宮城さんの外道クライマーを読み終わった。
面白かった。
■ やんちゃだった弟
このところ、なぜか2歳下だった弟(既に他界)のことをよく思い出す。男の子はやんちゃだ。
弟は小さいころから、生傷が絶えなかった。
まずは、定番で赤ちゃんの頃、縁側から落ちて怪我をした。ロッキングチェアーに攀じ登って、当然だがチェアが倒れて、あごを怪我し3針。蜂の巣に手を突っ込んで蜂にされる。転んで頭を打って三針ぬったこともあった。救急車には弟は3回乗った。私は一回も乗ったことがない。
姉の私は、というと、小さな蜂の巣をつつこうとしている弟を「大丈夫なのかしら」と思いながらも、容認して、やっぱり刺されてダメな様子を見ては「だめなんだ~」と納得。観察結果だけはもらった。
この外道クライマーという本は、そういう感じの本だった。
「ええ~大丈夫なの~?」と思いながらも、やりたいことをやりたいのだから仕方ないねぇ…と容認し、「やっぱり言わんこっちゃない…」、でも、「とりあえず生きて帰れたから良しとしましょう」、という感じだ。
それが、”外道”クライマーなのかどうか??? それって”王道”クライマーなのかもしれないんだが・・・(笑)。
宮城さんは、ちゃんと生きて帰ってきているので、「言わんこっちゃない」ではなく、「もう好きにやっちゃってください」なのだ(笑)。
■ 共犯者
考えてみると、山岳会による山行管理も、そのようなものかもしれない。
無茶だということは、分かっている。46日間のタイ遡行なんて、往年の沢ヤからさえも、「その山行って何が面白いの?」なんて感想を受け取っていた。(私は去年の仙人集会で報告を聞いている。その場でそういう質問があった)。
ただただ不快感との戦いのようにしか感じられない沢山行だ。
この感想は本を読むと変わったが、一般的な沢登りの喜びとは、全く違う内容の山行だということは言える。
でも、行きたいんだからねぇ…仕方ない。
そう言う場合、山岳会の仲間として(山岳会ではなくても)、すべきことは、その気持ちを共有し、プロセスに参加し、帰ってこれる場を確保しておいてやる、という事だけなのだろう。
つまり、理解者でいること。
この外道クライマーを読むことで、理解者は必ず増える。
だから、外道クライマーを出版したことで宮城さんは多少生きやすくなっただろうと思う。
(私に関して言えば、こんな細い腕でクライミングに立ち向かっているのだから、夫にもその心理を理解しておいて欲しいノダが、夫はまったくそのような共感者になってくれそうな見込みはなく、現在のところ、孤独に戦っている。)
■ 那智の滝
那智の滝については、「あらまー」という感想しか持っていなかった。
私は、この事件当時普通の登山しか知らないので、御神体に属している滝などを登攀対象にしたいと思う思考回路そのものが理解の範疇外で、3人が受けた処分もまぁそんなところだろうなぁとしか感じなかった。
顛末がこの本には詳述されているが、”こっそり隠れて登ろう”と思っていたところを、「日本一の滝に登るのだから、白昼どうどうと登らなくては滝に失礼だ」と意識が転換するところなど、山ヤらしくて笑ってしまう。
あー、分かる分かる~ こういう人いるよね~。
気持ちは分かるけど、滝への礼儀を心配するより、自分の身を案じた方が良いシチュエーションだ(笑)。
案の定、つかまっているんだが、警察の方は、あまりお咎めの雰囲気ではなかったらしい。まぁ凶悪事件のような、意図的に悪意を持って成した罪ではないのだから、咎め立てというより、「君たちも大人になりなさい」的な対応であるのは、当然だろう。
子供の頃、母親が大事にしていた石膏像、カッパヴィーナスに、ブラックのペンで目ん玉を書き入れてしまって、怒られたことを思い出す・・・。
子供の頃は、特定のモノ、物体に、特別な意味を与える人間が滑稽に見えていた。
カッパヴィーナスはただの石膏像で、しかも子供の手で撫でるので、もはや陰影がわからないくらい汚れていた。母にとっては、輝かしい青春時代の、自分が輝いていたと思える時代を思い起こさせる大事なものだったのに、3人の子供たちにとっては娘時代の母など、想像もつかないから、母の宝物と分かっていても、どうしてもそのヴィーナス像で遊んでしまうのだった。
那智の滝の、顔を真っ赤にして、かんかんに怒っていた宮司は、きっとカッパヴィーナスを台無しにされた母と同じ心境なのだろう。
そうした機微が理解できるには、成熟が必要だ。
■ フリーと沢ヤ
私は沢登りが好きなのだが、それは基本的に穏やかな川の流れが好きで、この本で紹介されているような、悪絶と形容されるようなゴルジュや、登攀的に難しい悪い滝が好きなわけではない。
