■30~50代の居場所
先日のナビゲーションとリスクマネジメント講習は、軽いカルチャーショックでもあった。
いわゆる地域山岳会というところにいる人種とは全く異なる人たちの集まりだったからだ。一般に山岳会は、高齢化している。
もちろん、会には色々な人がいて良いのだが、現実には、”いろいろな人”に、35~50代は基本”含まれていない”。主体となっているのは60代である。
一方、講習に出ていた人たちは、その、ずばり会にはいない年齢層だった。ここにいたのか! とそんな感じ・・・。
集まっている人たちのメインの活動の内容は、トレイルランニングであり、トレランの場合、基本的には、通常の山は、大会のための練習という位置づけのようだった。
オリエンテーリングとロゲイニングは、ほぼ同意義に使っていいような言葉らしいが、オリエンテーリングは、基本的には、競技であり、点数をつけて、順位を競う。
登山の世界には、基本的に競争を嫌う、という文化風土があるので、競争を嫌わない文化風土と、そこに居る人たちのさわやかさが印象的だった。
競争がある世界の方が、ない世界よりも、なんだかさっぱりさわやかだった・・・。ルールが明文化されていない世界だから、誰にも分かる客観的な凄さの指標がなく、そのある意味”分からなさ”に付け込んだ心から、粘着質な競争が生まれるのかもしれない。
具体的に言うと、後立の山に登っているのに、「槍が槍が」となぜか槍に登った話を聞いてもいないのにしてくるような、おばさんやおじさんがいっぱいいる。
あるいは、とある山の山頂で「おたく何個目?」と聞かれる。
ある種の健全性というか、スポーツらしい、さわやかさというか、そういうものが保たれていて、それが新鮮であったのだが、それほどまでに、山の世界は本当におかしくなって、末期症状ってところなんだろうな~と改めて、思ってしまった。
2万5千の地図をどこで買うかさえも知りもしないのに、道のない雪山に当然のように行きたがる、というような、面食らう話は起きそうもない。
というわけで、精神衛生に悪そうなことは、あまり起きなさそうな、文化土台にそもそもありそうだった。ので、なんとなく文化的に好感が持てた。
■ 平地の地図読み、起伏地の地図読み
ただ、登山では尾根と谷、ピークとコル以外あまり地図読みを重視しないので、その他のごく些細な点について、読み込むということが、虫の目的で、それにも新鮮さを覚えた。
例えば、コルというのは、私には明瞭で、コルへ向かうとすれば、その他のことはあまり深く考えない。
コルから降りて、地図上にない道(作業道)があったのだが、それも、現在地が確実でなくてもあまり気にならない。たぶん、ここかここのどちらか、くらいにしか特定しない。ひとつには道なんて、地図上にあったりなかったりするし、地形の明瞭なところにでたら、分かるからで、確実に分からないと進まない、ということはない。不確実性を含みながら進んでも、あまり問題にはならない。もちろん、フェールセーフと言うような間違ったとしても死には至らない、という安全網がある、という設定での話だが。
のだが、植生の記号までみて、現在地を特定する要件を得ようとする姿勢には感動した。植生は山行程度にしかしないし、歩測と言って、歩数で距離を測るのも、登山では、あんまり知られている方法でなく、登山ではあと標高差何メートルか?のほうがよっぽど重要だからだ。
登山では、主に起伏を参考にするので、平地のオリエンテーリングと、起伏地のオリエンテーリングは、だいぶ緻密さで違いが出るのだと思った。
もちろん、ち密さが必要なのは、平地のほうで、起伏がある場所の地図読みは、基本的には易しいほうに入るのだ、ということを実感した。
登山で地図読みをするのは、本来は易しいこと、だったのだ。登山で地図読みしていると、登山の地図読みが至高価値になってしまうけれど、尾根と谷だけではない世界もあるのだ。
■ 走れなくては
登山では、歩けなくちゃ話にならない、というのは、当然なのだが、逆に言えば、歩けさえすればよいとも言える。
オリエンテーリングは、そういう意味では、走れなくては話にならない、ようだ。
走る=早い。
当然のことだ。走れば、早い。
スピードを登山に求めるようになってきたので、山で走るのもいいのかも~と最近は思わないでもないのだが、走る人種と歩く人種では、ものすごく人種が違う、ということもまた事実。
走る人種は、山に関する山屋が持っているロマンティックな想いは持っていなそうな気がした・・・山へ対する畏敬の念、とかそういうものだ。
■ 山をトータルで理解しようとすること
でもやっぱり、山のなんたるかを知っている、のは、山とななんたるかを知ろうとして山に取り組んでいる山ヤのほうであるように思えた。
いわゆる山の持つ固有の危険だ。山と言うのは、森林限界以上の場所での行動について、ということだが。
夏山では午後2時以降は森林限界以上にいない、とか、暗くなる前に山を下りるべき、とか、そういう話なんだが、そうした山での行動様式については、やはりトレランの人たちは、大会で、スタッフに見守られながらの山しか知らないという気持ちの上の負い目もあってか、山を知らないと謙虚に感じているようだった。
知らないと思っているくらいのほうが知っていると思っているより、安全かもしれないのだが、山を知るために山に入るという思考はないのかもしれない。
ただ安全とは何かを知るために危険を冒すというようなことは良くないので、安全に山を知るということを考えると、やっぱり普通に一般登山(無雪期のピークハントで経験を積むということ)になってしまう・・・とトレランの人たちは退屈してしまうだろうな~と思う。体力はそこらへんの登山者より、上なのではないか?と思うからだ。
まして、大会参加者なら特に。
トレランの人たちは、山の人たちが、「〇〇山、登った?」と話すのと同じ調子で、「〇〇という大会でた?」と声を掛け合う。
大会は誰かに開催されなければ、参加もできないが、ただ山に行くだけなら、誰が何を主催しなくても、いつでも山はそこにある。
ただそこにある自然、そこにある山に人間の側が勝手にルールを決め、勝手にそれを課題として、勝手に達成して、達成感や自己満足に浸る。
遊びである・自己満足である、という意味では、どちらも同じなのだな~と思う。ルールが集団で明瞭かされている大会とルールが個人の元にあり、どう登ろうと個人次第の登山。
そういう風に考えると、登山と言うのは、そもそも ”個”とソリが合うものなのかもしれない。