Saturday, July 15, 2017

ハイコンテキスト文化、ローコンテキスト文化

■ 異文化理解力

コンテキストという言葉は、日本語では訳しづらい。文脈という意味だ。

日本語で文脈と言っても、意味が通じづらい。要するに話の流れで、言葉の意味が変わるということ。

いわゆる行間を読む、という文化は、ハイコンテキスト文化。言葉の意味を文面通り採用するという文化はローコンテキスト文化。

日本語は、典型的なハイコンテキスト文化であり、言葉少なに、その間に隠された意味を読む。

一方、アメリカ文化は世界でもっともローコンテキストであり、物事をはっきり言う。これは移民が多く、多文化社会の中では誤解を最小限にするには、そうする必要があるためだ。

これらの知識は、最近友人に贈られた『異文化理解力』という本にあった。まだ読みだしたところだ。

■ ハイコンテキストなクライミングの世界

さて、なぜクライミングのブログに、このような文化論を登場させたのか?というと、アルパイン・クライミングの世界と言うのは、典型的なハイコンテキストの文化だろうと思うからだ。

だから新人は戸惑う。 ”なにか聞いてもいないこと”が、分かっていて当然になっている。

よく「新人は分かっていないことが分かっていない」と表現される。

■ ハイコンテキスト事例

ハイコンテキストということの事例は、「この人のロープワークは安心できない」と内心思えば、そっと別の支点にセルフをもう一点取る。 私もそうする。が、「そうしろ」と教えられたわけではない。

ビレイを見て、ダメビレイだと思えば、次回から誘わない。後進として育てたいと希望している場合だけ、改善するように指摘する。逆に言えば、間違いを指摘してくれる、ということは、パートナーとして目されているということだ。

後進を岩場に連れて行く。その子が再度、自分の力で復習山行しているか、どうか見る。言動一致をみるのだ。もちろん、連れて行く場所は一人でも裏から回って、トップロープが張れるような場所にしてあげる。それは先輩の親心であり、熱意を見るための試験だ。

が、そこまでしても、当人が復習山行しない場合は、クライマー向きではないと判断する。依存心が強い人にはクライミングは向かないからだ。

例えば、ビレイをマスターしないと岩場に連れてもいけない、とか、読図はマスターしてきてくれないと何かが起こった時に、伝令程度でも走れないとか、アプローチまでどう歩くのか、予習して来るかどうかとか、そういうことは、誰も言わないが、やってきて当然のマナーとなっている。

ハイコンテキスト文化の際たるものとして、

「あいつはアブナイクライマーだ」
「一緒に行くと殺されるかもしれないぞ」
「彼は、ビレイが信用できず、人が落とされて大けがした実績がある」

など誰も指摘しない。単に、悪いことは言わない文化、ということがある。

そうしたことは、すべて、察知しなくてはならない。

■ ローコンテキストな人々

一方、私が思うには、年輩者より若い人の方が西洋化の度合いが著しく、西洋化しているということは、ローコンテキスト化しているということだ。

年輩者にとっては、言われなくても分かったことが、若い人に言われなくては分からない。

これは、田舎生活者と都会生活者にも当てはまる。文化的多様性の低い場所に長年住む人々は、一般に、”言わなくても分かる”ということを前提としてコミュニケーションする。わざわざ言葉にしなくても、自分も、父も、祖父も、そのまたおじいさんも、事情がほぼ同じだからだ。皆の人生が似たり寄ったりということもある。

都会生活者からすると、様々な生活スタイルがあり、様々な価値観、人生、従って人によって事情が色々だと言うことは、当然のことなので、都会で生活することが長い人は、ステレオタイプによる決めつけ、をしなくなるだろう。

これくらいの年齢なら子供がいて当然とか、働いていて当然とか、お金を持っていて当然とか、そういう思い込みが当てはまらないほうが多いからだ。

そういうわけで、都会のクライマーなら基本的には、ローコンテキストであり、バディを組み始めた最初に、「クラミング歴は何年か」「今どれくらいのグレードを登るのか」「どこの岩場が好きか」「ビレイをするときはクリップ時に声を掛けるね」「もう少し壁に寄ってくれないかな」など、互いの事情のすり合わせが自然とはじまる。

一方、均質文化にいた人たちには、それが始まらない。

間違いを指摘される=関係の終わり、となることが多い。

したがって、古い体質の山岳会では、根回しや文脈を読む人間関係力が必要になる。特に、非都会エリアでの、古い体質の山岳会なら、なおさらだろう…

私がいた会では、先輩は、私を初めてのバリエーション前穂北尾根に連れて行ってくれるために、色々と政治的な根回しをしなくてはならなかったようである。

そういう苦労は、都会生活者には、想像もよらない。若い人にも想像もよらない。

それは、ハイコンテキスト文化とローコンテキスト文化の文化差なのだ。

そう言う風に思うことで、だいぶ色々なことが、説明をつけやすくなる。

説明できると言うことは、明るみに出るということであり、透明性が増すということだ。

この差が私がラオスで伸び伸びとクライミングできた理由だろう。日本のハイコンテキスト文化に、アメリカ慣れしている私は単に合わないのだ。

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