■ 自分で自分のココロを満たすと感謝の心が湧いてくる
最近、2年前に行きたいと言い出していたルートに行く機会がやっと巡ってきて、ルートが実現した。
それで、心が満たされたためか、感謝の心が湧いてきて、寛大な心で過ごしている(笑)。
とは言っても、行った直後は、”なんか楽チンルートだったなー”とか思ってしまった。
でも、時間が経つにつれ、
・自分の登山者としての成長と、
・行く機会を与えられたこと
に考えが及び、すごく幸せな想いに包まれた。
■ 機会が巡ってこないことについて
行く機会は、なかなか巡ってこないのがルート。
それはもろもろの諸事情による。たとえば、一緒に行く人のビレイが当てにならない、とか。
一緒に行く人を半ば育てるために、苦労2年。
念のため言っておくと、今回のパートナーに対しては、ほぼ初期投資ゼロ(笑)だから、苦労はしていない。
・・・がこれが実現するまでには、何人通り過ぎたことか・・・
・・・というわけで、機会が与えられた、ということには、しみじみと運命の不思議と感謝を感じる。
■ 機会が与えられる資格
単純な技術的には、2年前でも、行くことが可能だったルートだった。まったく不可能なルートは机上にも乗らないわけだから。実現可能性が出てくる=机上の計画に載ってから2年も経つわけだ。
時間が2年もかかったのは、同行者の発掘に2年かかったからだ。
仮に2年前に行っていたら、今より、満足感があったのだろうか?
答えはノーのような気がする。
2年前に行っていたら、今のような充足感はなく、”はい次~!”となっていたのではないだろうか?
だから、2年待たされたほうが、結局は、精神的により豊かな山ライフを送ることができる。
■ キーポイントは主体性
確かに技術的内容だけを見ると、そのルートで必要な登攀力は、初心者であっても4級程度で、5級も出てくるが、ほんのちょっと。だから、行くだけなら行ける。
でも、主体性を持って行くというのと、先輩やパートナーに連れて行ってもらう、というのは違う。
実は、この山行は、先輩も一緒に行ってあげよう、と言ってくれた山だった。でも、なんだかな~と言う感じだった。
会の、その先輩とは、スケジュールの関係やなんかで、流れに流れ、2年ほど、実現しなかった・・・。のは、実現しなかったことは良いことなのだろう。結果的には良いことだった。
というのも、一緒に行ってくれようとした先輩は、きっと”連れて行ってあげよう”と思っていたと思うからだ。
でも、私が欲しいのは、”連れていてくれる先輩”ではなく、”ケツを歩いてくれる先輩”だったのだった(笑)。
子どもが、「いい~自分でやるぅ~」とダダをこねるときのようなことだ(笑)。
・・・ので、結局、自分がリードで行く、初リードの山になった。が、その方が満足度が高い。
主体性が山における充実感の大きな部分を占めるからだ。それは人生も同じではないだろうか?
そういう意味では、人生に不満がある人は、自分が主体性を持って生きているか?自分の心に一度問いかけてみてみると良いのかもしれない。
■ 幸せな人は寛容な人
ハッキリ言って、山としてみると、他人に自慢できるような山ではない。
つまり、ドヤ顔できるルートなんかではない。
でも、幸福感に包まれ、このルートに行ったことで、他の人に対して寛大な心になることができる・・・
何でも許せそうなのは、自分の心が満たされているからだ。
逆に言えば、少しの他人の過ちが許せない=あまり幸せでない人、と言うことなのだろう。
はじめまして。全部のページがためになります。このページはとくに心に響きました。
ReplyDelete