■ 山ヤと自然回帰
昨日は、グレートヒマラヤトレイルの報告を聞きました。
山の価値観にはいくつかあり、未知→高さ→困難と価値観が変遷してきたわけですが…。
(苦言になりますが、現代の一般登山は、山を開発して、自然を非自然化する方向に発達しており、結果として、自然の中にいても、自然ではないことになっています。せめて山小屋を使わず、テントで行くのが山ヤたるものの忸怩、というものでしょう)
現代では、世界中が冒険されつくされてしまい、人類にとっての未踏の地というのはないのです。が、その中でも、未開の要素が強いところ…都市の対極…は、第三国です。あまり、開発されていない国ってことです。なので、例えば、ヨーロッパのような、高度に都市化されたところより、そうでないネパールなどのほうが、当然ではありますが、より自然度が高く、食料を持っていくなどの苦労が、価値につながります。
が、グレートヒマラヤトレイルなどは、行く期間の長さによっては、道端の草も食べないといけないらしい…(笑)。イラクサのカレーと言えば聞こえはいいですが…(笑)。
日本でいうところの、摘み草料理みたいな感じですね。なので、こうした山行というのは、本質的に、
人間そのものの生きる力、原始的なところで生き伸びる力が試される、
ということでした。
どこでも寝れて
なんでも食べれて
自分の道を切り開ける
悪条件に耐えれる
ということが、基本的には人間の底力、というものみたいです。
山行報告の中で、最も素晴らしかったのが、この報告でした。
が、だれも後に続こう!という人がいないのが印象的でした(笑)
なかなか、文明をそぎ落として生きていくのは、つまり、シンプルに生きるのは、方向性として、かなりとることが難しい選択肢なのだということです。できることから、スタートしていこうと思いました。
ご興味ある人は、こちら。https://mainichi.jp/articles/20170527/ddl/k40/040/535000c
■ 山のある生活
山をしていて、こんなきれいな地球に住めることの幸運を思うわけですが…単純にシンプルに自然の中に、たたずむ喜びだけに、ひたひたることが、本当に貴重な、無垢な時間なのだということが、わかるのは、登山も、だいぶ高じてからかもしれません。
未知なる場所というのは、人類にとってはなくなりましたが、個人には無数に残っています。知らないところへ行くと、人は成長します。したがって、成長の場所はいくらでもある。
高い場所を求める必要は、個人的充足には、ほとんどないです。薄い酸素に耐えること、は、少ない資源で生きること、につながりはしますが、現代では、酸素ボンベを持っていく山が主体です。そうすると、大掛かりな装置が必要なので、そのようなことをしてまで登らなくていい。そうまでしてしたいというのは、もはや煩悩となるのだ、ということが報告を聞いてわかりました。まぁ登山史をたどる旅と思うべきです。
困難については、ワールドカップの選手でもない限り、自分の喜びとなる程度の困難の追及でないと…!登るために生きるようになるとよくないですね。
大事なことは、結果への執着を手放し、調和的なライフスタイルを築くことだと思います。
■ 調和的ライフスタイル
そういう風に思うのは、私だけの結論ではなく、おそらく、多くの山ヤが出す結論なのだと思います。
人にはそれぞれ、その人に適したスキルレベルがあるので…私の登山におけるスキルレベルは、1,2年で市井の一般登山者のスキルレベルを超えましたが、山岳会に入っているような、山やさんたちのスキルレベルとすると、まだ駆け出しです。
が、これを上げる必要は…ないかもしれません。
5.12を登るスキルは、現代の若い男性クライマーでは珍しいことではないですが、私の登りたい雪の山に、必要となるレベルでもないでしょう。5.12と40kgの歩荷は、大学山岳部ならできていなくてはなりません。
5.11を登るのは、山やとしては最低レベルへの到達、と思うので、頑張ろうとは思いますが、急ぐ理由はどこにもないかも…。11まで行けたら、あとは、そう上に行く必要もないですが、11は、一度は通っておきたい場所です。まぁ今でもトップロープなら、5.11Aは登ったことがありますが、まぐれでは残念ですしね。取り組みとして、5.11は一定のスキルということが言えます。
そういう風に思うので、なんとなく、肩の荷が下りた報告会でした。
というのは、正直、山やとしての成長は、こちらでは減速せざるを得ないからです。しかし、2、3の山に行ってみて、まぁ、あまり停滞でもないと思いました。山はいくらでもありますしね!
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