Wednesday, November 22, 2017

『荒野へ!』

■ 『荒野へ!』読了

これは、1996年のエベレスト大量遭難に立ち会ったジャーナリスト、ジョン・クラカワーのノンフィクション、Into the wildです。

アラスカの荒野に出かけて餓死した青年の話。若者の思慮の浅さを理解したい…というのが読んだ動機です。

が、ここに描かれている若者は、ここ数日前に阿弥陀の北西稜の途中らへんで、登ったものの降りれなくなり、ヘリで救助された、浅はかな若者とは、全く違うようでした…。

さしづめ、ベック・ウェザーズの『生還』が、山煩悩を極めて(=エベレストに登り)、死ぬギリギリ間際で、解脱した話だとすると、こちらの『荒野』は、現代の出家者の若者が、本当に出家して、即身成仏(=餓死)しまった話でした。

この彼は、”出家”にふさわしい”荒野”が地図上のどこにもないと知ると、なんと地図自体を捨ててしまったのです。なので、登山者の目で見ると、地図さえあれば、いくらでも助けを求めうる地理的条件の場所にいながら、彼は、究極の隔絶された場所にいたわけです。

阿弥陀のヘリレスキューの若者は、レスキューに行った人の話によると、”ジャングルジムで降りれなくった子供と同じ”という状態の、本当にお粗末な事件なわけですが、この荒野へ!の彼も、退路を断たなければ、本当のピンチの時に助けを求めることができたであろうという点で、同じです。(動機の高貴さが違いますが。)

■ 解脱?プロセスの疑似体験=山

山に登っていて人生を重ね合わせない人がいるのだろうかと思います。

山というのは、人生の縮図的というか、(努力することを覚える)→ (達成感や、名誉欲・自己顕示欲にとらわれて頑張る) → (心打たれる) → (結局は、どんな小さなことにも感謝できることが大事と知る) という人生サイクルが、超特急というか、ミニチュアレベルで体験できる機会だと思うのです。

山頂を極めるという活動は、成功を求めて日々努力するというのと同じことです。成功が山頂、そして、下山…登りより、下りが難しいことなど、大変、示唆に富んでいます。

これは一つの山、一つの山行だけのことですが、山ヤ人生というものも同じで、山の難易度自体を少しづつステップアップさせていきますから、そこは、やはり、人生を少しづつ前に進めていく、ということと相似形です。

なぜ、上を目指さないといけないのか?

それは単純に、人は成長をするように設計されているから、です。アルジェナは、なぜ戦わないといけないのかと問うたのですが、それは、やはり、ダルマを遂行することが、人としての生き方の本質だからです。商人に生まれたら商人として生き、芸術家に生まれたら、芸術家として生きなくてはならないです。

というわけで、人は成長することが基本ですが、それは、山頂へたどり着こうとするよりも、そのプロセスを味わうことで学ぶ、学びのほうが大事です。山頂へたどり着くことばかりを考えていると、途中の景色の美しさを見るのを忘れるからです。

何を成し遂げたかよりも、どう生きたかのほうが大事。

でも、そこを学ぶのが大変長い道のりなんですよね。 

そういうことを山ではいつも考えています(笑)。

ヨガとも似ていると思うのですが…。




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