Sunday, April 2, 2017

選ばなかった山

■ 単独がスタート

山は単独で始めた。

単独行では、山が要求する能力が10だとすると、15が必要になる。したがって、自分の能力が15になるまで、登らないという選択肢を取って来た。

連れて行ってくれる人の力量が20だと、自分の力量が1とか2しかなくても、10の山に登れる。フィックスロープが張ってあるエベレスト登山みたいな山には、最初から興味がなかった。そういう山に登るのは、恥ずべき行いのようにすら感じてきた。

だから、選ばなかった。

■ 選ばなかった山

選ばなかった山…のリスト。

登山2年目での正月の赤岳横岳縦走。このとき、選ばなかった理由は、アイゼン歩行技術に自信があれば、つまり落ちない自信があれば、ノーロープで、普通に個人で歩ける山だからだ。その程度の山は歩けて当然の山なので。アイゼン歩行が身についていなければ、ロープを出してくれるガイドの同行が必要。つまり、技術を身に着けてから行くことを選んだ。技術の習得に時間はかかったが、登山の喜びは大きく、その価値があったと思う。結局、赤岳は普通に登山し、横岳のほうは、取り立ててご褒美山行ではなく、雪シーズン初めの足慣らし山行として、大同心稜から縦走した。

登山2年目での厳冬期甲斐駒ケ岳。ガイド山行での誘いだったが、もう一人の同行者は普通の無雪期状態の低山里山でさえ歩けず、転げていた。通常の山の歩行スキルが、厳冬期の甲斐駒に、まだ足りるとは、私の判断では思えなかった。体重も重い人だったので、ガイド氏と3人だと、この重い人が技術的にセカンド、私がラストになる。この人が転ぶと、後続の私はもれなく巻き込まれる可能性が高く、いくら屈強なガイド氏でも、二人分の体重をタイトロープで確保するのは無理と思われた。のでお断りした。甲斐駒には憧れていたけれども。6年目にアイスのバリエーションルートに敗退したので、リベンジとして厳冬期甲斐駒には単独登頂した。ゆとりの山行で、多くの人を追い抜いた。

冬山合宿。正月の中崎尾根は、多くの人が入り、ラッセルの山なので、先行Pがラッセルした後に運よく並べてしまったりすると、そう大変でもないが、問題は厳冬期北アで缶詰になった場合に、1週間の缶詰に耐える予備体力があるかどうか、だ。ないと判断しているので行っていない。

北岳四尾根。アルパインゼロ年目。相棒の師匠も、私の師匠も、二人のペアでは実力的に無理と言う。私自身は、まだバリエーションは経験がなく、実力の判断がつかなかった。岩場でのルートファインディングとは、どういうことか?まだ理解できなかった(今はできる)。この経験で、行ける行けないの判断が、自己決定できない山には行かなくていいってことが分かった。

冬山合宿。計画書がなく計画は数行。不安になり、師匠に相談したら、杜撰な計画にあきれていた。すでに行ったルートだったので復習山行したかったが、参加は見合わせた。結局、行かなくて良かった。特段の理由がない敗退をしていた。

広河原沢左俣。アイスの初級ルートの復習山行だったが、メンバーの技術を棚卸してみると、そのメンバーでは実力未満だと分かった。私がオールリードするのは、もう少し経験が必要だった(今はオールリードできる。)ので、山行は中止し、ゲレンデである醤油樽の滝でのリード練習に切り替えた。

醤油樽の滝。アイスのリード練習のための山行だったが、革靴の人が参加表明。醤油樽の滝は遊歩道があると言えども、極寒で知られる八ヶ岳の一部。防水性の無い革靴では、装備不足。山行は中止した。

選ばなかった山ではないが、この山行の代替えの、駐車場敗退宣言の山。読図の雪山山行。読図の山で地図無しはありえない。「地図を持ってこない人が一人でもいた時点で駐車場敗退」と宣言した。この日の山は、全くの無風なのに、行きにつけたトレースが消え、下りではルートファインディングで降りることになった。良き山行だった。

阿弥陀北稜。正確に言うと、選ばなかった山ではなく、相方の辞退で行かなかった(行けなかった)。最初から危険を感じた。アルパイン1年目で初級ルートで行きたいリストに入っていたが、2年目でも行かなかった(行けなかった)で正解。アルパイン4年目に単独で日帰りで登って充実。

白毛門。プレ山行の阿弥陀中央稜で装備不足・経験不足・判断の割れがあったため、中止。

峰の松目F8.15~6mくらいの垂直滝。弱点にリードで取り付くが足場がない。ビレイのすり合わせやリード練習そのものも不足していたため、登らず。別の弱点で1歩のドライの箇所も行けそうだったが、アイゼントレしていないのでリスクを取らず敗退にした。

錫杖。左方カンテなら行きたいと思っていた。しかし、同行者の後輩は、アルパインゼロ年目で、まだフリーもクラックもしていないので、資格不足。山行そのものを見送った。

韓国。韓国でのクライミングは、まだ私の登攀スキルが足りないということで、行かなかった。フリーは初年度だった。

■ 理解できるまで行かなくてもいい

山は、体力だけ、技術だけではない。心・技・体・知・経のバランスだ。

知とは? 

例えば、初心者にとって、アルパインへ進む場合に必要になるマージンの大きさがわからないのは普通のことだ。結局、アルパインで決して落ちないようになるということは、5級のスタンダードラインである5.9だったら、決して落ちないような登攀力がある、ということだ。それは、5.10bくらいをレッドポイント中ということ。そういう理解ができるようになることも知だ。

経験が十分でなければ、その”知”も深まって行かない。だから、どこかだけを突出して伸ばそうとしても無理なのだ。

アルパインで安全にステップアップするには、防御の技術と攻めの技術両方がバランスよく必要だ。バランス良くと言うが、どういうことか?

それが分かるまで行かなくて良い。

山は逃げない。だから、実力を十分につけて山に来ても問題はない。

■ 山は人間を試します

例えば、遠征だったりすると、今回を逃してしまえば、次に来るのにもお金がかかるし、休みを取るのは大変だし…などと、人間だから、どうしても損得勘定が働いてしまう…遭難が起こるのは、そう言うケースが多い。

けれども、そういう気持ちを乗り越えて、安全のほうを選択するということが、山に試されていることの本質なのだ。

山はそれだけシビアに私たちに決断を迫る。

山が人格形成の場、と言われるゆえんだ。

■ 大いなる存在でつながる

今、欠けているのは、

・ある山をするには資格が必要 (例:ロープが出る山をしたいなら、ビレイマスターは必修。逆に言えば、ビレイマスターする気がないなら、ロープが出る山はしてはならない)

・自ら率いるために一緒に登ってもらうのだという理解

だ。

山の人は、山でつながっている。

ほぼ知らない人のI藤さんだって、後輩の私にミックスルートってどんなものなのかを示してくれた。

私だって、ほぼ知らない人の後輩にリードへの道筋を示してあげた。

そうやって先輩が後輩を助け、ギブアンドテイクではなく、ペイフォーワードで成り立っている。

今の時代は、山ヤの同志意識…大いなる意思…でつながる人が輝く時代のようだ。

私自身は、今後は単独ではないのだから、もう少しチャレンジングな山も可能だと感じている。特にフリーではそうだ。今後はドライを頑張る予定。


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