■ 戦力外の弟
私には2歳年下の弟がいた。一般に赤ちゃんの時は男の子の方が女の子の赤ちゃんより、病気に弱く、手がかかる。弟も例外ではなく、母は赤ちゃんの弟と幼児の私を抱えて大変そうにしていた。
母はシングルマザーだった。だから、私は”上の子は手がかからなくて助かる”であることが親孝行だった。私の自立は、幼児の時代から始まっていた。
弟は母親にべったりで、幼稚園に行くにも、いわゆる”ぎゃん泣き”して大変だった。母親が勤め先に出るのでも、同じ。妹もつられて泣いてしまう。
それでいつしか、ぎゃん泣き中の弟と妹を私が抱っこして、その隙に母親が家を出る、というチームワークが生まれた。
妹は、母がいなくなると、姉の私にべったりとなった。が、6歳の子が2歳の子のだっこをずっとしているのは、すごく大変だ。妹はまだ赤ちゃんだから、鼻水は垂れるし、ばっちいし、かと言って、2歳児は10kgくらいあって、もう重い。だっこしている私自身も、まだ6歳だったのだから。
一方、弟だってまだ4歳。戦力外だった。ロッキングチェアに登って落ちないでくれるだけで、ありがたかった。弟はいたずらして、怪我で3回、救急車に乗った。
男の子は成長が遅い。弟はおねしょがなかなか治せなかった。私は3つでおねしょは克服したが、弟は小学校3年生までかかった。
■ シゴキ
彼が小学校に上がった時、母が弟を地元のスイミングクラブに入れた。最初の日は鮮烈だった。弟は、ただプールに投げ入れられていた。人形みたいに。
溺れる~という声が聞こえてきそうだった。むちゃくちゃな動きで、何とか水から逃れようとしていた。
やっと上がってきて、ホッとしたのもつかの間、また投げ入れられていた。弟は泣いていたと思う。
それでも、この日から、弟はスイミングスクールに通うことになった。母は他の子が履いているような濃紺のスイミングパンツではなく、真っ赤な競泳用水着を弟に買って与えた。弟にしては、すごく恥ずかしかったのではないかと思う。
でも、その年から、私たちは、フェンス越しに弟がプールで虐待されているのを眺めた。赤パンなので見つけるのはたやすかった。
やがて冬が来ても、真水で泳がされ、唇は紫で歯がガチガチ言っていた。
母は私と妹を弟と同じクラブに入会させようとしたが、私は断固として拒否した。妹はカッコいいスイミングインストラクターのお兄さんにつられて入ったが、子供用プールでおもちゃ遊びする程度のことしかできなかったらしく、すぐ退会。
結局、弟だけがこのシゴキに耐えた。我が家のホープ。文字通り、希望の星。
■ 頼りにはならない
弟は3、4年生で、もう選手だった。我が家の休日は、弟の大会を中心に回った。5,6年生になると、メドレーやバタフライも出来て、家には、ずらーとメダルとトロフィーが並んだ。
6年生の修学旅行は長崎に行く。この長崎の時、弟は私に一番良いお土産を買ってきてくれた。びっくりした。母に買ってきたものより高価なお土産だったからだ。サンゴのネックレスだった。
我が家では、いつも、子供達がみんなでおこずかいを貯めて、ママに何かを買ってあげるのが通例だった。
当時、私は14歳だった。大人びていたので、街の中を歩いていると、大学生や新社会人の男性が声を掛けてくる。怖かった。
弟が中学生になった時、彼は「〇〇の弟」という呼ばれ方をされなくてはならなかった。学校の成績はてんでダメだったが、水泳のおかげで、スポーツは何をやらせても上手にできた。
最初、野球をやり、その後サッカーをしたが、すぐレギュラーになった。私はテニス部でキャプテンだった。
大変だったのは、サッカーで泥で汚れた、弟の衣類の洗濯。それでだいぶ弟とは喧嘩した。
この頃は、もう取っ組み合いの喧嘩はしなかった。しても私の方が負けてしまうのが明らかだったからだ。でも、断固として、弟の衣類を洗うのは拒否したので、弟は自分で洗うようになった。
