Sunday, November 19, 2017

読了・ベック・ウェザースの『生還』

今日は、冬が来た!と思える寒い日でした♪ 

ヒマラヤ関係の遭難について、ふと、少々復習したいと思い、ベック・ウェザーズの『生還』を読了しました。

ヒマラヤは、山ヤにとって、煩悩なエリアでもあり、最後の秘境でもあり、取り扱いにデリケートさが必要だからです。

日本では、ヒマラヤに登ったと言えば、水戸黄門の印籠みたいな効き目が一般人に対してはありますが、情報によると、ヒマラヤはヒマラヤでも、色々あるそうです。

例:

ゴーキョピーク(5360メートル)
ロッジから標高差600メートル程度。往復3時間程度。無雪期の日本の森林限界を越える程度の山です。現地感覚だと丘。

1977年に2年前にエベレスト南西壁を初登攀した、当時世界最強チームのイギリスのクリス・ボニントン隊。再登は、アレックスとトーマスのフーバー兄弟と、この間亡くなったヘディン・ケネディ達です。以降再登なし。

ラトック山群Ⅰ峰:1979年に重廣重夫氏たちが登って以来再登無しの難峰。

■ 遭難につながる山、つながらない山

まぁ、エベレストが登頂者700人の山であるのは周知として、それでも遭難者はいるわけなので…

  問い:遭難につながる山とつながらない山の差はなんだろうか?

これは山ヤは誰でも、答えをわかっていると思いますが…一応。

  山を征服したい!セブンサミッターと呼ばれたい!栄誉が欲しい!

ということが、やっぱり遭難の第一の動機、ということが書いてありました。

■ ”自分との闘い”というけれども

一方で、”山は自分との闘い”、という言葉もあります。この言葉は、たいがいは正しい用法で使われますが、そうでない詭弁の場合もあります。

トレーニング、肉体的な苦難に打ち勝つという意味で、自分と戦っているのは、その通りではありますが…要するにジョギングしていて苦しくなった時すぐやめないこととの、超シビアバージョンです。…が、すでにガイドに頼っている時点で、自分の限界を受け入れる、ということを拒否しているわけです。

もし本当に自分と向き合っていたら、自分のチカラで登れる山の限界をおのずと受け入れ、それをあげていく、ということになったでしょう。

ちなみに山ヤの世界では、ガイドレスでないと自分の山ではない、というのは、だれもが分かっています。

だから、本当は、そういう山ではなく、一から自分で積み上げる山の良さを教えるためにガイドが存在するのだと思うのですが、今の時代は登頂請負人、みたいになっています。

あ、苦言になってしまいました、すいません。

■ 山ヤは山に行かなくて良くなった時が完成、なのでは…

私が思うには、山ヤさんという人種は、バイタリティが余り過ぎている人たち、なのです。

人間は、”生きて、食べれて、寝れて、天井があれば、あとは万事オッケー”、ということを学びに行くのが山、なのですが、実は下界でも同じことなのです。

ただ下界だと、その辺が分かりにくい。

山のように、電気ありません、水道ありません、家もテントか雪洞です、みたいな状況に、人為的に追い込まれないと、”ああ、生きているっていいことだなぁ”、ということが現代生活ではわかりづらいでしょう。

特に鬱になるような人はそうなのかもしれません。賢すぎる人が鬱になると思うのです。複雑に考えすぎちゃうんでしょうかね。

だから、山に行く。それはその人のエネルギーの、余り具合によって、どんな山に行くのかが決まると思うのですが… ベックさんの場合は、それが公募とはいえ、エベレストだったということなのです。職業もお医者さんですから、だいぶバイタリティ、余ってました(笑)。

ベックの満たされない心は、山で満たされ、だから山に行き続けたのですが、もともとのバイタリティが大きいので、成長し続けていくと、エベレストしかなかったんですね。

私は去年のアイスシーズンで、ある時、すっかり心満ちて、もう山に行かなくても、満たされてます、みたいな心境になったんですけど…。

以前は、山恋い、山煩いみたいな時期がありました。1か月も行かないでいると、なんだかそわそわ… なので、行ける機会はすべてつかんでいました。

山に行くことを辞められないとき、それは、まだ成長の、のりしろがある、まだ上に行ける、という実感や探求心があるからでした。

十分、のびのびと成長したら、満足しました。

それには週に2回、1シーズン35回もアイスに行かなくちゃならなかった(笑)。私の場合は、です。

想像するに、ベックさんの満腹、はエベレストまで来なかったんでしょうね。

■ 家庭不和

ベックさんは、そういう風に山を突き詰めていく中で、家庭不和に陥ります。家庭をないがしろにして、山に突っ走ったのだそうです。

そういう背景があるにもかかわらず、遭難で、救命作戦に奔走したのは奥さんであり、それは家族の在り方として正しい愛の在り方だと思いました。窮地に陥った時に助けてくれる人が真の友人です。人生のパートナーなら、なおさら。

なので、これは夫婦に起きた試練ということでした。

結局、ベックさんが得た至福というのは、やはり、思った通りで、日常の些細なことにも神を見、感謝できる、ということでした。

多くの、生死をさまようような出来事からの生還者は、同じように語ります。幸せは実はそこにすでにいつもあったのだと。ただ生きているだけで、いいんだと。

多分、それに気が付くことが、一番難しいことなのです。

それにエベレストへ行くことが必要な人もいるし、手首から下を凍傷で失うという代償が必要な人もいるし、途中で命を落とす人もいるということです。

だから、市井の聖人は、普通に生きているだけで、幸せいっぱいな人です。

決して、お金持ちや、何かを目指している人や、競争社会の勝者、あるいはよく言う、勝ち組などではなく…。

どんな小さな里山でも、それがちゃんと自分の足で歩いた山ならば、大なり小なり、同じメッセージが込められていると思います。

それは、ブラフマムフルタ、宇宙の叡智がみなぎる時間と言われていますが、その時間帯にあふれているもの、と多分同じと思うのですが…。つまりは、早起きさえできれば、山まで行かなくても、触れることができるもののような気もします。

同じものを味わうのに、肉体を酷使する必要がある個体もいる、ということなのかなぁ。






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