先日、国体で、会の先輩に久しぶりに会った。先輩はなんだか私に会ってうれしそうにしていた。私のほうでも、変わりない姿を見れてうれしかった。
退会はスムーズだった。君の期待に応えることができない、と先輩は言っていた。ごめんね、ということだ。
あきらめ、諦観、そういったものが、今、山の世界を支配しているのは、仕方がない。
No way out というような状況だからだ・・・。 出口がどこにもない迷宮に山の世界は入り込んでしまっている。
進歩はなく、退廃があり、停滞した空気感の中で、できることを精いっぱいやる、という山は、逆流に逆らって進む川の遡行みたいな感じだ。
■ 停滞
大体は、みな宴会山行へ逃げ込む。
本来の山の良さは、体力に見合った山をいつでも楽しむことができる、ということなのだが。
山の世界では、まだまだ競争原理が幅を利かせている。
この競争原理は、誰も幸せにしていないのに、不思議なことに誰も手放せない。
高尾山より、剣が上。
二級の沢より、六級の沢が上。
そんな世界が嫌だな~と思い、アルパインはもういいから、自然ガイドの世界に転進しようかな~と今春思った。
登山者として初めてのころ、よくネイチャー系講習会に行って、愉しかったからだ。苔とか、アニマルトラックとか、色々勉強した。
が、そこでも。
おばちゃん登山者たちは、何座行った、何年やっているの競争をしていた・・・ 上高地なのに、明神も知らないで、上高地のすべてを知っていると言わんばかりなのだ。
■ 結局は自尊心の問題
競争と自己顕示欲の山となると、結局は、自尊心の問題です。
登山を自尊心の問題で登っている人が多いのが、昨今の遭難者増加問題の端的要因であると思います。
私の会では、過去の自分の登山歴から、自分の能力を過信した先輩が率いた阿弥陀北稜(初級のアルパイン)で、3人の凍傷者を出しました。
これは計画時から慢心がうかがえる計画で、計画に意義を唱えたのは、悲しいことに、新人の私だけでした。
つまり、しがらみが理性の窓を曇らせるのです。
計画者が言っても聞かない人だから、ということもありますが、それでもその人が凍傷になったり、死んでしまってよい、と言う訳ではないでしょう。
他の会員は、人間関係の悪化を恐れて言うべきことも言えないのです。
しかし、山では、人の命がかかっています。
人の命を、自分の自尊心を満足させる道具にしてしまってはいけません。
それは、自分の命であっても、です。
■ 今日の言葉
自分らしく振舞い、
思ったままを言葉にしなさい。
なぜなら、そのことを気にする人は
あなたにとって大切な人ではないし、
あなたにとって大切な人は
そんなことを気にしたりはしないはずだから。
私をきらいな人を
憎む時間なんてないの。
だって、私を好きな人を
愛するのに忙しいのだから。
自分が愛する人たち、
自分を愛してくれる人たちに
大切な時間とエネルギーを注いでいきたい!
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久し振りに読ませて頂きました。
ReplyDelete何故か私が最近思うことの代弁をして頂けてるような気がして
嬉しいです。
相変わらず山歩きばかりで、ロープ等触りませんが
自分の行ける山で少しだけ背伸びしながら楽しんでいます。
そして、時々此処へ来て、自分を深く振り返る時間がとても幸せです。
実はこの記事は削除しようかなと思っていました。snowさんのコメントをいただいたため、置いておこうと思います。
ReplyDelete世代の問題もあるのだと思います。ここ数日、登山者の入山前登山というような遭難が相次いでいます。登山って楽しいだけでなく、危険があるのだ、歩くだけのようでも、歩くことにも技術が要るものだし、ハッキリ明瞭な道があると言っても、最初からその道が間違っていてはダメなのだから、計画性が必要なのだ、というようなことをきちんと伝えていく、それが必要なこともしれません。
そういう活動を今後はして行きたいと思っています。