Monday, August 15, 2016

ウォーレン・バフェットの言葉


成功とは、いいと思うものを得ること。幸福とは、得るものをいいと思うこと。

 ウォーレン・バフェット:投資家

バフェットの著作はいつくか読んでいるが、こんなことを言っていたらしい。真実を突いている、と思う。

どんな人も、”自分がいいと思うものを得よう”として、現在の自分に至ったはずだ。

だが、多くの人は、”自分がいいと思ったもの”を得ても、それが”いい”と思えなくなる。幸福だとは感じられなくなる。

一例をあげよう。

どんな男性でも、結婚相手になった人には、”結婚してほしい”と懇願して結婚したはずだ。その女性は、”自分がいいと思ったもの”だったはずだ。その女性を得ることは、成功と考えたから、プロポーズしたハズだ。

ところが、30年、40年とつれ添うちに、妻を疎ましく思うようになる。自分が得たものをいいと思えなくなるのだ。

世の中に、このような結婚は多い。結果として、不忠がはびこり、浮気する男性が後を絶たない。そうした男性は、世の中の誰もが浮気をしているのだから、自分にも許されて当然だと主張する。

女性の側はたまったものではないのだから、このような世の中の考えには同調してはならない。

このような不幸な結婚は、反面教師として、決してそのような経過をたどることのないようにしなくてはならない。

結婚は、幸福とすることができるのである。それは得たものを良きものと考える思考から生まれる。

思考は具現化するものだからだ。

■ 青い鳥を追うのを辞める

子供の頃の私は、考えが浅かったので、私の親はくっついたり離れたり忙しかったこともあり、安定を求める子ども心から、じゃあ、さっさと別れて良いと思う人をまた得たらよいのではないか?程度にしか、考えていなかった。

大人になり、合理的思考も発達すると、それは何の解決にもならないことに気が付いた。

とっかえひっかえ、その時良いと思う人を次々と恋人として得て、次々飽き、次々とまた良いと思う人を得る。繰り返しにすぎない。

言い古された青い鳥のお話と同じことだ。

これは恋人、結婚相手のみならず、仕事や趣味の成功などでも同じだ。

もし、青い鳥のお話と、結末が同じだとすると、探し求めた幸福は、すでに掌中にあるものであるはずだ。

それはなんだろうか?

■ 未来形

バフェットの言葉が、幸福とは”得るもの”をいいと思うこと、と未来形であって、”得たもの”をいいと思うこと、でないのは、素晴らしいことかもしれない。

過去形の”得たもの”をいいもの、としてしまうと人間は成長をしない。

あるもので満足、という進歩の無い世界観となってしまうだからだ。

来るもの、得るものは、かならずしも、願いどおりとは限らない。

美しい花嫁を願い、その通りのものを普通、人は手に入れる。しかし、人は老い、美貌は必ず奪われるものである。それは不可避な変化だ。

それだけではない。

神はいつも、願ったものを与える。だが、願いはいつもすこし違った形で叶う。

例えば、神は、強くありたいと願った人には、試練を与える。試練こそが人を強くする唯一の物だからだ。

その叶った形を良いもの、幸福として受け取れることが大事だ。

現代人の問題は、強くありたいと願ったのは自分なのに、試練を与えられると、それを幸福だとは考えられないと言う点だ。

しかし、試練なくして、どうやって強くなろうと言うのだろう?

裕福になりたいと願えば、寝る間もないほど働くという環境が与えられるだろう。私自身もそうだった。

働かずしてどうやって裕福になろうと言うのだろう?

今、日本の労働環境は劣悪で、人々は長時間労働に晒されている。

誰もがそれを幸福だとは考えられないほどだが、それは労働が美徳だと考えられているためではなく、贅沢が美徳だと考えられているためだ。

誰もが食べるに十分なだけの稼ぎで満足すれば、それほど働かなくて良いはずなのだ。

経済的豊かさが唯一の成功であり、幸福の指標だと考える人が増えれば増えるほど、世界は長時間労働で占められるのが道理だからだ。

ヴィトンのバッグを買うために隷属的な長時間労働を受けいれるか?と尋ねられれば、誰もがNOと答えるだろうが、長時間の労働をした自分にご褒美をあげようとすると、結局は、ヴィトンのバッグになってしまうという結末はよく見受けられる。

それは、贅沢しか、自分を幸福にする他の価値観を自分に許していないからだ。

経済的な贅沢をあきらめることができないならば、同じ価値観の中から出ることができない。

■ 今持てるものに満足を見出すところからスタート

どのような生活にも、喜びの瞬間はあるものである。どのような貧しい人にも太陽も月も同じように光り輝く。

今できる、その生き方で、心を充足させる方法を見つけることが、得たものをいいものとする考え方である。

そこがスタート地点だ。

つまり、幸福は、幸福だと認めるところからスタートするということである。

行ける山が、いつもいい山。

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