私が中学生の頃までは、弟と二段ベッドの上と下で寝ていて、ある暑い夏、私がお腹の辺りに変な感触を感じて、起きると、知らない若い男の人がベッドの脇に立っていた。
それで、「ター坊!起きて」と叫んで、上の段で寝ている弟を起こしたが、弟はその男を見て、知っている人だと言った。
しかも、姉が酷い目に遭わされているのを理解していないみたいだった。全然、頼りにならない弟だった。13歳。
この事件のあと、この男の人は下着泥棒でストーカーだった、ということが警察から伝えられた。弟はストーカーをずっと見ていたのに、変だとは全然気が付かなかったのだ。
弟は14歳の頃、バレンタインデーのチョコを14個ももらってきた。中学が一番彼が輝いた時代だったかもしれない。
15歳になった弟は成績が悪すぎて行く高校がなかった。仕方ないので私立へ進んだ。あまりガラも良くない男子校だった。
1年生でさっそく額に剃り込みを入れていた。この頃は、もうすでに超逆三角体型で、弟は180cm近くあり、私は152cmと小柄なので、弟を見上げるようになっていた。
弟が高校生になったころ、姉の私は、すでにバイトしていて、朝5時には家を出て、夜は夜中の2時ごろに家に帰ってくるような生活をしていた。授業料もランチ代も自分で出していたのだった。
弟も高校に入るやいなや、土方のバイトを始めた。弟は、いつも私のマネをしている。2番目の子は、1番目の子がした失敗をしなくていいってことなのだ。
私はもう家事はしなかった。私自身の人生をなんとかする責任は私自身にあった。弟もそうだった。
その次に弟に会った時、弟はすでに冷たく、死後硬直した体になっていた。心臓発作だった。24歳。私は26歳だった。
■ 弟と学んだこと
私は、豪傑気取りでお酒を飲んで暴れている男性や浮気性の男性は嫌いだし、それは弟も同じだっただろうと思う。父親を思い出させられる。
私には、強くてたくましい弟がいたから、腕力があり、強くたくましい筋肉隆々のクライマー連中を見ても、男の子なんだから、そういうもんだ、と思う。筋肉を見て、うっとりなんてしない。強さでどーだ!と見せつけられても、どうもこうもない。
私に同じことを求められても、できないし、したいとも思わないし、する必要があるとも思えない。
私より山で、弱い男性を、パートナーにしたいなんて思わない。そんな女性がいるんだろうか?
男なんだから女性より強くて当たり前。
弟はスポーツは万能だったけれど、それは、スポーツの中のことだけで、頼りにはならなかったし、私のボディガードにさえなったかどうか・・・。確かめる前に死んでしまった。男の子のほうが生命力が弱いのだ。
小さいころはおねしょしていたんだし、母親を求めて、ぎゃん泣きしていたのは、弟のほうで私ではない。
弟と母親の愛を競ったことはない。常に弟が母親の愛情を勝ち取ることは自明だった。母にとって一番大事な子供は弟だった。だから、早死にしたのだ。
周りの大人は私が男の子だったら良かったのに・・・と良く言った。弟と並んでいると、よく兄弟と間違われ、私は男の子と間違われることが多かった。
山に愛されるのは常に強い男性で、女性の私ではない。私が男性と同じやり方で山に挑んだら、山はあっという間に私を飲みこんでしまうだろう。
男と女は違う。でも、弟は14歳の私にサンゴのネックレスをくれた。ちゃんとリスペクトはある。女性には、花を送りましょう。男は強くありましょう。
私のあとをついて、私の履いたスカートを履きたがっていた弟。坊主頭の弟。あやとりが上手。
私は”ねえちゃん”で、弟はいつまでたっても”ター坊”だ。それ以外、考えられない。
女と男は、ただ違う。特質が異なるのだ。
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