かつて、山に行くことは、私にとっては、非日常や瞑想を意味していた。脳の活性化&レスト。
ところが、今は、なんだかクライミングのほうが、脳のレストになっているような???
■ 再定義
ということで、私は自分の幸福の定義を再定義しなくてはなるまい。
始めのころは、景色、だった。山で良い景色を見て、心洗われる、良い思い出を作ることが目的だった。それは叶い、とても幸せな気分に包まれた。
その次にやってきたのは、山瞑想だった。山で精神の平衡を取り戻す。心のリセット。元気になるために山に行く。
次に、やってきた幸せは冒険だった。夫と知らないところへ行くのが楽しかった。へぇ~の量が幸福の量。
次は、挑戦だった。どんどん難しい山に行けるようになることが楽しかった。夫と二人でどんどん山を難しくしていった。達成感が幸福の目安という訳だ。
ただ、私一人がどんどん難しい山に行きたくなってしまい、夫とは一緒に行けなくなってしまった。この領域はまだ満たされていないままに、ブーム終了。本来、挑戦できると思える最難の山には、挑戦していない。
が、ただ同時に、難しい山と思われている山がラクラクになってしまったので、難しさを追求すること自体に、そもそも魅力を感じなくなった。
次に、どんな山でも、山さえ行けたら幸せ、という時代が続いた。沢や岩は目新しい体験で、好奇心をかきたてられた。沢をどうするのか、岩をどうするのか?とにかく”知る”のみ!
沢でも、岩でも、読図山行でも、何でも楽しかったので、そのまま好きなように山に行っていたら、108日も山に行くことになってしまった・・・。まぁ、かなり幸せ満喫ってことだな。量の時代ということだ。量が幸せの目安。
ただ、量をこなすうち、山なら誰と行っても楽しいわけではないことに、気が付いた。スタンプラリーみたいな、ピークの数だけの登山や、安全をアナタ任せの同行者との山、どんなすごい山に行ったか、その自分がどんなにすごいやつかを自慢したい同行者との山は、全然楽しくない。
リスク満点でくつろげない。なにしろ、危険認知が甘々どころか、命あっての物種、だからだ。この調子で行けばいつか事故で、凍傷や転滑落になることが、予想できる。
山行の質を重視する人が、人で充満した夏山なんて行きたくないのは、普通のことだ。
私が山に行きたいのは、そもそも、アイソレーション、人から離れるためなのだからして。
というわけで、幸せの再定義。
■ 幸せの再定義
フィジカルのアップ。精神の充実。
・・・ということで、幸福の目安が何であったか?言い換えると、何を目的に山に行っていたか?をまとめると
景色(ご褒美) → 瞑想 → 冒険 → 達成感 → 量 → 知識 → 質
という変遷をたどっている。
■ 夏山は人ごみ
景色(ご褒美) → 瞑想 → 冒険 → 達成感 → 量 → 知識 → 質
という変遷をたどっている。
■ 夏山は人ごみ
山行の質を重視する人が、人で充満した夏山なんて行きたくないのは、普通のことだ。
私が山に行きたいのは、そもそも、アイソレーション、人から離れるためなのだからして。
というわけで、幸せの再定義。
■ 幸せの再定義
フィジカルのアップ。精神の充実。
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