■成果主義の悪影響
クライミングの成果をグレードだけで測ることもそうだが、ある経験の価値を、回数や山の高さ、そういったもので測るという価値観に、我々はいつの間にか侵されている…。
例えば、日本百名山、は、100という数で山をとらえたせいで、数が多いほうがえらいという無意識の前提を作り出し、
「おたく、何個め?」という登山者が大量発生
することになった。多いほうが勝ち、という価値観を無意識の前提に背負っている。
さらに言えば、名山、という区別を山にいれたことで、
山には、名山と非名山がある、という暗黙の価値
を導入することになり、槍などの特定の山に人々は行列を作ることになった…
■ 岩場
しかし、岩場に行くようになると、クライミングの価値は、さらに貶められており、
「俺、2段」とか、「5.14」とか「V16」とかだけが、価値があり、
仲間との楽しい時間
山そのものとの語らいや岩そのものとの語らい
健康
良い思い出
そういうものが軽視されるようになった…。我々が山に行くのは、誰かに山頂の写真を見てもらって、いいね!をもらうため、だったのだろうか?
本当はそれぞれ心に山に行く理由があったのでは?
例えば、今日はゆっくり山でも歩いて、亡くなった愛妻との思い出を振り返りたい、とか。
岩場にいくのは、記録更新のためだったのだろうか?
■ 誰かの愛を感じる場
世界的クライマーのユージさんの開拓の記事は、お父さんが作ってくれたハンガーの話だった。
いい記事だなぁと思った。
私が岩場の開拓のお手伝いをしていたのは、単純にクライマーで、暇そうなやつは、少なく、お鉢が回ってきたからで、別に名誉を求めてのことではない。
米澤先生だってそれは同じであろう… 大体が、コケとか、泥とかの戦いだし、長時間ロープにぶら下がるのは、腰を痛める。
クライミングにおいて、一番楽しいのは、オンサイトで登ることだと仮定すると、開拓は掃除している間に、課題に慣れ親しんでしまうので、開拓者はオンサイトから最も遠く、伝統的なクライマーの価値観で言えば、損と言える立場だ。
それでも、岩場が好きなのは、
自然の中にいることで得られる、ピースフルな時間が好きだから、
で、私は別に強いクライマーでもないし、年齢柄、今から競技に出て勝ちたいとか野心があるはずもないのだし、自分との闘い?は別にすでにやって勝利してしまっているので、岩場で自分と戦う必要もなく、別に誰かと競争しようと思ったり、リア充アピールしようと思ったりしたことはない。
だからと言って、私の記録がしょぼいだけのものだと思われたら困るが…そこら辺の人には不可能なことをしてきたというのは、その通り…。
記録のすごい・すごくないで勝負しようと思ったことはないが、槍に行列作っているその辺の登山者と同じ扱いを受けるいわれはない。
■ クライミングの価値は、今、何に求められるのか?
最初は、”未知”で、次は”困難”、と進んできたわけだが、困難を突き詰めようとするあまり、人類はクライミングから、”自然界の中で行う”を捨てることになった。現在の主戦場は、人工壁、なんだが…。
つまるところ、競争し、達成すること、が、資本主義の定番ライフスタイルとすれば、オルタナティブは?
バムライフ?
バムライフ第一号の故・吉田さんは、いかなる傷を抱えていたために、53歳で亡くなることにしたのかなぁ…
猫ちゃんが亡くなって、目標としていたプロジェクトもあると言えばあるし、ないといえばない、と言う状況で、やりたいことはやり切った感、というよりも、もう心が燃えるようなクライミングはない、したいことはない、と言う感じだったかもしれない。
最後の次期を知る者としては…クールだったなぁ、吉田さん、と思う。
覚者と言う言葉が似合いそうだった。
第三のクライミングの価値は何だろうか?
そこらへんの問いを現代人はやめてしまい、価値が分からないとなると、日和見菌みたいに、人気投票に群がることになる…という、if you don't know where you are going, any road will get you there路線、に陥っているんだよなぁ。
クライミングの価値は何ですか?
吉田さんなら、なんというのだろうか?
少なくとも、死を敗北と捉えていなかったと思う。
状態の変化の一部というか。なんせ、死の理由は、病気ではない。
生まれたから、なのだ。
トップクライマーたちに語ってほしいのは、クライミングの価値、だ。
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