薄暗く陰気な沢はあまり好きではなく、明るく、さわやかな清流の沢が好きだ。ほら貝のゴルジュはとっても楽しかった。
そういう場所ではない称名の滝が、沢ヤの男性たちには、挑戦の対象として、とても人気が高いのは、一体なぜなのだろうと思っていたが、とりあえず理解はできた。命がけだからなのだ。
それにしても、大西さんの評価が非常に高いのには驚いた。
去年、仙人集会でお逢いした大西さんは、軽い雰囲気の、どこにでもいる、あんちゃんという風情だった。他の大御所和田さんとか、成瀬さんの迫力はない感じだった。
それに、もともとフリークライミング出身で沢ヤというのが驚いた。
フリークライミングの人は、悪いのを嫌がることが多いからだ…。濡れている岩なんて…という言い方をする人も多い。だから、フリーの人と沢の人は別人種だと割り切って、こちらもフリーの人を沢にさそったりしない。
沢では難しい滝でなくても、濡れて滑ったり、こけていたり、ホールドが欠けたりして悪いので、沢ヤの方には、もっとフリークライミングの力をあげた方がいいよ、と言ってあげたくなるが(私自身、大したクライミング力はないが)、沢やさんは岩では精彩に欠ける人が多い。
沢ヤはフリーの岩場では、まったく魅力に欠けるというか、そんな確保だとだれも一緒に登ってくれませんよというような、いい加減な確保をしていたり、ウエアもダサくて、なんとなく、ギアもクタびれていて、大丈夫なのかなぁ・・・と不安を抱かせるような人が多い。一言で言えば古臭い。
たぶん、沢ヤは沢では落ちられないから、落ちることを想定していない確保しかしていないのだ。しかも、登攀でも、ちょっとしたことですぐAゼロする。
私もAゼロするので、よく叱られるが、握力18kgの私がAゼロするのと、沢歴8年がAゼロするのでは違うでしょう!と自分を棚に上げて、なんでもありで解決している沢ヤにあきれたりする。フリーで登りましょうよ、フリーで・・・などと思ってしまうのだ。一度など、沢ヤをクラックに連れて行ったら、1本目でパンプして腕アウトだそうだった(汗)。
そういう下界の事情を多少解明しつつあった身からすると、大西さんは恐ろしく山のすべてにオープンなクライマーだということになり、その受け入れ幅の大きさに驚いた。
フリーも一流、沢も一流なんて、すごい!しかも、”ドーダ俺”風が出ていなかった(少なくても去年お会いした時は。)
■ 研ぎ澄まされた感覚の向かう、二つの方向
勉強になったのは、安全係数。ギリギリであるほど、研ぎ澄まされた、という表現を使っている。
私は安全マージンを大きく取り、10の山に登るために12の力をつける。ので、私にとってはギリギリは、研ぎ澄まされた感覚というより、感覚がマヒした、と言う方が近い。
以前厳冬期八ヶ岳に行った。その日は午後から寒気が入り、翌日はー35度の寒気。仲間はジャージにゴム手という、その辺の里山にいってんじゃないよという軽装。そういう軽装ではなくても、私からすると、午後に稜線しかも、ワンピッチとはいえロープが出る山にいるということはありえない。一緒にたまたまいた老舗山岳会の人も同じ意見。11時敗退。
ところが仲間はもっと行けると判断していた。この判断はギリギリに近づく判断ではあるが、私なら研ぎ澄まされたとは表現しない。考えの浅い判断と表現する。しかも、素手でピッケルを握っていたりするのを見て、その私の考えは確証を得たと感じられたくらいだ。
私にとって、研ぎ澄まされた感覚とは、自分の身に降りかかりそうな災難を避ける感性を言う。嗅覚と言うもの。
例えば、前にショートローピングで1人に3人が数珠つなぎになった時は決死の覚悟だった。当時はショートローピングなんか知らない頃だから、完全に自分で感知した危険だ。だから、登攀が終わったらホッとしたし、その並び順が弱い順ではなかったので、リーダーには文句を言った。
小指の太さほどの立木を支点として使う・・・つまり、ギリギリへ向かう・・・ことも、研ぎ澄まされたと表現できるんだなぁ・・・。
たしかに、安全係数が少ない山のほうが、多い山より評価できると思う。
でも、ジャージで翌日ー35度の寒気が入る山に、午後になっても森林限界上にいるのは、良い登山と言えないと思う。
■ 山ヤの評価
評価されるべき山行が評価される世の中であってほしいと思う。
大西さんがなしたことが分かる人が少なくなっているのは確かだ。
だが、称名の廊下の悪絶さというのはやっぱり普通の人には絶対に分からないし、アルパインをやっている人でも、そうとう深くまで足を突っ込まないと、分からないのではないだろうか?
