Sunday, June 5, 2016

登山のリスク判断について易しく解説できるかチャレンジしてみました

■ 遭難をなくすには?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 一度経験した山での事象から、次に起こり得ることを予測すること。

 さらに対応する手段を想像すること。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これはどういうことでしょうか?

この言葉は、大変難しく、抽象化されています。

一般原則として、言葉にまとめると、抽象化せざるをえません。

これを理解して、自分の山に適用するのは、現代の人にはむずかしいのかもしれません。

■ 具体例で考えましょう その①

例えば、Aさんと一度山を歩いたとき、

 標高差750mを一日8時間では歩けなかった

という ”事象” があるとしましょう。

 ”Aさんは、標準コースタイムで歩ける足がない” と結論できるでしょうか?証拠が不十分です。

しかし、X山も、Y山も、Z山も、Aさんが標準コースタイムで歩けていないとすれば?

 ”Aさんは、標準コースタイムで歩ける足がない” 

というのは予想できる事実です。これには、帰納法を使っています。

■ 〇△□山のリスクを判断するには?

では、標高差1500mの〇△□山をAさんは、日暮前に歩けるでしょうか?

それは厳しいということが分かります。

これには、演繹法を使います。

Aさんは、X山も、Y山も、Z山も標準コースタイムで歩けない、しかるに、〇△□山も歩けない。

■ 対策を考える

では、Aさんが、〇△□山を安全に歩くにはどうしたらよいでしょうか?

  1泊二日なおかつ早立ち もしくは 2泊3日

が必要です。2泊にすると、荷物が増えて重くなるので歩くのはさらに遅くなります。

一方、1泊二日にすると、早立ちができないと時間内に歩きとおせません。

とすると、標高差1500mの〇△□山ではなく、標高差1200mの△△△山を1泊二日とすると、歩きとおせる見込みがでることになります。 一日当たりの標高差が600m程度だからです。

■ 帰納法+演繹方

山のリスクを判断するには、1つの山の経験から、帰納法を用いて、推論を行い、得た推論を次の山に行くときは、演繹法で適用しないといけません。

簡単にいうと、

 「1を聞いて10を知る」

ということです。

推論と言うのは、人によってブレがあります。事実でないことを推論の根拠にする人もいます。

例えば、Aさんが信心深いとします。X山では、お守りをもっていなかった、Y山でもお守りをもっていなかった、〇△□山のときは持っていく、だから大丈夫、などです。

このように、推論の根拠に、とんでもないものを持ってくると、得られる推論はゆがみます。

■ 少し複雑な事例 その②

これは私が体験した事例です。

(事象1)
A沢に行った時です。「1級の沢だからロープはイラナイ」と判断し、山行計画者のSさんは、ロープを用意していませんでした。

(事象2)
Sさんは、私が彼をジョウゴ沢のアイス・クライミングに誘った時も、共同装備としてロープを指定したにも関わらず、持ってきていませんでした。ビーコンは購入して持参したにも関わらずです。

この行為の根基にある思想は何でしょうか?(帰納法適用) 

(推論1) Sさんは、易しければロープを付けなくて良いと考えているのではないか?

さて、ここから、演繹法です。

この誤解を私が解いてやれるか?やれません。実際すでにミスは指摘していますが、直していないことから、事実として浮上しています。

となると、私ができることはSさんのミスをカバーすることだけです。実際、2度とも、私が個人所有のロープを持参して、Sさんのミスをカバーしています。 

Sさんの、この考え違いが正される可能性があるか?というと不可能です。

なぜなら、Sさんへアドバイスできる立場の者が、アドバイスを与えることを拒んでいるという別の事象があるからです。 (事象)

おそらく、私が彼のミスをカバーしてやっているということ自体も、気が付いていないでしょう・・・。(推論)
ということは、どういうことか?(帰納法)

私はSさんと登る限り、易しいからロープイラナイよね、という思想の中で、永遠に登らなくてはならなくなります。また、永遠にSさんのミスをカバーし続けなくてはならなくなります。

■ 個人の判断の領域

したがって、私はSさんと登るべきか登らざるべきか?

ここからは、個人の選択の問題です。

・Sさんは、毎回ミスをカバーしてやっても良いほど、魅力的な登山者である YES/NO

・ミスをカバーしてやれなかったときに、自分自身に死などの不利益があっても、Sさんと山に行きたい YES/NO

これらが個人に問われる問いになります(笑)

私には、どちらも Noでした。 YESになるほどの山ヤっているんですかね???

■ 具体例3

あるパーティで、暗くなってしまった時に、ずいぶん、しりもちをつく人がいました。

おそらく、老眼が始まると、目が見えず、普段の脚力が発揮できないのでしょう・・・

この場合、午後遅い時間帯、ヘッデンでの下山などを避けるべきです。ということは、”1を聞いて10を知る”というほどの大きな知的チャレンジではないでしょう。誰だって分かります。

しかし、この方は、暗くなってからの山歩きを繰り返した前歴があるのだそうです。私と歩いたときも、暗くなるのを分かっていて、秋山の稜線に14時でもなかなか下山開始せず、焦らさせれました。

分かっちゃいるけどやめられない~という人は、山ではダメです・・・

 ・危ない、危ないと言われると面白くない

 ・下山遅れは、山行の失敗ではない

 ・分かっちゃいるけど、やっぱり、暗闇で歩くスリルを楽しみたい 

は、感情論です。 人間は感情の生き物ですから、感情が大事であることは私も否定しません。

しかし、(重大事故で死ぬこと)と、(感情)を天秤に掛けたら、(感情)という些細な価値を大事にして、より(大事な命)を落としたくないですね。感情とは一時のものです。

ちっぽけな何かのために、大事な命を落とすことを、犬死、と言います。

犬死したいか?したくないか?

は、個人の価値観の問題です。生死は個人の生き方そのものです。

最後は、結局は、このように個人の選択の問題です。

したがって、個人の選択の問題であるからには、他人が敷いたレールの上しか歩いたことのないような人にとっては、選択肢に直面すること、そのものが厳しいものです。

あなたはどうしますか?という問いに、皆さんと合わせます、リーダーに一任します、という答えは、完全なる自己責任の放棄です。

山は自己責任、ですから、自己責任を放棄する人には、そもそも登山はあまりあっている活動とは言えません。

人のふんどしで相撲を取るような登山が面白いのは、初心者の1回目の山だけです。

登山の面白さは、自分でリスクを引き受け、引き受けられるリスクの量がどれくらいか、自分で慎重に判断し、なおかつ、それが成立する、と言うことにあります。

最後は期せずして、登山論になってしまいました・・・(^^;)

登山でのリスク回避について、考える力がどれほど大事かということが、分かりやすく解説できていると良いのですが・・・。



No comments:

Post a Comment