■ 愛で紡ぐ山
最近、いつも思っていることがあります。それは、連れて行ってあげたい、という気持ちが連鎖していくのが、本来あるべき山の成長のプロセスで欠かせないものではないのかな、ということです。
新人さんが来たとします。すると新人さんは一生懸命でしょう。そして、新人としてきたからには、行きたいところ、があってのことでしょう。
それにつれて行ってあげられるかどうか?
それは、そもそも、その新人さんの実力次第であると思います。まぁ、実力がきちんとあったとしましょう。
そうすると、先輩たちは来てくれたんだから連れて行ってあげたい!とたいていの場合は思うでしょう。
実力未満だったら、実力がついたら、ぜひ連れて行ってあげたいと思って実力がつくようなルートを提案してくれるでしょう…
というので、結局、連れて行ってあげたい!ということがいつになるか、その早い、遅い、はあったとしても、ぜひ連れて行ってあげたい、山の世界を見せてあげたいという気持ちは、あるでしょう。
決して、それは、”どれどれ、お手並み拝見”みたいな気持ちではないと思います。さらに言えば、”ふーん、あっそう”みたいな気持ちでもないと思います。
最初に、”俺は登れるぜ!どうだ~”みたいな新人さんもいます。もちろんやる気がある、向上心がある、というのは大事なことですが、あまり登れますアピールが強いのも。
そうなると、連れて行けるところどころか、”連れて行っても、落ちられるかもしれない”と心配になって連れて行けないかもしれません。イケイケというのは抽象的な言葉ですが、実力を過信している人だと、どうしても、事故のリスクが増えます。
そうなると、今度は、レスキューしてあげなくてはいけなくなります。
というので、心配に…
やはり、山というのは、憧れ、それに向けて努力して、そして、どきどきしながらチャレンジして、チャレンジしたらあっけなく登れた、というのが、あるべきプロセスのように思います。
予想がゆとりがあるほうに外れるほうが安全です。したがって計画は弱気に。
しかし、弱気すぎてもいつまでも成長できないので、先輩は、そこを埋める存在として、その人に行けるだろうけれど、本人が行けないと思っているようなところを案内するはずです。
私は初めての本チャンの前穂北尾根は、もう、とんでもない九死に一生みたいなところに行くんだと思っていました…行ってみたら登攀はあっけなく簡単でした…あれ?みたいな。
でも、色々なことが分かって、それまで怖かった山が怖くなくなったのです。
なので、それは、やはり、先輩が、連れて行って見せてくれた登山の地平線の進化でした。
「連れて行ってあげたい」それが先輩から後輩に連綿と受け継がれていくのが、登山って気がします。
そうやって人類は歩けるところの地平線をじりじりと広げてきたのかなぁって…そういうタペストリーの中にいる、ということは、とても光栄なことだなぁと最近、とても感謝しています。
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