行ったことがないから、本人しか様子が分からないのだし、しかも山ヤさんっていうものは、だいたい誇大表現が多いので、客観的な難しさの基準をもつ、というのが難しい。
しかも山は自己満足、という、極めて主観的な価値観が登山の成否を決める活動だ。
だから、当人にとって、すごいことが周りのあらゆる人にとって、すごいかどうかというのは、きわめて判定が難しい。
でも、やっぱりどこかに共通するラインと言うのがあり、大西さんを宮城さんがすごいといい、偉業だというのなら、それは本当にそうだと思う。
大体、宮城さん自体が一般人の考えるスゴイを越えたところの山をしているからだ。すごさの基準がどうであれ。
これだけはいえるということがあるとするなら、エベレストをガイド登山で登っている人よりも、少なくともスゴイ。
エベレストは未知でもないし、ガイド登山では自分でルーフファイするわけでも、進退の判断をするわけでもないからだ。しかも自分の荷さえ担がないかもしれない。
■ 山ヤらしい山行だった
去年は、たまたまご縁があって、仙人集会に参加した。
その時にも、タイの山行が報告されたが、一言でまとめると”不快感との戦い”がもっとも印象に残った山行だった。
素晴らしい景色が見れたとか、すごい冒険だったという事よりも、毎日毎日ジャングルの河を遡行する、不快な気温や虫やヘビ、不衛生な環境や空腹に耐える、ということだったからだ。
ので、冒険と言うよりは、どこか強制収容所から命からがら脱出してきた難民のような雰囲気が漂う山行で、わざわざお金を貯めて、この旅をしたいとか、この山行を再びしたいというような楽しみ…ご褒美がある山ではなさそうだった。脱出行、という感じ。
だが、この本を読んで印象はがらりと変わった。
話に聞いただけでは、理解ができなかった悪条件での山行で、登山者が何を学び、何を経験したのか?が分かり面白かった。文章も良く、読ませる文章だった。
正直言って、宮城さんの山行は、ゲテモノ系だ。ところが、心はまっとうな山ヤではないか(笑)~と思ってしまった。
山の世界では、全くの新参者の私が言うのもなんだが…。山の師匠からは、色々なことを教えてもらったが主に山ヤの価値観と言うものを教えてもらったと思う。
未知・未踏へのリスペクト
ピークへのリスペクト
GPSを使うことへの躊躇
外部の助力を得ることへの躊躇
野生の生命への尊厳
面白いのは、そんなものが丸でない人とパートナーを組んでいることだ。
そのおかげで、より山ヤ的価値観が鮮明になっている。
パートナーに宮城さんがウンザリするたび、私も同行者にウンザリさせられた経験を思い出した。
たとえば、テント泊で朝起きたら、シュラフにくるまったままでお化粧大会が始まってウンザリした。普通は朝起きたら一番にシュラフを畳むものだと思っていた。私はシュラフを畳んですっかり朝食の準備をしようと皆を待っているのに…。
山ヤが山ヤではない同行者を持つと苦労するのだが、苦労は一緒だったのね、というような感じ。
え~このシーンでは、こうするのが山ヤの常識だろ~というような、フラストレーション。
もし一宿一飯の恩を受けていなかったら、もっと良き山になるのに、という小さいが、後を引く”自分に負けちゃった感”とそれを共有してもらえない、空振り感…。
私はウンザリしたら、もうその人とは行かないタイプだが、それでも、まぁドタバタ喜劇のような事をウンザリさせられながらも、繰り返しながら、山に行きつづけるのも大事なことなのかもしれない。
宮城さんほどの人でも、そうしなければ山に行けないんだからなぁ…
統制のとれた行動というのは、どんなレベルの登山者にとっても、絵に描いた餅で、今の時代では一番得難いことなのかもしれない…
外道クライマー