私はただ知りたいのだ。
山って何なの?
もちろん、私が言っている山は、ただ「北岳は日本第二の高峰です」とか、「小川山は花崗岩の岩です」とか、そういうことではない。
「あの人は山のなんたるかを分かっていない」
と言うときの、”山”だ。
八甲田山の”死の彷徨”は、山が分かっていないことで起きた大量遭難だった。あまり知られていないが、この山行には、別部隊がいた。その部隊は同じような山行をして、一人の落伍者も出さず、帰ってきている。
両者の違いは、抽象的な言い方だが、
山を分かっていたかどうか?
だ。中身は同じ山なのに、これほどの開きが出るのが、山なのだ。
もっともよく山を分かっている人は誰なのだろうか・・・?マタギなのか?猟師なのか?
山を生活拠点にするだけでは、山のことを何にも知りえない、ということは、山小屋でしばらくだが、バイトしてみて分かった。
私が一番びっくりしたのは、山に働いて、誰も外を見ないことだった。毎朝、3時半に外に出て、外の空気を吸っているのは私だけだった。雨の日も、風の日も、外に出なくては、登山者に的確なアドバイスはできない、と思ったのに、ネットで配信される天気予報を張り出してお終い。
日帰りの山を重ねても、山の一面しか知りえないことも分かった。温かいお天道様の下に、お弁当を広げて、「山っていいね♪」っていうのは、軽薄短小に感じる。
そんなシチュエーションで良くないハズがないでしょう。同じ場所で雨に降られ、風に叩かれ、闇夜が来たら、「山っていいね」どころか、山なんてコリゴリと思うはずだ。
昨日はスーパームーンだった。子供の頃、月に慰められて生きていた。我が家はとても貧しく、それを解消する手段も子供だから何もなく、ただひたすら耐える日々。それでも、月は美しい。
夏の暑い日に、夜中にベランダから外へ出る。そして、飽くまで、月を眺める。地球の裏側でも同じ月だと言うことを考える。清少納言の時代も同じ月だと言うことを考える。
自然の普遍性を思うと、人間的問題は大したことではないように思えることが多い。月明かりは優しく、不変だ。
樹木に心を寄せることで、人は生きることができる。毎日の登校で、挨拶をする木があった。イジメや理不尽が積み重なると、その木の下へ行く。彼は何が起こったか?見て知っているから、平気だと思う。
九州の台風はすごい。閉じて鍵を掛けたアルミサッシから雨が室内ににじみ出るような雨だ。その中、弟とベランダで滝行のように、雨に打たれる。何もかもずぶぬれで、ひどい格好だが、何かが洗い流されるように清々しい。遠くで稲妻の蒼いラインが見える。美しい。恐ろしいような気もするが、それでも目が離せない。
でも、少年自然の家なんかのキャンプサイトは大キライだった。ニセモノ、と子供の私は切り捨てていたのだ。
今では人間が丸くなり、人の弱さを許せるようになり、ニセモノにも寛容になった。
だからと言って、ニセモノが分からないわけではない。
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