Wednesday, August 3, 2016

責任感のある仲間と登る

■人間として尊敬できるということ

最近、仲間に恵まれ、改めて確信したことがある。

大事なことは、人間として尊敬できるということだ、ということ。

言うまでもないことだが、クライミングは、余暇の楽しみである。大事なことは登れることではなく楽しめることである。

人を人とも思わない態度(例:挨拶をしても挨拶を返さない、言動を無視する、相手を試すような態度を取る)など・・・、そもそも”人としてどうか?”というようなクライミングも過去にあった。一緒にいること自体が苦痛だった。

実力を無視した無理な計画や、自分の実力誇示のために相手に無理なペースを強いる、実力誇示や危険認知の欠如により、相手を命の危険に陥れる・・・たとえばラクがあると分かっている場所にわざと立たせるなど・・・、あるいは、登れるからイラナイでしょなどのロープの不携帯などのずさんな装備は、自分のことしか考えていない。

相手の命を自分が危険に陥れていることには、まったく考えが及んでいない。

自分のプライドのことしか考えないのは、心の習慣だ。権利意識が強く、権利には義務が伴うことには無自覚である。 

自分のプライドのためだったら、相手を危険に陥れても良い、という価値観を持っている、ということになるのに気が付いていない。

それが、心の習慣であるということは、基本的にまったく無自覚であるということから伺える。責任に気が付いていないことが、分かっていないことを表している。

つまり一緒に登りに行く仲間としての相手への責任感のなさ・・・に無自覚である・・・と言うこと自体が、山仲間としては不適格だということを表しているのだ。

二人でクライミングに行き、一人が怪我をしたら、片方は山を下りて伝令として走れなくてはならない。読図ができなかったら、どうやってそれをしようと言うのだろう?

歩荷についても同じだ。基本的に自分が必要とする装備+登攀具を担げなくては、パートナーにおんぶにだっこ状態であり、クライマーとして自立しているとは言えない。協力ではなく依存関係になっている。特定の相手がいないと登れない状態は依存であって協力ではない。

ロープワークでも同じで、懸垂くらいは自分でできないとガイド登山状態だ。

テント泊などでも同じことだし、パートナーの獲得でも同じことだ。誰かが見つけたパートナーを横から取るのは、まったく自立していない。

そういう依存は、心の習慣だから、そういう人は、日常生活でも個として自立していない。だから、失礼なことをしても、まったく自覚がない。自分の権利主張ばかりである。

■ 気の毒な立場

自立していない仲間しか得ることができない人は、とても気の毒だ。

私は、嫌な目にも色々とあったけれども、それらの嫌な目は起こるべくして起きたことだと思う。

なにしろ、今はそういった私を命の危険に陥れる人とは登らなくて良い。

不安なビレイに身を任せる必要もなければ、無理なクライミングを無理強いされることもない。縦走程度で世話を焼いてやらなくてはならない人とは登らなくて済み、相手の荷物を肩代わりして担いでやらなくても良い。道案内もしてやらなくて良い。

自らのことは自ら決めることができ、同行者の命についても積極的に責任を担おうとしてくれる仲間。

そういう仲間と登れることに感謝している。




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