Tuesday, June 7, 2016

読了 『オオカミがいないとなぜうさぎが滅びるのか?』

■ 生態系の本

『オオカミがいないとなぜうさぎが滅びるのか?』と題される本を読んだ。


面白かったという感想を聞いたからだ。

■ 驚いた!

読んでみると、生態系についての、あるいは人類の帰し方行く末についての、バランスのとれた意見が書いてある本だった。

ただ、この本、どうしてオオカミがいないとなぜうさぎが滅びるのか?については、なんど見返しても書いていない・・・(汗)

私は週に10冊くらい本を読む。読み方はこうだ。

 1)タイトルを頭に入れる タイトルはつまり、本の究極の要約であることが定石だからだ。

 2)目次を読む 目次から大体の内容を推測する

 3)推測と異なる箇所を読む

まず1冊の本の全体像を入れてから、読むのがコツで、最初から最後まで順繰りに読む、という読み方は、小説を読むときなどには向いているが、例えば卒論を書くには向かない。

それで、ともかく、「答えがかいてないな」ということで、アマゾンの書評を見たわけだ。

すると・・・この本の酷評がズラリ(笑)。 驚いた。

■ イエローストーンの成功

基本的にオオカミ導入論は根強い。イエローストーンでの成功例が後押ししているようだ。

でも、イエローストーンでの1成功例をもって、他にも適用できると考えるのは、人間の短視眼でしかないだろう。

まぁ、この本、実際、オオカミ導入論については、

「日本中の鹿を押さえようと思ったら、何頭オオカミが必要だと思うんだ!」

という単純な言葉で一括却下している・・・。まぁ、私自身はオオカミ導入論には反対だから、いいのだけれど。(反対の理由は違う。)

なんとも大雑把だなという感じが否めないし、この本はむしろ生態系概論的な、生物多様性の講座でも大学で取っている人が副読書で読んだらいいような内容だった。

■ 自然にとっては人間は必要ではない

山に行くと、人間のちっぽけさを感じる。感じない人はいないだろう・・・。

人間がどうこうして、自然をコントロールしようなどと、そう思うこと自体が、傲慢なのだ・・・そう思わない人はいないのではないだろうか?

・・・結局、人間には自然が必要だが、自然には人間は必要ない。

人間は自然に依存しており、自立していない。自然は人間から完全に自立している。

■ 自然は常に正しく、人間は常に間違いを多く含む

ので、自然が起こしていることは、すべて正しい。起こるべくして起こることしか起らない。

一方、人間の側は、自分がした行い(例:オオカミ根絶)が、どういう結果になるのか?の因果関係について、まったく乏しい知見しかもたない。

人間は、原子力廃棄物を貯め続けることはできるが、それらが自分たちにどういう結果を与えるのか、全体像を理解できない。

人間は、巨大ダムの影響を完全には理解できない。

人間は、治水の影響を完全には理解できない。

ので、結局、やってしまった後で(原因)、こまったね~どうしようかね~と言うことになっている。

でも、前提は変わらない。自然は正しいことしか起こさず、人間の方が間違う。

■ 人間には理解できない

まぁその自然が起こした正しいこと、が人間の都合に悪い、ってのが基本的問題なんだが(笑)。

じゃ、原因と結果の因果関係が分かっていないことは、やらなければいいのでは?

と誰だって思う。(でしょう?)

思うんだが、人類の歴史は基本的に、

”原因と結果の因果関係が分かってないんだけど、作っちゃった”、という、基本、”できちゃった婚”みたいな路線で成り立っている。

やってみて、”えーい、ままよ”と行い、”あれ~どうする~?”というのが基本だ。

まぁ、そうでなくては、世界地図も作られなかったし、飛行機は飛ばなかったし、月へも行っていない。

そうでなくては、いまだに人類は、地球の周りを星が回っていると考えていたかもしれない。

■ いらんことしたね

でもまぁ、オオカミに関しては、いらんことしたね~というのは明らかだろう。

でも、もう日本にはオオカミはいない。だから、元の状態には戻せない。

ついでに言えば、元に戻さないのであれば、結果がどうなるかは、またまた人間の理解の範疇外である。

ブラックバスが日本の魚を駆逐したみたいになるのか?それも分からない。

ワカラナイのであれば、やらない方がいいのでは?というのが、私の意見だ。

でも、一方で、やりたい人がやりたければ、やればいいのでは?とも思う。

そんなことに時間を使って口角に泡を飛ばしている時間の方が無駄だ。

どっちに転んでも、自然は自然であり、偉大である。

■ 分からないことを巡って争う

自然に関しては、人間には分からないことが多い。

昔の山の本を読むと、うさぎがたくさんいて、迷惑がられている。昔の山は、禿げ山で、野原が多かったから、うさぎが多かった。今は森になってしまって、家がなく、うさぎは減った。森林蓄積は戦後最大だ。

社会的にみると、うさぎについて文句を言うか、鹿について文句をいうか、どちらも大差ないかもしれない。

森林蓄積については戦後最大だ。自然保護活動家は木を植えろと言う・・・。もう戦後最大なんですけど?




■ 結局、私欲?

というわけで、この分野は、結構、水掛け論が多い。ので、あんまりどうすべきか?を議論しても仕方がない。

鹿が増えて何が困るのか? 

高山植物が食い荒らされて困るなら、高山植物のほうを保護すればよい。

原因である鹿をたたいていたら、因果関係が分からないので、他に被害が出るのだから。

実際、何が損失なのか?と考え、損失を最小化するほうが、原因をたたいて、新たな問題を作り出すより良い。

なにより、これは自然界のやり方に似ている。殺虫剤がまかれれば、耐性を付ける。対症療法だ。

■ 根本的解決は人類がいなくなることなんですが・・・

そもそも、なぜ人類は、自然と対峙した時だけ、根本的解決を求めるのだろう?

もしかして、根本的に改めなくてはいけないのは、人類自体の存在かもしれないのに?

■ ヨガの教え

というわけで、環境問題やエコロジー、生物多様性については、徒労感が否めない。

んだが、ヨガではそれでも、アルジェナに戦えと言っている。

何が正しいかとか、誰が正しいかとか、やりあうのは一種の戦いだ。

というので、やりあったらいいのだけど、議論の土台がみなマチマチだから、まるで違う言語をしゃべっているように議論はまとまらない。

ということは、こうしたことを考えることが他の余計なこと・・・たとえば、”浮気したい”とか・・・を考えないで済むように議題が提供されている、と言う程度のことなのかもしれない。

考えてみれば、浮気したい、浮気したいと頭でグルグルしている人が、実際に踏み切ってしまって起こす人生への影響と、オオカミを導入すべきだと言って隣の人と喧嘩でもしている人の人生への影響は比較にならないはずだからだ。

最後はシニカルな締めになりましたね~ すみません。

まぁオオカミ議論を吹っかけてくるおじさんのほうがましと言う話です。

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