災いが降りかかる時、それは必ずスケープゴートになる人がいる。

山の場合、それは、責任感の大きさにより、責任感の強い者がこうむる・・・大体、無理や無謀、混乱のとばっちりは、もっとも弱い者、もしくは、リーダーがこうむるもの、と決まっている。

そして、私は大概の場合、そのどちらかに当てはまっている。

阿弥陀北稜の遭難を見ても、リーダーと弱い者が死んでおり、また自分の会の山行でも、もっともシビアな凍傷をこうむった人はリーダーであり、軽症の凍傷者の二人は最も弱い者だった。

人には自分の身に降りかかる危険を予知する能力があるのかもしれない、ということは言えるかもしれない。




 







No comments:

Post a Comment